第4の鍵 ―当惑―



僕は、ただ、ながめていた。

目の前の光景を。


左右のまなこを思いっきりけて。


そうするしかなかった。



―――彼女の “喰らいっぷり” ときたら……!



この館のシェフが手ずから作るパンは、あのにも引けを取らない。

そんな “パン名人” が用意したカスクルートなのだから、まず間違いなく美味うまいはずだ。



なのに彼女は……味わってすらいない。

ほら、あッという間に……平らげてしまった。1個目を、ペロリと。



僕は、黙って自分の皿を差し出す。

と、彼女はそれにも食らいつく。ためらいもせず。


まるで飢えた野良猫……


味がどうかなんて、たぶん解っちゃいない。



空腹に手が震える経験ぐらい、僕にだってある。


急ぐあまり無作法な食べ方をすることだって……今朝の僕は、まさしくそうだった……



でも今、彼女が貪り食っているこの様子は、そんなもんじゃない。

それより遥かに



目まぐるしく動く、口。


僕の中に、浮かぶ。単純な疑問が。



「ひょっとして……何も食べてなかったんですか?」



彼女は……答えない。


ただ頭を縦に振るだけ。

休むことなく口を動かしながら。



答える余裕もない。そういう感じだ。




やがて……ようやく全部―――バゲットとハムとチーズが混ざったものが―――彼女の胃袋におさまった。




いま、きちんと背筋を伸ばし、ナプキンで丁寧に口の周りを拭っているのは、ついさっきまで、野獣のような食べっぷりを見せていた女だ。


彼女は、少しだけ水を飲み、ほーっと、息を吐いた。細く、長く。


それからキャナペの上に座り直し、真正面から僕を見据えた。



淡く、うっすらと青みがかった、ハシバミ色の瞳。

野良猫から “ヒト” へと戻った目。



てっきり、礼を言うか、これほど飢えていた理由を打ち明けるのかと思いきや……




「“マリ” の行方ゆくえをお聞きするまで、私、ここを動きませんから」




―――僕の聞き間違いか?


いや……そもそも僕は言ったっけ? こんな答えを引き出すような質問を?



自分が何者かも名乗らないのか?

いきさつも語らず、食事の礼も言わず?

自分の思いだけを主張するのか? 一方的に?



―――なんと変わったエキセントリック女なんだ!?



だけど……それが嫌というわけでもない。不思議なことに。


それに……“弱み” のある僕は、ただこう返すのが精一杯だ。



「なぜ、ここにその……“マリ” の絵が、あると?」



弱み……それは僕には彼女がどうしても“マリ”に見えてしまうことだ。

たとえ髪の色、形、服装が違っていても。



彼女は何も答えない。さらに僕は食い下がった。



「理由を教えてくださいませんか、マドモアゼル」


彼女の眉間に、縦じわが浮かんだ。


「マドモアゼル、は、やめてください」


「では……マダムと?」


「いえ……私の名前はルイと言います。ですから、ルイと」



うっかり、僕は叫ぶところだった。


……この時、執事が結んでくれたタイの模様が視界に入っていなかったら、僕は絶対に声を上げていただろう。


エキセントリックな “マリ” は……同じ名前だったのだ。


僕―――『彼』ではないほうの僕―――と。



でもこのタイをしている時の僕は、あくまでも『彼』であって、僕じゃない。

だから、自分の名を明かしてはいけないんだ。



相手が名乗ったのにこっちは名乗らない……そんな失礼なことがあるか?


でも今は、謎を解くのが優先だ。


「ルイ、ね。では……ルイ。もう一度お聞きします。なぜその絵がここにあると?」


“ルイ” の眉間の皺が、一層、深くなる。


「“マリ” の絵は……ないの?」




―――駄目だ。


堂々巡り。

質問の応酬。


僕は口調を少し変えた。できるだけ冷淡に、突き放すように。



「ない。と言ったら、どうなさるんですか?」



僕がそう言い終わるか終わらないかのうちに、彼女の顔が、くしゃりと歪んだ。




―――え? な、なに?



彼女が顔に当てた指の間から、何かが……


涙……?


“ルイ” の指の間から、しずくが伝い落ちる。




僕の頭は、真っ白になった。




―――な、なんで泣く? 今、ここで?

泣くなんて……泣くなんて!



