第4の鍵 ―事件―
その日の午後4時過ぎ。
再び、執事の声が聞こえた。
回廊の公開が始まって、数時間は経っていた。
マリの絵から僕が目を離すのと、執事が『緑のサロン』に顔を出すのとが、ほぼ同時だった。
「
見るからに慌てている。
こんな様子は見たことがない。
「どうした?」
「回廊で問題が!」
この数年……というか『身代わり』を始めて以来、「問題」なんて言葉を聞いたのは初めてだ。
「とにかく、いらしてください!」
鞭打たれるように追い立てられた僕は、仕方なく、重い腰を上げた。
回廊の北側、数段の階段を設けた先にアーチ状の飾り壁があるが、その階段の周りにちょっとした “人だかり” ができている。
“人だかり” の周囲には十数人の外国人―――おそらく中国人―――のグループがいて、遠巻きに見ている。
その中心に、数名の学芸員たち……それに、警備員の姿。
「……立てませんか?」
「言葉は解りますか?」
漏れ聞こえて来たその声に、僕は戦慄を覚えた。
―――誰か、倒れたのか?
『彼』とは連絡を取る手段がないのだから。
おそるおそる僕が近寄ると、そうと気づいた学芸員が僕に道を開ける。
いや、別に開けてくれなくてもいいのだが……
「……いい所にいらしてくださいました、伯爵!」
今朝、書類を交わした学芸員が声を上げる。
「何が……あったんですか?」
「こちらの方が……」
“人だかり” がまっぷたつに割れ、それが見えた。
階段の途中……うずくまっている姿が。
格好は、旅行者風。
明るい色の短髪。デニムの上下に、スニーカー。
顔を下に向けている。
性別はわからない。
「救急車を呼びましょうか?」
誰が言ったのかは定かではない。
ただ、その言葉に、うずくまっていたその人が、明らかに反応するのが解った。
その人物が、顔を上げる。
不意に……僕の目の前で。
その瞬間―――僕の喉の奥で、ひゅっという音がした。
―――そこに……居たのだ!
「……呼ばないで」
マリ、いや、マリであるはずがない!
だがもう、マリにしか見えない。僕の目には。
唇が、開いている。
その、マリにしか見えないものの唇が……それが僕に言っている。僕に向かって。
“呼ばないで” と。
……これは、現実なのか?
唇の内側に
僕は……魂の端っこを、ぐっと掴んだ。
僕の中から抜け出しそうになっている、僕の魂を。
無理やり、自分の中に押し戻す。
「……呼ばないでって、何を……?」
マリそっくりのその人は、僕のこの間抜けな質問には答えなかった。
瞼を伏せ、少しだけ、呻き声を上げた。
小さな呻き声……
そして傾いた。
ゆっくりと。
―――僕に向かって?
違う!
僕は自分から行ったのだ。
支えるために。
そうしなければ、その人は倒れ込んでいただろう。
階段を転がり、冷たい石の床へと。
「……
その声に、僕自身が驚いた。
それは確かに僕の口から転がり出た言葉だったが……
『金の間』。
それは『第4の鍵』で開ける、来客用の寝室。
僕はなぜ、そんなことを口走った!?
理解できない。自分でも。
執事は、僕の命令に従った。
力を失ったその人を抱き上げ、人垣から引き離し、『金の間』へ向かう。
僕は彼に先回りして階段を駆け抜け、その扉を『第4の鍵』で開け放つ。
現代風に改装された僕の……いや、『彼』の部屋とは違い、この『金の間』は、バスルームを取り付けただけ。
バスルーム……17世紀には存在していなかったものだ。
バロック時代の木彫装飾など、可能な限り当時のままに保存されているが、滅多に使わない場所だから、家具、調度品の類いには、すべて覆い布が掛けられている。
執事が
深い葡萄色の
彼女? いや、彼かも?
着ているものからは、判別できなかった。
さっきの声は女性のものに思えたが、目を閉じた姿は青年のようでもある。
その人にブランケットを掛ける執事の手を見ているうちに、僕は、次第に落ち着かない気持ちになった。
―――さっき、なぜ『マリ』に見えたのか?
目の前のこの人の髪は、短く、明るく、まっすぐだ。
黒く豊かなマリの巻き毛とは、似ても似つかない。
窓からの斜陽は、顔の骨格の滑らかさを強調している。
こうやって斜めから見れば、マリとは違う顔だ。
―――東洋人?
