真珠の頸飾り



執事の存在に、これほどまでに “救い” を感じるとは……

この役割を引き受けて以来、初めてなんじゃないだろうか。



―――お手上げ。



頭の中がぐるぐる渦巻くみたいに、わけがわからなくなった僕は、とりあえず執事を呼んだ。



彼は今、僕に考える時間を与えてくれている。リモージュの器にゆっくりとお茶をれながら。

もちろん、当人にはそんな意識などまったくないだろうが。



僕と彼女ルイが今いるのは、食堂から小廊下でつながる、いわゆる “談話室サロン” だ。

ドアはなく、行き来に鍵はいらない。


簡素なだが、洒落た椅子や小さなテーブル、それに今は花瓶の台にしているシガレット・テーブルなどが配された、居心地の良い空間だ。


くつろぎの時、あるいは正餐ディネの後に、祖先たちはここで葉巻をくゆらせ、酒をたしなみ、会話に興じたのだろう。


だけど今の僕たちは、揃って『金の間』を追い出され、仕方なくここにいるというだけ。

社交のためじゃない。




『金の間』では、今、部屋係たちが家具類からすべての掛け布を外し、ほこりをはらい、ベッドを整えている。

ここで僕らの前にハーブティーアンフュージョンと焼き菓子が出されている間に。



―――彼女ルイを、泊めるため。


そのうち、執事が食事の時間を告げるだろう。そこには彼女の分も用意されているはずだ。




言っておくが、僕は指示しちゃいない。何ひとつ。



だけど部屋係は僕にこう言った。


『“あるじ” たるあなた様が『金の間』へお招きになった以上、曲がりなりにも彼女あのかたなのですよ』……と。


執事もそれを否定しなかった。


―――つまり、僕の責任ということだ。




いつの間にかは落ち、回廊の公開時間もとっくに終了している。

学芸員たちも警備員も、明日の朝までは来ない。


彼女をここから叩き出す理由は……見つからない。




でも、僕は見つけたかった。叩き出す理由がないなら、せめて彼女をここに留める理由……自分を納得させる理由を。


だから、置いたのだ。テーブルの上に。


部屋係たちに追い出された時、持って来たもの……つまり、イングランド王妃の肖像画のコピーを。


「さっきのお話、もう少し詳しくお聞かせ願えませんか?」


僕は、指先でトントンと叩いた。

コピーの中のアンリエット=マリの首を。


「この、イングランド王妃のネックレスがどうとか……それがと、どう関係が?」


彼女はハッと顔を上げ、僕を見た。


だが、すぐに視線を反らし、皮肉な笑みを浮かべた。


「そう……やっぱり、伯爵様ムシュー・ル・コーントでもそこまではご存知ないのね……」


「ちょっと待って!」


僕の言葉の調子に、ルイの視線が揺れ戻った。

咄嗟とっさに僕は笑みを浮かべる。これを詰問きつもんだと思わせないために。


「―――いま、どうして僕を “伯爵” と?」


僕は、一度も名乗っていない。


彼女のほほに赤みが射した。

気のせいか? 

いや、やはり赤くなっている。


「さっき、あの……お部屋で、あの女性ひとがあなたに、“この部屋のお客様はあるじたるあなた様のお客様なんですから” って……それで……確かこの館のご主人は伯爵だと、ウェブのクチコミに……」



