第4の鍵 ―動揺―




奇妙な気分だ。




『彼』のふりをした『彼』ではない僕が見ているのは、“マリ” に似た、“マリ” ではない、誰かの顔だ。



目をつむり、口を閉ざし、意識を失くした、



どれだけ眺めたところで、何も解らない。

その唇から語られない限り……


その人が何者なのか。


その人がなぜ、“オルタンス” という名前を口走ったのか。


“オルタンス”……


そう、まぎれもなく “オルタンス” なのだ、あの肖像画は。


間違いない。


だって、“”をに―――立ち入りを禁じられた階段の踊り場に―――飾ったのは、この僕だから。



だけど……信じられない。

あの絵の人物を “オルタンス” と呼ぶ人がいるなんて。



あの絵は、誰もが知っている名画、というようなものじゃない。


あの絵がこの館に来て以来、展覧会に貸し出されたこともなかったはずだ。


画家じたい、知る人は限られる。




“マリ” に似た、“マリ” ではない、誰か……




僕はふと、書き物机ビューローに、目をやった。


バロック時代のそのビューローにも、布が掛かっている。


僕は、立ち上がり、そっと、ビューローに近づいた。


掛け布の端をめくる。


抽斗ひきだしの木は、光っている。黒く、鈍く。

引き手には古い手法の鍍金ロオル・ムリュが施されている。

この部屋が『金の間』と呼ばれているのは、この金色の装飾が部屋中のあちこちにあるからだ。



僕の指を、その金色の引き手にかける。



……簡単には開かなかった。


強く引っ張ると、ギシギシ、ガタガタ、と、きしむ音が……



、と、振り返る。キャナペを。



―――大丈夫。

静かだ。

なんの反応もない。




僕は再び抽斗に視線を戻し、もう一度、取っ手を引いた。

こんどは、さっきよりも慎重に。



少しずつ、引く。

1ミリずつ、ずらすように。




やがて、天板と抽斗の隙間から、が見えた。


古いノートか何かの紙束……




いつからそこに入っていたものかは解らないが、昔の記憶のままだ。


四辺がうっすらと茶色くなった紙の束。

古本屋みたいな匂いがする。



僕はその紙束を引っ張り出して、椅子に戻った。


上着の内ポケットに、ペンが入っている。

いつもの習慣だ。


紙束の1枚目はほこりでざらついていた。

それを外して、2枚目にペン先を降ろす。




……どうして、“そんな気” が起きたのか。

自分でも不思議だった。



だが、描き始めると、雑念は飛んだ。


自分の頭を動かさないように気をつけながら―――それが描写デッサンの基本なのだ―――慎重に観察する……を。

ごく簡略化した線。

紙の上に写し取る。

たものを、ただ視たままに。

目の前にある光と影を……そのまま……そうだ……呼吸や、体温まで……



こんな感じは、どれぐらいぶりだろう?


描く衝動にかられるなんて。



―――気持ちが動いた理由?

そんなの、自分でもわからない。



何分、経っただろうか……



僕は、紙の上に自分があらわした “顔” を見つめていた。


たわむれにしては、上手くとらえているんじゃないか?


ただし、そこに “髪” はない。

まだ……描いていない。

ただ頭の輪郭に、ほんの少し “アタリ” をつけただけ。


何度か描き取ろうとしたのだが……そのたびに、僕のペンは宙で止まる。


―――解ってる。原因は。


僕は……もう一度、頭をぶらさないように気をつけながら、交互に見比べた。

目だけ動かして……紙の上の描画と、キャナペの上の顔を。



……だめだ……

抗えない。どうしても……このに……



僕はキャナペの上を見るのをやめた。


紙の上だけを見ながら、ペンを回転させる。


最初のうちは、くうを……そこから、くる、くる、くる、と、指を回しながら、次第にペンをおろして行く。


そうだ。タッチを、強すぎず、弱すぎず、ちょうどいい感じに……



やがて紙の上の顔の周囲に……“巻き毛” が現れる。


天使のようにねる、短い巻き毛。


そして、顔の左右にアクセサリーのように垂らした、長い縦ロール。


もう何十枚も模写をして、手がすっかり覚えてしまっただ。




そうして手を動かすうちに、僕は、いつの間にか、自分が笑っているのに気づいた。




―――この行為は、一体、何だ?

馬鹿げている……




マリだと思いこみたくて、マリに似せようとしているのか?

呆れたもんだ。

この人の正体なんて、まったく解っていないのに。


目が覚めたらここからいなくなる人。

名前を知ることもなく、あと何分か……何十分か後にさようならを言ったら、もう二度と会うこともない人なのに。


でも、ほら……



やっぱり、じゃないか。



その時、聴こえた。

小さな……うめきが。



僕は慌てた。


―――なんで? どうして、慌てる必要が?


何を慌てているのかも、わからない。

ただ、隠したかった。

それで、紙束をめくって、中にねじ込んだ。


もう本当に “マリそっくり” にしか見えなくなった、悪戯いたずら描きを。




―――また、声だ。



気のせいじゃない。

ほら、キャナペの上……ブランケットが、動いている。と。


声の主が、もう一度、同じ言葉を口にした。

固く閉じていた瞼を開き、顔を少し起こして。

さっきよりもはっきりと、声を上げて。



「………あなたは、どなたですかキ・エット・ヴー?」



―――え?



“Qui êtes-vous ?”



いきなり喰らった、この問いかけ……


なぜか、“あなたは『彼』ではないでしょう?” と言われたように感じた。



そう感じさせたのは、僕自身だ。

無意識の罪悪感……『彼』のふりをする……それに対する、一種ののようなもの……



いや、それだけじゃない。


僕の行為……眠る相手を描き写す、という行為。

そこには、“盗み見” みたいな背徳感があった。



僕は、ただどうしようもなくした。



困惑? 恐怖? とにかく、動揺していた。



すると、その人は、次から次へと言葉を投げつけ始めた。


「あなたはキュレーター? それともこの館の方?」

「どうしてに “オルタンス” が掛かっているんですか?」

「“マリ” は見れないんですか? 今年は “マリ” の番では? それとも、ここにはもう “マリ” はないんですか?」



まさに、言葉の乱射。

それも、一方通行の。



判ったこともあった。

その声は……女性の声だった。



「私の言ってること、お解りですか? 通じてないのかな……英語だったら通じるのかしら?」



僕が答えないので、彼女はフランス語が通じないと思ったようだ。


「ちょ……ちょっと待って……」


僕がさえぎろうとした、その時だった。


突然、響いたのだ。


グ、グ、グゥ~、という、“地響き” みたいな音が……



それは彼女の腹のあたりから発し、長く尾を引き、僕の前で、見えない渦を巻いた。



「えッ……い、嫌…やだ……!」



みるみる、変わっていく。

白から赤へ……彼女の頬が。

まるで、水を含ませた紙に、ぽとんと落とした絵の具の色が広がるように。



―――逆転だ。



僕は……『伯爵』の衣裳に身を包んでいるんだ。

従者が腕を振るって仕立て上げた、寸分の隙もない姿に。


僕は……ただ、『伯爵』のタイトルにふさわしいふるまいをすればいい。


落ち着き払った、慇懃いんぎんな態度。


ゆっくりと手を上げて、礼儀正しく……さながら淑女を案内エスコートするように。



―――これで、やめさせられる。質問攻めを。



「お話よりも、どうやらまずはのようですね? マドモアゼル」

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