不思議の国から


ついさっき、あれほどまでに有難く思えたのに。


執事の姿に、今はすら感じている。

我ながら、勝手なものだ。



話そうとした、まさにその時、出鼻でばなをくじかれた。

出口を閉ざされた僕のは、僕の中ではもうすっかり沈殿してしまっている。

きっと、それを言う機会はもう来ないだろう。

そんな気がする。



今は、ここでの彼女ルイの様子の方が、気になり始めていた。




回廊では、弱った青年に見えた。


『金の間』 で目覚めた途端に、野良猫みたいになった。


むさぼり、そして突然、エキセントリックに……


サロンでは、何故か彼女にバロック時代のドレス姿が重なって見えた。

……それはまぁ、こちらの勝手な妄想だったが……


今、食卓についた彼女は、なんだか “寄宿舎の新入り” みたいに見える。



どうも……掴めない。




ただ、なぜ “寄宿舎の新入り” みたいに見えるのか、その理由は、すぐに判った。



のだ、彼女は。


こんなふうに給仕されることに。

そしておそらく……こんな場の食事そのものにも。



ナプキンをいじったり、給仕する者の動作に驚いたり、その顔をじっと仰ぎ見たり。


彼女は、いぶかしがっている。

給仕の無愛想……つまり、表情や笑顔がないことを。


給仕の “存在” を “意識しない”……それは、極めて当たり前のことなのだが……

彼らはそうされることを前提に、役割を果たしている。



たとえ “あるじ” が鍵で出入りする場所であっても、自分の分担に限って、彼らは指紋認証だけで出入りできる。

それは彼らが言わば黒子マシノだからだ。


黒子マシノの存在は無視されるべきもの。

つまり僕らは彼らを

それが、暗黙の了解。


なのにほら……彼女はまた、


給仕もずいぶんやりにくそうだ。




僕は助け船を出すことにした。


僕には、彼女が居心地の悪さを感じないように “もてなす” 義務がある。

成り行きとはいえ、ルイをこの館の “客” にしてしまったのは、僕だから。


マリについて話すのは……後でだっていい。



「ところでルイ。さっきから思っていたのですが、あなたはそのフランス語をどこで習ったのですか? あんまり素晴らしいから……」



僕は、そう、切り出した。

彼女が肉のカタマリを口に入れるタイミングを見計らって。

もちろん、給仕から気を反らさせるため。


「発音がとても綺麗だし、文法も語彙ごいも完璧ですね。



―――止まった。彼女の手と口の動きが。



僕は、眉を上げ、手のひらを上に向けて、ヒラヒラさせた。

どうぞ、どうぞ。

“慌てて答える必要はありませんよ” という意味だ。


やがて咀嚼そしゃくにひと区切りがつくと、彼女はカトラリーを無造作に置き、水を飲んだ。

そして、また、ふーッと、息を吐いた。

さっきほど大きくはなかったけれど。




「私は……日本から来たんです。フランス語も、日本で勉強したの」



―――驚いた。



「……本当に!?」



『金の間』で彼女を見ていた時……確かに、一瞬、頭をかすめた。

東洋人かもしれない、という考えが。

だが……まさか日本人だとは思わなかった。



僕が学んだ美術学校ボザールには、何人もの日本人留学生がいた。

だが、彼らは彼女ルイとはまるで違った。


日本人の留学生たちは、ルイよりもずっと小奇麗なファッションだというのもある。

でも、最大の違いは “R” の発音だ。


少なくとも、僕は逢ったことがなかった。

“R” をフランス人のように発音できる日本人に。



「―――でも、日本で、初対面の人に日本人だと思われることは、まず、ないわ」


それは、ごく小さな声だった。

聞き耳を立てていなければ、うっかり聞き逃してしまうぐらいの。


「……そうなんですか?」


ルイは答えなかった。

その代わりに、何かを追い払うように、頭をかすかに横に振った。


「やめましょう、伯爵。日本の話なんて、つまらないから」


僕の知っている日本人は、日本の話題がテーブルに上がると、たいてい目を輝かせる。

そして熱心に、詳しく説明しようとする。

たとえ自分の専門分野のことでなくても。


ところが、ルイは違った。


日本人に見られることはない、とつぶやいた時のルイの表情は、とてもけわしく見えた。


それに、日本とは言ったけれども、トーキョーなのか、キョウトなのか、一切、語らない。



食事が進み、カフェが出るまでの間に、幾つか解ったこともあった。


ひとつは、ルイがアルコールにまったく口をつけないこと。


そして、何か、深刻な “事情” を抱えているらしい、ということだった。




「―――さっき、ここに泊めてくださるって、おっしゃったわよね」


「ええ」


「……どうして?」


「え……?」


「突然やって来て、倒れたり……ご迷惑をかけて……その上、絵を見せるまで帰らない、なんて言う私を、どうして泊めてくださるのか、どうしても不思議で……」




……それは、まさに、その通りなのだが……


“一体、どんな答えを返せばいいのか?”


僕が言葉に詰まって黙っていると、ルイは唇を噛んだ。


「ああもう……変なビザールこと、言っちゃったわ」


彼女が “ビザール” と言ったのが、僕にはおかしかった。


僕らがよく使う “おかしなドロール” ではなく、“ビザール” という言葉を使いたがるのは、日本人だ。


やはり日本人なんだ。

いくら本人が話したがらなくても。



「ごめんなさい……私、いろいろと、うまく話せてないかも……いろんなことが信じられなくなっているから」



僕は……彼女を見た。まじまじと。

ちょっと、心外、だった。


「信じられない? 僕を、ですか?」


「え、いいえ、そうじゃなく……」


その時、僕は……ルイが細かく震えているのに気づいた。


そう、震えている……目、まぶた、まつ毛、唇……そして、顎。いや、全身が。



何かのストレス?