―――ご明察、というわけか。


「それは失礼しました。名乗りもせず……」

「こちらこそごめんなさい。学芸員キュレーター、だなんて」


ほぼ同時だった。僕らが互いに謝意を表わしたのは。


そのおかげで助かったのだ。名前を言わなくて済んだから。


「……それより、話を戻しましょう。イングランド王妃のネックレスのお話に」


ルイは、少し気味に、顔をかしげた。


「……私はね、宝飾品ジョアイユリを研究しているんです」



ルイが使ったのは、“アクセサリービジュ” ではなく、“宝飾品ジョアイユリ” という言葉だった。


宝飾品ジョアイユリ” ……随分と唐突な言葉だったし、何よりも、まるでそぐわない。

目の前の、飾りっ気のないジーンズ姿には。


「……特に、肖像画に描かれた宝飾品ジョアイユリを」



肖像画の研究家や宝飾品の研究家なら世界中にちらほらいるだろうが、“肖像画の宝飾品ジョアイユリ” の研究とは、珍しいのではないか。

それとも僕が知らないだけなんだろうか。



「……でね、伯爵。たとえ今年、あそこに掛かってなくても、ここには絶対に “あの絵” があると、私は思っているんです。わ」


「おお、ずいぶんと……強気ですね」


この何気ない僕の受け答え―――面白がっている―――が、彼女のを刺激し、の扉を開いた。


なぜなら、そこから急激に変化したからだ。彼女の態度が。


ルイは、一瞬、言葉を切った。

そして、それまでの身構えたような……“防衛” 態勢? いや、“挑戦的” な調子がやわらいだ。


そう……ほんの少し……うちとけた雰囲気をまとい始めた。


「え……だって……どうしてもそう感じるんです」


「絵があると?」


「……その絵に描かれているパールネックレスは、きっと、このアンリエット=マリ・ド・フランスと同じものなの。そうよ、私はそれを確かめたくて、ここに来たの」



―――その絵……“マリ” の絵のネックレスが? それがイングランド王妃のものだと?



僕は、正直なところ、そんなこと……考えたこともなかった。ほんの一度たりとも。


“マリ” のネックレスの由来なんて。


だけど……




僕の中に、単純な興味が湧き始めた。


これでも美術品にたずさわる



絵画の中の装飾品は、デフォルメあり後世の加筆あり、と、さまざまだ。

つまり異なる絵に描かれた宝飾品を同定しようとするなんて……無理じゃないのか?


まして真珠のネックレスなんて……どれも同じに見えるじゃないか。


いったい何を根拠に、同じものだと判断するのだろう?


いや、それよりも……



「一体、どうしてそんなに……ネックレスの行方ゆくえを追っていらっしゃるんですか?」



ルイは、笑った。

それは初めて目にする笑いだった。

テーブルに右肘をついて……少し気怠けだるそうに。



「どうして? 単純な興味で追っては、だめなの?」


「いや、駄目というわけでは……ただ、不思議で」



彼女は、“心外なことを聞かれた” とでもいうような表情になった。



「ご存じ? アンリエット=マリは、チャールズ1世を見捨ててフランスに逃げた卑怯者、なんて言う人もいるのよ?」


「そう?」


僕の中に、チャールズ1世の全身像が思い浮かんだ。

アンソニー・ヴァン・ダイクが描いた肖像画。

人を見下みくだすような、長い顔……


「だけどそれってひどい話でしょ」


「ひどい……?」


「私が調べる気になったのは、彼女アンリエット=マリ擁護ようごしたかったからかもしれないわ」


「擁護、ですか」


「だって、かわいそうでしょ? 彼女は、夫を救おうとしていたのに。自分の宝飾品を売って」


さすがに知っている。それぐらいは。


「チャールズ1世が亡くなった後……息子がイングランド国王に即位するまで、アンリエット=マリはフランスにいたでしょう? フランス宮廷に……」


頭をかしげ、つぶやくようにそう言うと、彼女はテーブルについた肘から先を上げて、こめかみのあたりに指を当てた。


「……あれって、実質的には “居候いそうろう” よね。10年、そう、10年間も居候扱いなんて……辛かったと思うわ。しかも最初の数年間は、内乱であちこちに移動を強いられて。おそらく、かなり困っていたはず。だって、宮廷生活って、もの凄くお金がかかるのよ」



僕は目をしばたたかせた。


―――なぜか?