さっきの “呼ばないで” は、フランス語だった。完璧な。
「水をお持ちします」
執事が部屋を出て行く気配が、僕を現実に引き戻した。
その背中がちらりと見えて、僕は、はなからほんの少しもなかった自信が、ますます
―――ひょっとすると……僕は、対応を間違えたかもしれない。
執事の背中が、暗に僕を責めているように思えてならない。
そうだ……きっと、僕は間違えたんだ。対応を。
なにもこの『金の間』でなくたって。
回廊手前の小部屋にでも運ばせれば良かったんだ。
学芸員たちの控室にしているんだから。
なのに、なぜか言ってしまったのだ。『金の間』と。
どこからそんな考えが降りて来たのか……
“呼ばないで”
その言葉が『救急車』に対してのものだということは、疑いようがない。
だが、本当に呼ばなくて正解だったか?
何か、重篤な病気なら……
その考えが頭をもたげたとたんに、僕の心配に、恐怖が重なった。
―――万が一、この人がこのままここで……亡くなってしまったら?
背筋に冷たいものを感じた時、再び、扉が開いた。
銀のトレーに水差しとグラス。
執事のその肩越しに、人影が見える。
「
執事に取り継がれて現れたのは、さっき僕に手招きした学芸員だった。
今朝、書類を確認し合ったうちのひとりだ。
その手に、小さなリュックが携えられている。
「これを……たぶん、その人の手荷物です」
僕は、黙ってキャナペの隣の椅子を指し示した。
黙っていたのは、“静かに”、という意味だったのだが、学芸員はリュックをそこに置くと、すぐに僕の方へと取って返し、口を開いた。
「伯爵、一応、事の次第をご説明したいのですが」
その声が思いのほか大きく、僕は慌てて立ち上がった。
「あー……で、では、こちらへ」
眠っている人がいるキャナペの
執事がトレーを置いたコンソールなら、キャナペから少し離れている。
僕は執事を下がらせ、そこに学芸員を
銀の水差しの表面を、ごく小さな水滴が、無数に覆っている。
僕はグラスのひとつを取り、水差しから水を注いで、学芸員に渡した。
「最初は、団体のひとりがグループを離れて、あの階段の上の絵を見に行ったのだろうと思っていました」
彼の話では、始めは、中国からのグループが入って来た直後に、そのうちのひとりが皆と別行動を取った……そう見えたのだという。
「その人が、階段下のロープを勝手にずらして」
「ロープ? あの、立ち入り禁止の?」
「ええ。そして階段に踏み込んで、段を上り切って。掛かっている絵の間近にまで近づく様子を見て、これはまずいと」
「何をしようとしたのかな……」
「“なぜオルタンスが?” そう聴こえました」
僕は、息を呑んだ。
―――オルタンスだって? そう呼んだと言うのか?
あの場所のあの絵は、公開のために掛けているわけじゃない。
この館の主のため、という名目で、その実、僕が毎年、架け替えている場所なのだ。
それも『彼』と僕との約束のひとつ。
僕の好きな絵をあそこに飾ってもいいという……
言わば、僕のためだけのギャラリーなのだ。
だから絵の周囲にはタイトルも説明も何も添えていない。画家の名前さえもだ。
それに……だいたい、あの絵は、一般の目にはほとんど紹介されたことがないのだ!
なのに、描かれている人物の名を呼んだ、だって?
―――あり得ない!
「そ…れは……その人が、名前を呼んだのは……座り込んだという時?」
学芸員は、少し首を傾げた。記憶を辿るように。
「いえ、その前です。絵に近づきながら、ブツブツと……もう少し……なにか、
「それから座り込んでしまった、と?」
「座り込むというか、力が抜けてしまったとか、よろけて尻もちをついたとか、そんな感じが」
「よろけて……」
「私はとにかく
そこから先は、僕も見た通りだ。
「確認ですが、あの絵に危害が加えられたわけではないんですね?」
「ええ。何も。念のために感知器を確認しましたが、薬品や水分などの反応は一切ありませんでした。それは確かです」
しばらく、僕は言葉を探した。
「……ありがとう。あとはこちらで対応します」
僕はそう言って、
彼はキャナペの上と僕を交互に見ながら、まだ何か言いたげにしている。
だけど、構ってなんかいられない。そんなことには。
とにかく、考える時間が欲しかった。
そこに横たわっている、見ようによってはマリのようにも見える人が、どうして、マリの妹の絵を見て、その名を正確に呼んだのか?
そして、どうして僕が……その人を、ここに運ばせてしまったのか。
その意味を。
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