「1年、待ったのよ……いえ、最初から数えたら、2年も。それに、今だって、必死にここに来たの。まさにで。なのに……」



―――命がけ? “命がけ”って、どういうことだ?



「待った、と、おっしゃられても……ですからどうして今年はその絵があるとお思いに?」


彼女ルイは、顔を離した。手のひらから。


睫毛まつげが水分で数本ずつの束にまとまって、そこに小さくなった涙の粒が載っている。

そのせいで、睫毛じたいが、泣く前よりも濃く見える。


まるで……雨のあとの、草むらみたいだ……


「だって、見たんですもの、“ロール” を。最初の年に」


「え……」


「次の年は “オランプ”。だから絶対に今年は “マリ”。そうに決まってると……なのに、掛かっていたのが “オルタンス” だったなんて……」




僕は、立ち上がった。

反射的に。



―――彼女は知っている!? 

“マリ” の姉妹の名を。

その順番まで?



この時、僕は、“共感の喜び” というやつを―――自分の興味を相手も抱いていると知った時に盛り上がる、―――を、まったく感じなかった。


むしろ疑問の方が、はるかに大きかった。




ルイ14世を知らないフランス人はいない。


ルイ14世の宰相マザランの名前を聞いたことがないフランス人もいないだろう。


そして、歴史が好きなフランス人なら、ルイ14世の愛人の名前ぐらいは知っているに違いない。


宮廷の色恋沙汰……が好きなフランス人なら、ルイ14世の、初恋―――肉体的に、ではなく、精神的な意味での―――の相手である、マリの名前を知っていても不思議ではない。



だが、“マザリネット” については、どうだろう?

マリの姉妹……“マザリネット” の名前を、年齢順に言えるものか?



以前、話の流れで、同級生にそんな質問をしてしまったことがある。


反応は、『クイズミリオネアキ・ヴー・ガニェ・デ・ミリオンにでも出せよ』。

……“バカ言うな” ってことだ。



“マザリネット”。

絶対王政確立のほんの手前で、政治の道具に使われた子供たち。

少年王・ルイ14世の遊び友達……


今の世では、ほとんど忘れられたに等しい存在だ。




僕の中に、渦のようなものがい回り始めた。



目の前にいる人物は、そもそも正体がわからないのだ。

その、正体不明の人物が、理由も明かさず “マリ” に執着する姿だけを見ていると……こちらの質問には一切答えず、自分の想いしか口にしない様子を見ていると……



―――ひょっとすると、のかもしれない。



絵画への加害は、なにも盗みだけじゃない。

切り付け、塗りつぶし、劇薬をかけ、だっている。

そういうやからは、たいてい、その絵にひどく執着しているものだ。


あのリュックの中に、ナイフやライターが入っていないとは言い切れない。


ここはルーヴルじゃない。

警備員が “チラ見” するだけの手荷物検査なんて、ないに等しいのだから。



「う、わ……ッ!」



僕は、思わず声を上げていた。

急に彼女が手を伸ばしたから。リュックに。



まるで、金縛り。


たった今、その奥に凶器が入っているかも、と、思い至った。

そのイメージが僕を押さえつけ、委縮させる。


小さなリュックのフタが、開く……



僕は一瞬、きつく目を閉じた。



でも……何が起きるにせよ、対処をしなければならないのは、この僕なんだ。

こんな、の僕でも。



ところが、思い切って開けた僕の目の前に現れた物体は、ナイフでもライターでも銃でもなかった。



一冊のだった。ぼろぼろの。



彼女の震える指……解いている。そのバインダーの綴じ紐を。

流れるままに涙をこぼしながら、時折、はなをすすりながら。




やがて彼女が僕の前に差し出したのは、一枚の紙。


それは、肖像画のコピーだった。



―――見覚えがある。


ああ。アンリエット=マリ・ド・フランスだ。


イングランド王妃……ピューリタン革命で首をねられた、チャールズ1世の、妻。


だが、アンソニー・ヴァン・ダイクの手になるその絵は、この館とは関係がない。

れっきとしたイングランド王室の所蔵品だ。


戸惑う僕に、ルイはつぶやいた。

少し怒ったような調子で。


「私をここに導いたのは、彼女のなんです。ここでそれを確かめるまでは、たとえ死んだって帰れないわ」

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