お遍路の始まり

 朝6時少し前、ネットカフェの会計を済ませる。6時を過ぎれば無料の朝食が提供されるのだが、旅への興奮もあり、ネットカフェでゆっくりとなんかしていられず、それを待たずに出てしまった。まだ夜は明けきっておらず、ひんやりとした空気。自転車の停めているところへ。自転車は無事そうだ。カバーを外して荷物などをチェックする。盗られているものは無いし、イタズラされた様子も無い。ひと安心。


 いよいよ本日からお遍路のスタートだ。お遍路の始まりである、1番札所の霊山寺まで12kmほど。お寺の案内所や納経の受付が始まるのは7時なので、自転車でゆっくりと走って行けばちょうど良い時間に着くだろう。


 昨夜は真っ暗な中を走ってきたので、徳島の町の風景はまだ楽しめていない。まだ少し薄暗いが本日は良い天気のようだし、町の風景を味わいながら一番札所に向かうことにする。


 吉野川につながる、いくつかの川を渡り北上して行く。このあたりの町は観光地ではないから、特別なものはない。しかし、その地に住む人が、当たり前に見ている景色を見るのが楽しい。自分の住む町と同じようでいて、そうではない、そんなものを探しながら走る。


 7時を少し過ぎた頃に、1番札所に到着した。駐車場の脇に自転車を停め、まずは案内所に向かう。こちらのお寺の案内所では、お遍路用品を販売している。出発前にあらかじめネットで購入したものもあるのだが、荷物になりそうなものは現地で購入するつもりでいた。案内所に入ると、オープンまもない時間なのに結構な人数がいる。みんなそれぞれに、お遍路用品を物色しているようだ。


 色々なものが販売されているが、欲しいと思っていたものは種類がなくて、少ない選択肢の中から選ばなければならなかった。しかも、どれもそれなりの値段である。お遍路は、正式な衣装やお参りの方法にこだわると、結構お金がかかる。それなりにきちんとしたお参りをしたいと思っているので、予算はそれなりに考えていた。ここでは白衣、菅笠、さんや袋を購入。輪袈裟は思っていたより高いので、購入しなかった。それにしても、1万円近い出費になるとは思っていなかった。


 案内所を出て駐車場にある東屋で、購入した白衣や菅笠を着ることにする。自転車に乗るためのスポーティな格好の上に袖なしの白衣を羽織り、菅笠をかぶる。菅笠のあごひもはそのままの状態だと、うまくフィットしない。色々と試してなんとか菅笠を固定させた。これでいっぱしのお遍路さんだ。本来はこれに金剛杖を持つべきなのだが、自転車では持ち運びしにくいので、金剛杖は購入していない。


 さんや袋はあまり聞き慣れない言葉かもしれない。お遍路さん用のショルダーバッグと思ってもらえればよいだろう。ここにお参りに必要な、経本・納札・線香・ろうそく・納経帳を入れて、お参りに向かう。案内所から少し離れたところに、重厚な作りの仁王門がある。仁王門で一礼して入り、手水所で手を洗う。この後は鐘楼の鐘をつくのが本来の手順であるが、鐘をつく人はあまりいない。お参りする人がすべて鐘をつくと、周辺の迷惑になるということで、禁止しているところもあるくらいだ。これは省略しても良いだろう。


 参道の正面に、本堂が見える。まずは本堂へ行き、献灯・献香をする。ろうそくと線香は出発前に、100均で買ったものだ。ろうそくや線香に火をつけるのが、なかなか大変。風があるとろうそくには火がつきにくいし、線香はやはり安物だからかなかなか火がつかない。


 本堂と対峙して中を見ると、たくさんの吊り燈籠に火が灯っている。薄暗いお堂の中で灯る燈籠に厳かな雰囲気を感じ、身が引き締まる思いがした。まずは納め札を、用意されている箱に納める。納め札も出発前に購入していたもの。あらかじめ住所や名前、願い事を記入してある。その後に鐘を鳴らし、お賽銭を納める。さて、ここからが重要。読経である。


