第5の鍵 ―高揚―



食堂を後にした僕たちが次に足を踏み入れたのは、アンピール様式、つまり第一帝政の名残なごりの空間だ。



何者かに体のを奪われている僕は、不思議でならない。

“略奪者” が嬉々ききとして『第5の鍵』を取り出す、その様子が。



―――なんで……そんなに、嬉しそうなんだ?



この部屋……代々正式に “青の部屋ラ・サル・ブル” と呼ばれて来た場所を、僕はあんまり好きじゃない。

つまり、僕自身は思っていない。

こんな部屋を、人に披露したいとは。



なのに―――いったい、何を企んでる? 僕に突然憑依ひょういした、は……!?



窓がなく、四方を取り巻く壁に大小さまざまな絵画をずらりと並べただけの、何の美学もない広間。

そもそも “青の部屋ラ・サル・ブル” なのに、青くない。

それに……ここには僕の好きな絵は一枚もない。、だ。



言っておくが、どれも、僕が掛けたわけじゃない。


ここは……僕の “管轄外” なのだ。



―――ああ、嫌な場所だ!



この部屋の絵は、全部、この家の権力の

……あえて称賛ほめるとすれば、時代の流れをうまく感じ取り、情報戦を勝ち抜き、奇跡的にこれらの戦利品を守り抜いた先達せんだつの、その立ち回りの上手うまさといったところか。


つまりここは権力のショールームラ・サル・デクスポジスィオンというわけだ。




「この人たちは……」


サングラスを外しながら、ルイがつぶやく。


僕には判断がつかない。

それがひとごとなのか、質問なのか。

にもかかわらず、僕は口を開いた。いや、僕じゃない。また、“” が。



「ほとんど、祖先の肖像です。でも、中には王家のものもありますよ。ほら、あのあたりとか……」



僕の指が示した一帯あたりには、ブルボン家の王や王妃の肖像画が掛かっている。



「それは……たぶん、ルイ14世キャトーズね」


彼女ルイは、つかつかとその絵に歩み寄った。


「やはり、そう。あなたのご先祖様たちは……」


言いよどんでいる。


「? 何でしょう」


「え、いいえ……失礼なことかも、って」


「いえ、ぜひうかがいたいです。どんな失礼なことでも」



僕の心―――もちろん、“略奪者” じゃない、本物の僕の―――は、踊った。期待に。


僕と同じ思いが飛び出る予感がしたのだ。彼女の唇から。



「ごめんなさい。不躾ぶしつけですけれど、とても……上手に生き抜いて来られたビヤン・スュルヴェキュかたがたなんだな、と、思って……」



―――なんと絶妙な表現か!



Des gens qui ont bien survécu.



本当に……絶妙……核心をついている。まさに。

適切な言葉選び。彼女は異邦人なのに。



さて、“略奪者” め。どう答える?

僕は何も言わないぞ……



「そうですね……ブルボン家とも、ナポレオン家とも親しかったと聞いています。しかも、あの革命のさなか、ひとりの斬首者ギヨチネも出していない」



―――馬鹿め!

それじゃ、取りようによっては、“我が家は日和見主義者オポチュニストなんです” と自分から告白しているようなものじゃないか。



ルイの瞳……特に嫌悪感も見せず、すずやかに絵を見ているが、その頬は、真っ赤に燃えている。



僕は、たまらなくなった。

言い訳したい。

僕自身は、そうじゃないことを。

僕の中で、一種の攻防が起きた。


そして……勝った。僕が。



―――やっと!



「僕もね! たぶん……あなたと同じことを感じて来たんです」


「え……」


ルイがこちらを見た。

僕は……良かった、これは自分の声だ。


「どうして僕の家は途絶せずに今まで爵位を継いでいるのか。どうして祖先は革命でこの館を失わなかったのか……よほど……よほど、と」


―――危ない!

もう少しで、喉から出るところだった。

本音が―――


“きっと、多くの仲間の信頼をいち早く裏切って出し抜き、見捨て、逃げおおせた結果に違いない、卑怯な家なんです”


