第1の鍵
ダンフェール=ロシュロー駅から
広場を抜け、とある細い路地に入る。
さあ……そろそろ、見ものだぞ。
その角を曲がったら、視界いっぱいの……
―――ほら!
まるで、緑の壁だ……!
敷地側から外へ……外へ……
無数の揺れる葉。
塀そのものを、びっしりと覆って包んでる。
その緑が途切れた一角に、扉がある。
これは、この館の裏門だ。
だから、実に400年以上も前のもの……?
いや、この扉の
つまり、この扉は、さらに
当時の錠前がそのまま、というわけじゃない。
この鍵束を
ブザーと共に鍵が開く……
だけど、年月が崩しつつある門構えと蔦の茂みは、そのまんま。
僕は、扉を少し押した。
扉と門の間に、ほんの
そこから、青っぽい、湿気を含んだ空気が漂い出て来た。
その空気の手が、僕の
僕は、ひと呼吸する。
そうしないと、これ以上進めないのだ。
「よし」
意を決して、扉を強く押す。
たちまち、固く
相変わらず、ものすごく重い。
僕の唇は、歪んでいるはず。
苦笑い、というやつだ。
鍵を最新式にするなら、いっそ、扉ももう少し軽くすればいいのに!
毎度のことながら、まるでこの扉に腕試しをされているみたいだ。
僕がこの館に入る資格があるかどうか、見定める試験。
「ふぅ……」
どうにかこうにか、扉を開けた。
自分がすり抜けられる分だけ。
足を踏み入れる。
中へ……
ごうッと……風の出迎えだ。
鳥のさえずりが、あちこちで軽やかに転がり、響き合っている。
木々が
枝葉にちらちらと踊る、夕暮れの光。
別世界だ。
これまでの、晩夏の喧騒とは。
僕は足を止め、つかの間、
緑の庭を飾る光と音、そして風と色。
このまま……ここに居続けたい。
でも、そうもいかない。
僕は門を閉じた。
もう一度、渾身の力を振り絞って。
裏庭を斜めに進んで行く。
と、館の扉が開き、男が姿を現した。
執事服を着た、初老の男。
「
扉を背に、その男は僕をそう呼んだ。
平たい調子で。
僕は彼の
城館の中は、淀んで、重い。
僕は、突っ切る。
もったりと
そこかしこで使用人たちとすれ違う。
だが、誰ひとりとして僕に驚かない。
やがて、僕は、そこに
館の北側に位置する部屋だ。
鍵束を取り出す。
選ぶのは、『第1の鍵』だ。
それをドアノブに近づける。
と、電子錠が解ける音がした。
そこは―――『緑のサロン』。
そう、僕が勝手に呼んでいる。
窓はない。
その代わり、解錠と同時にライトが点灯する。
古い匂いがする。
ニスと
『お帰りなさい』
頭の中に、声が響く。
それは僕の耳だけに届く、特別な声だ。
僕は、ドア脇のコンソールの
縦長の棚……深い緑色の壁3面にわたって、天井から床まで設けられた棚。
薄明かりに浮かぶ柵には、ところどころ不規則に木の札が掛かっている。
そこにずらりと並んでいるのは、中性紙で作られた、平たく薄い、大小さまざまの
その一区画―――「
探さなくったって解るのだ。それは特別な函だから。
羽根ぼうきでその函の埃を拭い、そろそろと棚から抜き出す。
そっと、そっと……
年代物のワインを運ぶ給仕のように慎重に……
その函を、部屋の真ん中に運ぶ。
そこにしつらえられた大きなテーブルの上で、函にかかった紐を解き、慎重に
掛け布を外し、
そうするうちに、僕の鼓動は速さを増して行く。
ようやく、彼女が姿を現した。
僕は、ゆっくりと
……函から抱き上げるように。
―――また、会えたね。
ようやく。
茶色の背景と混ざり合う、豊かな巻き毛。
象牙色の肌に光る、大粒の真珠のネックレス。
ドレスは茶色の濃淡の縦縞。
白いレースの襟と袖が、素敵だ。
細く重ねて結んだ紺色のリボンには、ダークブルーの石を
―――シックだよ。すごく。
僕はきみに会うために、この『身代わり』を引き受けたんだ。
なのに、きみはつれない。
茶色い瞳……こちらを見ているようで、見てない。
いつも、きみはそうなんだ。
引き結んだ、その淡紅色の唇で、『あなたには何も言わないわよ』と、言っている。
―――マリ。
さっき、『お帰りなさい』と僕を迎えてくれたのは、きみじゃないのか?
その唇の内側の美しい歯を、見せてはくれないのか?
誰もがうっとりと聞きほれてしまうというその声で、詩を読んでくれないのか?
もちろん、錯覚だ。
だけど左右の縦ロールがゆらゆらと揺れて見えるのも、気のせいなのか?
この香り……
僕の鼻の奥をくすぐるのは、黴の匂いでも木の匂いでもなく、きみの匂いだ……
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