一瞬……彼女が “宮廷人” に見えたのだ。


ショートヘアに全身デニム、ボトムはパンツという現代の服装のルイ。

そのルイに、重なって見えたのだ。

“マリ” のドレスみたいな、バロック様式の衣裳を着た女性のイメージが。



彼女の口調と、その気鬱きうつそうな様子が、まさに今、に頭を悩ます宮廷人みたいだったからかもしれない。



先代王ルイ13世の妹でも、出戻ったわけで……当時の宮廷が出せる手当てなんて、たいしたものじゃなかったと思うわ」


「当時の……」


「当時の宮廷は内乱続きで疲弊ひへいしていたのよ」


「あー……フロンドの乱?」


歴史のテストを受けてるみたいだ。


「そう。でも、王妃としての品格も保たなくちゃいけないでしょ……果たして彼女が自分のトレードマークみたいなネックレスを売ったのかどうか、どうしても確かめたくなったの」


彼女は手を伸ばし、バインダーを、テーブルの上に置いた。

彼女もまた僕同様に慌てて『金の間』から携えて来たのだ。

そしてその中から、何かを引っ張り出した。

それは、びっしりと文字で埋まった紙束だった。


「……ネックレスの代金は、当時の価格で28000リーヴル。それが、フランスの国庫から支払われていたのよ」


……古い通貨。

その価値は?

僕には、ピンと来ない。

そう思った僕の頭の中を覗いたんだろうか?

彼女はすぐにこう付け加えた。


「乱暴な計算だけど、今の価値で、ざっと40万から50万ユーロというところよ」




ベンツのS650プルマン……僕の頭に、モーターショーの記事が浮かぶ。

今朝、それを見たばかり。

全長6.5メートルのリムジンは、確か50万ユーロだった。


でもそれがネックレスの値段として高いのかどうか……やっぱり僕にはピンと来ない。



彼女は紙束をめくり、付箋ふせんをつけたページを出して僕に見せた。



そこには、こうあった。


『不幸な伯母のネックレスが売りに出されているのを知ったルイ14世が、宰相マザランに命じてそれを買わせた』


「その次のページも見て……」


めくると、何かのリストのようなものに黄色でマーキングされたコピーが現れた。


ひどく読みづらい。

おそらく幾度にもわたってコピーが繰り返されたからだろう。


その “リストのようなもの” をよく見ようとして目を近づけたり遠ざけたりするうちに、僕はドキリとした。


その、“リストのようなもの” のタイトルに、“マリ” の名前が書かれていることに気付いたからだ。


僕は、マーキングの字面じづらを追う。動悸を覚えながら、



「“35個の真珠からなる、28000フランスリーヴルの価値のあるこのネックレスは、1659年の夏、ルイ14世からの破談はだん慰謝いしゃとして……フランス国王の名のもとに、マザラン枢機卿によって与えられたものである” って、これは……?」



「ある大学の博士の、研究論文の資料なの。それは、の一部」



―――ギュッと、収縮する。


僕の “みぞおち” の奥のほうで、何かが……腹から背中にかけて……痛みとも違う、じんわりしたものが広がる。


熱を伴った、目に見えない、波動みたいなもの。


それが、体の中に広がって行く。




“マリ” の遺産目録……


たった一枚の紙。

しかも、コピー。




だが、その紙から僕の指を通して、何かが僕の中に伝わって来る。


むろんそんなものはだ。


だけど……この感覚は、絵を見た時に感じる喜びと、同じ種類のものだ。




夢の中で “マリ” のドレスの衣擦きぬずれにときめきくのとは、ぜんぜん違う。


あれは夢が創り出した世界……このコピーには、確かにという事実がある。


感じるのだ。

時空は違っても、確かに彼女が生きていた世界に自分もいるのだと実感できる、心揺さぶるを。



僕は、ルイを見た。




ひょっとして、彼女ルイが追い求めているものは、僕と同じなんじゃないか?


つまり、何らかの “証拠” に触れることで、過去に生きた人物に “リアル” を感じるという……


僕がまさに……“マリ” の絵を見て、そうしているように。




僕は、ルイの顔を見た。もう一度。コピーを持ったまま、

そして、口を開いた。

自分がたった今確かめたいと思ったことを告げるために。



―――その時だった。執事の声が響いたのは。



「……夕食ディネのお時間でございます!」

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