第5の鍵 ―憑依―



ベッドでちゃんと眠った割に、睡眠が浅かったのか……


翌朝の目覚めは―――ひどく悪かった。いつも以上に。



回らない頭のまま洗面所の鏡を見て、僕はハッとした。

いつの間にか、Tシャツに袖を通していたのだ。



―――駄目だ駄目だ!


ちゃんとスーツを着なきゃいけないんだった。



歯磨きもそこそこに、僕はTシャツを脱ぎ捨て、クローゼットを開ける。


シャツの裾をトラウザーズに突っ込む。

すべってうまく扱えないタイを適当に結びながら、“学芸員に鍵渡すの、何時だっけ” と、ぼんやりと考えた。

昨日、とっくに終わらせたことを、今日の予定のように。


―――寝ぼけていたのだ。



呆けた頭のまま、僕はジャケットを肩に引っかけて、食堂に入った。朝食をりに。




その時……僕に何が起きたのか?


自分でも、解らなかった。




僕の足は入り口で凍結し、僕の目は釘付けになった。に。


体が……突然、時間ときめた。




食堂の……テーブルの端―――なぜかをかけた、彼女。

カフェコーヒーか何かを、口に運んでいる。


白いブラウスの陰影が描き出しているもの……


それに……すらりとしたライン……黒のロングパンツの……




ドクン、と、心臓が

僕の心臓が。


気のせい?

いや、でも……確かに、跳ねている。

ほら、今も……胃や肺を押しのけて膨らむ感じ……そして体の中に響く音。


息苦しい。


僕は慌てて自分の胸に手を当てた。

“それ” が、発作か何かの予兆なのかと思って。

そして、身構えた。

何か……尋常ではない苦しみがやってくるのではないかと。


けれども……何も起きはしなかった。

代わりに僕の耳に届いたのは、暗に僕をとがめる、低い声だった。



「ああ、旦那様! お呼びいただければ!」



執事の声……無念そうな。

それを、僕は手で制した。



―――解ってる。

今日の僕は昨日の僕と、まるで別人だよ。

だけど今は、僕のスーツのなんかよりも、いまそこにいる彼女ひとの存在の方が、よほど重要なんだ。




「ボンジュール……」



ぎこちない僕の挨拶。彼女が反応する。


なんの飾りもない、ミニマリストのスタイル。

究極にそぎ落とした……けれど、ああ、けれども、なぜこんなに……僕はき付けられる?


僕の夢に何度も登場し、さんざん僕を楽しませて来た、ったレースやフリルにリボンといった “マリの装飾” とは、言わば、対極の姿。


にもかかわらず、僕の目は……離れられない。彼女から。



「ボンジュール、伯爵。ゆうべは泊めてくださって、ありがとう」



言葉に合わせて動く唇と、そこに垣間見える美しい歯並びが、鷲掴みにした。

僕の中のを。

その目もとが黒いグラスで隠されているからだろうか……



「いえ……とんでもない。当然です」



何が “当然” なんだか……自分でも意味がわからない答えだと思いながら、僕は、自分の席に腰をおろす。


すぐにパンかごやココアショコラ・ショーやミルクのポットが供され始めたが、僕の目は奪われたままだ。

目の前の女性ひとに。



「……よく似合っていますね……」



彼女ルイは一瞬、指で、サングラスのに触れた。


だがすぐに違うと思ったようで、頬を赤らめた。


「あ、そ、そう……これ……の服、よね……。助かったわ。ありがとう」



ルイの唇が、華やかな笑みをたたえた。




―――ああ! まただ。また、動悸が……




「なに、構いませんよ。お好きになさるといい、



ルイの口もとに、はっきりと判る “驚き” が浮かんだ。


驚いたのは、僕もだ。




―――乗っ取られた!? 魂を? 何に???




そう、僕は思った。


僕の口が、から。




どうして、僕はそんなことを?



―――誰かが言わせてる。僕の口を乗っ取って。



これは “乗っ取り” だ。


何かが僕を僕のすみに追いやり、僕の代わりに話してる。


その、“僕ではない僕” は、さらに、勝手なことを次々に口にし始めた。



「そうそう……昨日あなたがおっしゃっていた、あの絵のことですが……」



僕自身は、僕の中でじたばたしているだけ。何かに乗っ取られて。



―――いったい、僕は、何を言ってるんだ?



「確かに……あの絵は、ここにあります。お見せしてもいい」



ルイの頬……みるみる赤みを増していく。



「だけどあの絵は公開はしないことになっているものなんです。だからお見せするとしたら、それなりに条件があります」



条件、という言葉を僕……いや、僕ではない何かが発したとき、ルイが微かに体を硬くしたのが伝わって来た。

警戒したようだ。何を言われるのかと。

僕だって……僕だって、僕の口が何を言い出すのか、戦々恐々せんせんきょうきょうだよ!



「ええと……きっとあなたにはそんなに難しいことじゃありませんよ。ただご意見をいただきたいだけなんです。この城の宴会の間サル・デ・バンケ……“青の部屋ラ・サル・ブル”とも言うのですが……そこの絵に描かれている、幾つかの宝飾品についての、あなたの見解を」


「わたしの……見解を?」


「ええ、そうです」



宴会の間サル・デ・バンケ

『青の部屋』……『第5の鍵』 の部屋だ。



宴会の間、とは名ばかり。


まぁ数名だったらぎりぎりダンスができるかな、という程度の部屋だ。


だが……確かにそこには、幾つもの肖像画が掛かっている。

この館の資産の一部が。



「但し、期限があります。そうですね……あと5日……今週の金曜日までに。もちろん、主要な絵についてだけでいい。どうです? お引き受けいただけますか?」



僕は……は、茫然ぼうぜんと……ただ、見ているしかなかった。その場の成り行きを。

すべてのコントロールを何者かに掌握にぎられて。

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