第2の鍵



体が……揺さぶられている。

何か……誰かが……


旦那様ムシュー…」


―――やめてくれ……


「旦那様」


―――うるさい……


「……旦那様!」




目を開ける。



僕は、慌てた。

いや……うろたえた。



頭の中が、白く……フェードアウトして行く……

落とし穴にまった!?


……そう思った。


たった今まで見ていたものは、どこに行った?

はどこだ?

僕の右斜め前を歩いていたはず……



ドレスの衣擦きぬずれの音……それを楽しみながら、袖飾りのリボンが動く様子を見ていたはずだ。

彼女が足を踏み出すにつれ、それは袖の上でね、まるで百合の雄しべのようにゆらゆらと動いていた。


だけど、そのリボンは動きを止めたレースとともに、いま……画布トワルにおさまってしまっている。


二次元の静寂。

栗色の瞳は……こちらを見ているようで、やっぱり、見ていない。



僕の前にあるのは、よだれで汚れた袖。そこから放たれる臭い。

体のあちこちの痛み……きしむような……それだけだ。


それらの不快さが、僕を押さえつけている。



ようやく、僕は理解した。



落とし穴に落ちたわけじゃない。



いつの間にか僕は眠ってしまったんだ。

ゆうべここに座ったまま、テーブルに突っ伏して。




今の今まで自分がいると感じていたのは、夢の向こう側だった。




不意に、口の中に苦みのようなものを感じた。




ああ、そうか。あの言葉のきらめきも―――さっきまで熱く交わし、機知エスプリに富んだやりとりの喜びを僕にもたらしてくれていたはずの会話も―――何もかも、夢だった。



跡形あとかたもない。

そもそも、もとから無かったのだ……



「旦那様、9時を回っておりますが」



執事のその声で、一気に吹き飛んだ。

僕の頭の中のが。



「―――くそっメルド!」



そんな言葉を使うべきじゃない。

解ってる。

僕は今、仮にも『伯爵』なんだから。


だが、あと数十分しかない。

本当は、『メルド!』とどれだけ叫んでも叫び足りない気分だ。



「お支度はにご用意が。朝食もすぐにお持ち致しますから……」



執事にうながされ、僕は鍵束を掴んで立ち上がった。



そのまま、隣の部屋へ向かう。


執事が『お部屋』と呼んだ―――ゆうべ、僕が眠るべきだった場所―――味も素っ気もないほど現代風モデルヌに改装された、『彼』の部屋へ。



これから僕は『第2の鍵』でその扉を開け、寝室の続きにしつらえられたバスルームで用を足し、顔を洗い、髪をとかし、冷めたカフェオレでクロワッサンを喉に流し込む。


そして、従者シャンベラン役を兼ねた執事に、シャツとスーツをんだ。

まるでっちゃな子供みたいに。




10時には、やって来てしまう。学芸員たちが。




僕は『彼』になりきって、学芸員のひとりに『第3の鍵』を渡さねばならない。

この館の地上階レ・ド・ショセ、回廊に繋がるホールの扉の鍵を。



ひどく……気が重い。

嫌なものだ。


他人をけむに巻く。

もちろん悪意はないが……だますことに変わりはないのだから。


特に今日は、心の準備をする暇もないと来ている。



いつもならもっと早くに目覚め、ひとつひとつのステップに時間をかけて、徐々に『彼』になって行く。

自分に自分で暗示をかけて『彼』に成り切る覚悟をする。

毎年そうやって、なんとか乗り切って来た。


……なのに!


もちろん自分が悪いのだ。


誘惑に負けた自分が。

『マリ』に会い、『マリ』と過ごしてしまった自分が。


そのせいで、を浮遊してしまった。


そう仕向けたのは、ほかでもない自分自身なのだ。


仕方がない。

あと45分……いや、30分そこそこで、はやって来る。

否が応でも。


―――やるしかない。

それが僕の役割なのだから。

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