でも、さすがの僕もそこまでは。



「それより僕が知りたいのは、根拠です。なぜあなたがそう思うのかという」


「それは……」


彼女は、白い毛皮のマントを羽織った女性の絵の前に進み出た。


「例えば、この……白い毛皮をあしらった夜会服の……おそらく、ウジェニー……」



―――そう。その絵の女性は、ナポレオン3世皇妃、ウジェニーだ。



「この絵のように……ここは、特別な複製画ばかりだから」


「特別な、とは?」


「……、という意味です」


「! 判るんですか?」


「それは……断定はできませんけど……今はまだ、個人的な意見を言っていいんでしょう?」


「もちろん」



彼女の顔が、絵に近づく。


ちょっと、近づき過ぎか、というぐらいに……



「……このウジェニーは、確か……1865、いえ1864年に描かれたもの。オリジナルはコンピエーニュ城にある。だからこれは複製画」


「確かに。確かに、おっしゃるとおり、これは複製です。でも……でも、あなたがとおっしゃる根拠は? 最近の複製画じゃなく」



ルイは、絵から目を離さない。



「……これは、公式肖像画というより……むしろ作者のヴィンターハルターの作品に近い性格のものです。そしてこの筆跡ふであとは……わずか数秒、というほどのスピード……つまり筆先を走らせた強弱だけで、形や光を勢い良く描き出す技は……ヴィンターハルター本人か、あるいは彼の工房の精鋭にしかできない芸当。つまり、オリジナルと同時期に描かれたものだと。もちろん、科学的証拠のない、あくまでも個人的な印象ですけれど」



―――言葉を失った。

僕も……おそらく、僕を乗っ取ったも。



彼女は、タブレットもスマホも見てないんだぞ。

ノートも、例のバインダーも、ここには持って来ていない。


それなのにこれほど多くを語れるなんて。

こんなにも、すらすらと。


しかも……話は、それで終わりじゃなかった。



「このネックレスに幾つも下がっている、梨の形の大粒の真珠は……おそらくティアラディアデムから取り外したものでしょう。アントワネットのジュエリーから改作されたもので……こんなふうにネックレスに取り付けたり、アレンジできるように細工されて……現在はディアデムに取り付けられて、ルーヴルにあるはず」



第三帝政の宝冠ディアデム……

想いをせる。


今までルーヴルに行くたびに、あまりにもしょっちゅう目にし過ぎて、もうなんとも思わなくなっているその宝冠に。


でも、子供の頃は違った。


初めてあの冠を見たとき、僕は思ったんだ。

なんと堂々とした、なんと美しい冠だろうかと……


―――そうだ。思い出した。

自分もかぶってみたいと言って、誰かに笑われた……誰か……あれは、父だったか……?


―――知らなかったんだ、僕は。

その冠が、皇妃ウジェニーのためのものだったなんて。



そして……まさか……


この館にずっと飾られていたこの絵の中に、あの宝冠の真珠が描かれていたなんて……



僕のこの気分……なんだろう?


浮かれるような……?

そうだ、これは、というやつだ。


―――僕は、“ワクワクしている” !?



ルイは、話を続けている。

広間の肖像画について、僕が知らない話を。

フランス人の僕が。

当主の親族である僕が。



しかも、その話が……どれも面白いのだ。



アンヌ・ドートリッシュ、マリ・ド・メディシス。時代は下ってマリ・レグザンスカ、マリ・アントワネット、ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ……