 本来の読経は次のような手順で行う。

合掌礼拝がっしょうらいはい 胸の前で合掌し三礼しながら「うやうやしくみ仏を礼拝したてまつる」と唱える。

開経偈かいきょうのげ 「開経偈」を一返唱える。

懺悔文さんげのもん 「懺悔文」を一返唱える。

三帰依文さんきえもん 「三帰(さんき)・三竟(さんきょう)」を三返づつ唱える。

十善戒じゅうぜんかい 「十善戒」を三返唱える。

発菩提心真言ほつぼだいしんしんごん 「発菩提心真言」を三返唱える。

三摩耶戒真言さんまやかいしんごん 「三摩耶戒真言」を三返唱える。

般若心経はんにゃしんぎょう 「般若心経」を一巻唱える。

・ご本尊真言ほんぞんしんごん 「ご本尊真言」を三返唱える。

光明真言こうみょうしんごん 「光明真言」を三返唱える。

・ご宝号ほうごう お大師さまの「ご宝号」を三返唱える。

回向文えこうもん 「回向文」を一返唱える。

合掌礼拝がっしょうらいはい 「ありがとうございます」と述べ、合掌し礼拝をする。


 さすがにすべて唱えるのは大変だということで、省略した形で読経することに決めていた。開経偈、般若心経、ご本尊真言、光明真言、ご宝号、回向文を唱える。あらかじめyou tubeで聞くなどして、勉強はしていたつもりだが、いざ唱えるとなると大きな声を出すのは恥ずかしくて、小声でつぶやくように唱えたしまった。周りにいる人もそれほど大きな声を出していない。ここはお遍路のスタート地点、周りにいる人たちも、同じようにお遍路初心者なのだろう。


 本堂でのお参りを終わると次に大師堂に行き、同じことをする。同じことを繰り返すというのは、ちょっと面倒。ここでも手順を追ってお参りをするだけで、いっぱいいっぱいになり、お寺の風情を楽しむ余裕などはなかった。


 お遍路をしている人でも、手を合わせるだけで済ませ、御朱印を集めるだけの人も多いといわれる。実際に正式な手順でお参りしてみて、そういう風になってしまうのも納得した。信仰心のない人には、ただの面倒な作業でしかない。


 だが今回の旅では、きっちりとお参りすることに決めている。ただのスタンプラリーにしたくはない。信仰心は無いのだが、形式に則って物事を進めることに意味がある。中身は無くても箱を用意すれば、中身がだんだんと埋まってくるだろう。


 お遍路をすることに、それほど意味を求めていない。願い事を叶えて欲しいとか、何かしらの利益が欲しいとかは全くない。お遍路をした後に何が感じられるかに興味があるだけだ。信仰心がない人間が形にこだわって行う先に、何が見えるのだろう。そんな風に思っていた。


 お参りを終えた後は、御朱印をいただくべく案内所に戻る。こちらもあらかじめ用意していた納経帳に、御朱印をいただく。もちろんこちらのお寺でも多くの納経帳が売られているが、ネットで購入する方が選べる種類が多いので、先に購入しておいた。八十八ヵ所それぞれのお寺の線画が入っていて、記念とするにはとても良さそうということで選んだ。いただいた最初の御朱印を写真に撮る。ブログに載せるための撮影ではあるが、改めてお遍路の始まりを実感する。


 これで一番札所ですることは、すべて終了だ。次は2番札所極楽寺に向かうのだが、その前に仁王門の脇にある門前一番街に立ち寄ることにする。ガイドブックによると、こちらでもお遍路用品を販売しているお店があるとのこと。霊山寺の案内所では思っていた持鈴が売っておらず、もしこちらで売っていれば良いなと思い。


 お店に入って驚いた。たくさんの種類の白衣、さんや袋が販売されている。霊山寺の案内所では、種類が少なく選択肢は無かったのに。先にこちらに来ておけば良かったと後悔。また、安い値段の輪袈裟もこちらでは販売されている。霊山寺で売られていたものの、約半分の値段だった。霊山寺をぼったくりと言うつもりはない、高い商品には、品質など高いなりの理由がある。霊山寺は高いものしか置いていなくて残念と言いたいだけだ。こちらで輪袈裟を買った。持鈴はここでも思っていたものが無かった。


 若干のモヤモヤした思いを残しつつ、2番札所に向かうことにする。2番札所極楽寺は1番札所から、1kmほどしか離れていない。自転車ならあっという間に到着する。


 朱塗りの仁王門が印象的だった。こちらでも手順通りのお参りをする。順番を間違えないようになんて考えていると、お寺の風景は頭の中に入ってこない。また、読経がなかなかに難しい。経本に書いていることを、読んでいけば良いだけなのだが、抑揚のつけ方、息継ぎの入れ方が難しい。しかもご本尊真言や光明真言はサンスクリット語なので、なかなか言葉として発しにくい。これは慣れるしかないのだろう。


 ひと通りのお参りを終えて、納経所で御朱印をもらう。こちらでは思っていた形の持鈴が、販売されていたので購入。自転車にベルがついていないので、これをベル代わりにすることにした。自転車が揺れるとチリンチリンと心地よい音が鳴る。お遍路さんは鈴の音を鳴らしながら歩いて行くもの。そんなイメージだったので、ちょうど良い感じであると。


 3番札所金泉寺へは3kmほどの距離。2番札所と同じような、朱塗りの仁王門。同じように参拝をする。ガイドブックにはお寺の名前の由来となった井戸が云々と書いてあるのだが、お参りに手一杯で、お寺の様子はなかなか頭に入ってこない。正式なお参りの手順を踏んでいると、ひとつのお寺で約30分以上時間がかかる。本日は十番札所まで回るつもりなので、次へ次へという意識が強くて、お寺を味わう余裕など無かった。