不安? それともここが寒い? 疲れているから?



休息を必要としていることだけは、確かだ。



―――部屋係を呼んでもらおう。急いで。



部屋係かのじょなら、この館じゅうの備品という備品を……とくに女性が必要としているものが何かを……熟知しているはずだから。



1分と置かずにとやって来た部屋係かのじょに、僕は “お客様” にじゅうぶんな寝支度をして差し上げるように、と言うに、その耳にこっそりとささやいた。


「何か変わったこと、気づいたことがあったら、必ず僕に知らせて。に」と。





―――しかし、その “すぐ” は、なかなかやって来なかった。




部屋係が『金の間』にルイを連れて行き、食堂に残っていた僕の近くを通るまで、たっぷり1時間以上はかかっただろう。


僕は部屋係を見かけてすぐに立ち上がったが、彼女はなんと僕を見て急に足を止め、報告を躊躇ためらを見せた。


もちろん、僕―――今はここの “あるじ” だ―――は、そんなことは





「……ですが、旦那様ムシュー……あの方が、“言わないで”、と、おっしゃるので……」


問い詰める僕に、部屋係は渋る。


だが、余計に知りたくなるというものだ。

そんな風に言われたら。


「そう? 無理に、とは言わないけれど、僕は知っておく必要があるんじゃないかな。お客様に粗相そそうがないようにするためにも」


結局、部屋係かのじょは折れるしかない。


もっとも……僕なんかよりもずっと上手うわてであろう彼女は、は承知しているはず。

この “駆け引き” を……楽しんでいるだけなのかもしれない。


「あの方……目がお悪いそうなんです。でも眼鏡は持ってらっしゃらない。サングラスはお持ちなんですけどね。それに、貴重品は何も。リュックサカドーの中にあるのは、紙製の旅行者用の下着と日焼け止め、それとノートに筆記具、バインダー……」


「それを見たの? 全部?」


「……ええ。セーフティボックスコッフル・フォールの場所と使い方をお教えしようとしたら、“入れるものなんてない” とおっしゃって」


「“持ち物はこれだけなんです” って……ベッドの上に、サカドーをこう、逆さになさって……と」


部屋係は、両手を使い、何かを広げるような仕草をした。


この館には客間は3つあるが、そのうち『金の間』にだけは、ごくごく旧式の、小さな金庫が備え付けられているのだ。


「入れるものはない……」


「ええ。詮索せんさくはしませんでしたけれど、パスポートやお財布なんか、どうなさったんでしょうね。それに……お電話も。ふつうは、お持ちでしょう? でもお持ちではなかったですよ」


そう言えば……彼女ルイがスマホのたぐいを使っている姿は見ていない。


「……まぁ、着るものにお困りなのは確かでしたから、大奥様のクローゼットから、何枚か、お持ちしました。下着やなんかと一緒に。大奥様がお使いにならなかった、のものがありましたので」


大奥様、というのは、僕の伯母。

“彼” の母親のことだ。


若くして亡くなったから、僕には記憶がない。


「あのぅ……いけませんでしたでしょうか?」


僕の無言が、少しは心配になったらしい。


「いや、いいんだ。そう言ったはず。必要なものは使っていいって」


“彼” は、怒りはしないだろう。

母親の形見を勝手に使ったとヒステリーを起こすような、マザコンじゃない……



しかし……どういうことだ?



日本から来たという、ルイ。



財布やパスポートがない……スリにでもったというところか。


まぁ……よくあることだ。特に難民が増えてからのパリでは。


それに、そういうことならという状況とも符合ふごうする。




だけど……では、どうしてここに?


パスポートをられたら、真っ先に警察か自国の大使館に行くのが普通だろう?

あるいは宿泊先に助けを求める、とか。

泊っているところに辿たどり着けなかったのかもしれないが……


どっちにしても、わざわざこんなところに “絵を見に来る” のを優先したのなら、それこそ彼女はとんでもなく風変わりなビザール人、ということになる。




「あの……旦那様ムシュー?」


「……え? ああ……」


「お着替えをお手伝いしようとしたのですけれど、あの方、お断りになられたんですよ」


「ああ、それなら……彼女は “貴族慣れ” していないから」


「いえ、それが……」



言い淀む感じが気になって、僕は次の言葉をうながした。


やっぱり、だ。

部屋係かのじょは、秘密を打ち明けるプロセスを楽しんでる。


昔々の、宮廷人みたいに。


「あのかた、バスルームでご自身でお着替えをなさったのですが、ガウンを羽織って出て来られた後、あざが見えたんですの」


「……痣?」


「ええ。胸元に、いくつか。わたくし、不覚にも驚いてしまいまして」


部屋係かのじょ睫毛まつげを見開く様子が、目に浮かんだ。

そこにはも少々上乗せされていたことだろう。


痣を見咎みとがめた部屋係のオーバー・リアクションが、ルイの不安をあおったのだろうか……



「“言わないで”、か」


やっと、僕は部屋係を解放した。


もちろん、今見たことを誰にも―――たとえ執事にも―――言わないように、と、口留めするのを忘れずに。





しかし、ルイ……不思議な人だ。


強気で出たり、脅したり、泣いたり……


かと思うと、恥ずかしがったり……


人に懇願こんがんしたりするくせに、肝心なことははぐらかしたり。


その不安定な感じは、彼女の性質なのか?


それとも極東の不思議な国の人ジャポネーズということと、何か関係があるんだろうか……?

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