それぞれの肖像画に関する、僕とは異なる……いや、僕にはなかった、ルイの視点。



王妃から王妃へと受け継がれて行く宝飾品。

それを巡っての、ちょっとした謎解きを味わう気分。



あふれるそれらのデータは、すべて彼女の頭の奥に格納されている。

このまま放っておけば、ずっと話し続けるんじゃないだろうか。



「そろそろ、お疲れでしょう……」



マリ・ルイーズの絵を見上げているルイを、僕は軽くうながした。


足音が近づいて来る。

執事の足音だ。

たぶん、昼食の用意ができたことを告げに。


つまり、もう2時間? いや、3時間近く、彼女は僕に講義を披露してくれたことになる。




「ええ、伯爵。でもちょっと待って。おうかがいしたいことが、私からも」


「なんでしょう?」


「どうして、この部屋を “青の部屋ラ・サル・ブル” と?」



僕は、笑った。

僕がいつも思っていたことを彼女が口にしたからだ。



「さぁ、ね。僕も同じように思いますよ。“なんで青の部屋なんだ? ちっとも青くないじゃないか!” ってね」



ルイの頬が、また、赤くなった。



「いえ、そんな……そこまでは」


「……ドルセー伯って、ご存じですか?」


「ドルセー……ひょっとして、アルフレッド・ドルセー伯爵のことかしら?」


「当たり! そうです。その人物」


「確か……19世紀? 洒落者ダンディで知られた人よね?」


「ここが改装された時、小さいながらも披露宴を開いたそうです。そこに招いた賓客ひんきゃくのひとりが、ドルセー伯で。その彼が、あの天井画を見て……」


僕が3基のシャンデリアが掛かる天井を指すと、ルイはその動作に合わせるように、目を向けた。

だが、次の瞬間……彼女が取った行動は、僕が思ってもみなかったものだった。


目をすがめ、さっとサングラスを掛けたのだ。


「……天井画の……色を……」


たちまちしぼむ、僕の声。

気持ちをがれて……


「……そこに描かれた空の色を指して、ドルセー伯が名付けたのだそうです」


最後の方は……フェード・アウト。

ボソボソと、説明を終わらせた。


そんなのサングラスを掛けていたのでは、あの天井画の淡い水色は見えないだろうに、と、思いながら。




このとき、僕は、気づいていなかったのだ。不覚にも。


彼女ルイが再びサングラスを掛けるまで……

それサングラスが、“ファッションの小道具” などではないことに。




青の部屋ラ・サル・ブル” を出る時には、サングラスはもう、移っていた。彼女の頭の上に。


僕の横を歩くルイ―――僕たちが廊下を曲がると、彼女の指は、サングラスに伸びた。ごく自然な……無意識の行動。



廊下の窓からは、日光が射しこんでいた。



“日光……”



僕は、ハッとした。


……?




「そんなに……まぶしいんですか?」




この言葉に、ルイはビクリと肩をすくめた。


「……ぶ、無作法、かしら?」


慌ててサングラスを外そうとする。

僕は制した。ルイのその手を。


「いえ、ちょっと……聞いてみただけです。お気になさらず」



―――思い出したのだ。

ゆうべ、部屋係が口にした言葉を。



そういえば、“青の部屋ラ・サル・ブル” の彼女は、ずいぶん、絵に近づいていた……


ブルボン家からボナパルト家に至るまでの王族の肖像画……彼女が見て、解説した絵の数々……は、ちょうど僕の頭より少し上ぐらいの高さに並んでいる。

だから、壁からは離れたほうが見やすいはず。

そのように計算して、掛けられているのだ。


ところが……離れている時の彼女は、自信なさげだった。

たぶんpeut-être”、“おそらくprobablement”……


彼女が確信を持って描かれている人物の名前を呼んだのは、壁の間際にまで近づいてから、だった。





軽い昼食が用意された食卓に着くと、彼女は少し迷いを見せたあと、思い切ったように口を開いた。


こんどは、サングラスのを指で触りながら。


「あの……伯爵、実は……」


「?」


「……やっぱり、ちゃんとお話しておいた方がいいと思うので……」


「? 何でしょうか?」


「私……アルビノアルビニズム、なんです」


「……パルドン?」


突然の言葉で、よく判らなかった。


「アルビニズム。そのせいで、視力も弱いし、明るい光は目を刺すように感じるの。……だから、私にはが必要なんです。明るい場所では……たとえ無作法でも」



―――そうか。そうなんだ。だから……



“アルビニズム”……言葉じたいは知っている。



でも……

彼女は、ずいぶん、違う。

僕の中の、アルビノのイメージとは。


アルビノといえば、全身が真っ白で、目が赤い人……そんな印象があった。



そのとき、クスっと笑う気配を感じた。



「アルビニズムっていっても、いろんな因子いんしタイプがあって……人それぞれに、発現する症状は違うんですよ、伯爵」


そう言いながら、ルイはサングラスをちょっと下げ、青みがかったハシバミ色の瞳を僕に見せた。


「私の目は、赤じゃありません。生まれた時からね」


図星だった。

見抜かれている。


「あー、いや、失礼。そんな風に思ったわけでは……」



僕はまごついた。

否定はしたが、恥ずかしかった。

自分の無知を晒したようで……彼女を傷つけはしなかっただろうか?


彼女を見る。


良かった。目が笑っている。口元だけでなく。



「こういう……太陽の光が射しこむところや、明るい光源の近くでは、サングラスをしていないと目が痛くなるんです。それに弱視だから、遠いと、いろんなものがはっきりとは見えないの」


「じゃあ、そのサングラスには、度が入っているんですか?」


ルイは頭を横に振った。


「アルビニズムの弱視は、眼鏡で矯正できるものじゃありません。自分が近寄るしかないんです」


ああ……それで。



僕の脳裏に浮かぶ。


さっき、まさにルイが絵の間近にまで迫って行く姿が。

見ているこっちがハラハラするほどに……


そして、昨日の学芸員の言葉。


あの学芸員は、こう言ったのだ。

―――“階段を上り切って、掛かっている絵の間近に近づく様子”を見た―――と。

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