 さて、4番札所大日寺は坂の上にある。この日、初めての本格的な上り坂だ。坂は自転車乗りにとっての大敵のひとつ。軽いギアを使って、ひたすらペダルを漕いで、息を切らしながら、なんとか到着。それほど斜度のキツい坂では無かったので、自転車を押すこと無く上れた。


 境内に入ると、たくさんのお遍路さんがいる。バスでの団体客のよう。しかし、唱えている般若心経がなんか違う。リズムは同じなのに、言葉が違うのだ。納経所の人に聞くと、どうやら台湾から来た団体らしい。般若心経の漢字を現地の言葉で読んでいるそう。新鮮な響きだった。


 5番・6番・7番と順調にお参り。4番札所以外は平坦な道のりで、快適に走って来られた。7番札所十楽寺のお参りを終えたのが、13時過ぎ。朝出発してからここまで、補給食として持っていた羊羹以外を口にしていない。お腹は減っていたのだが、なかなか食事処が無くて、補給食で我慢していた。大きな道路を走れば、チェーン店などがあったかもしれないが、車通りの少ない遍路道を中心に走って来たからだ。


 7番札所の門前に食事処がある。到着した時に、看板に書かれたメニューが気になっていたので、こちらで少し遅めの昼食をとることにした。注文したのは、お遍路定食。名物のたらいうどんに、おにぎりとおでんのセット。うどんだけでは物足りないと思い定食にした。


 たらいうどんは、ゆでたうどんをゆで汁とともに、たらいに入れて提供される。これをだし汁につけて食べる、うどんのつけ麺といったところだ。お隣の県の名物讃岐うどんと違い、麺のコシはそれほど強くない。関西で食べ慣れた普通のうどん、といったところ。それにしても、だし汁がおいしい。今までに食べたことがない味だ。調べてみるとハゼ科の淡水魚「じんぞく」という、川魚の出汁らしい。溶き卵も入り優しい味。さらに薬味のショウガとスダチが、良いアクセントになっている。同じうどんでも、徳島と香川、場所が少し変わるだけで、こんなに変わるものなのだ。


 満腹になったところで、この後の行動を考える。5番札所あたりから、疲れが出てきていた。ペダルを漕ぐ脚が少し重い。昨日120kmを自転車で走った上に、今日は6時から出発してお寺を回っている。疲れてくるのも当然か。


 それに実はお参りするのも、ちょっと飽きてきていた。同じことをひたすら繰り返すばかりだ。場所は変われど、お寺はお寺で、それほど印象は変わらない。これは観光では無くて修行と考えれば、同じことをひたすら繰り返すことに意味があるということか。お遍路とは、ひたすらお参りを繰り返す修行であり、楽しい観光ではない。


 本日は10番札所まで回るつもりであったが、ここ7番札所で切りあげることにした。時間はまだ14時。この後はもう、本日の宿泊地へ向かうことにする。遍路道を外れ、少し香川方面へ坂を上がったたところに、キャンプの出来る公園がある。お遍路ルートの近くにあるキャンプ場は、旅に出る前にあらかじめ調べてあった。坂道はちょっと厳しいが、1時間ほどで到着できる距離だ。予定していた宿泊地とは違うが、もう良いだろうと。修行を放り出して、キャンプという快楽へ向かうのだ。


 キャンプ場では無いキャンプの出来る公園は、道の駅の向かいにあった。炊事棟やトイレはない。よくある公園の水道が二ヵ所ほどあるだけで、遊具もない広場だけの公園。トイレやシャワーは道の駅にあるので、それを利用する形だ。


 本日は土曜日、最近のキャンプブームもあって、公園は混み合っている。利用料もかからないので、当然だろう。車を乗り入れることが出来るエリアは、大きなテントが張られ、賑わいを見せている。賑わっているエリアは避けて、誰もテントを張っていない、草ぼうぼうのエリアにテントを張ることにする。キャンプは好きだが、キャンプ場の賑わいは嫌いだ。


 テントは自転車日本一周の時から使っているモンベルのもの。もう何十回とテントを張っているので、設置は慣れたもの。自立するテントなので、ペグなんかは使わず、テントを組み立て荷物を中に放り込む。荷物を置く位置も決まっていて、真ん中にマットを敷き、その周りの所定位置に荷物を置いていく。


 テントの中は一人だけの空間。この狭い空間が好きで、キャンプ旅をするのかも。他者との関わりがどうも苦手である。旅をしていても、人との交流は求めていない、出来るだけ人を避けたいのだ。50歳にもなって、結婚もせず、一人で生きている人間である。人としてどこか欠陥があるのかもしれない。テントの中で寝転びながら、そんなことを考えていた。


 しばらくテントの中で休んだ後は道の駅をひやかしたり、辺りを散歩して時間を潰した。夕食は簡単な自炊。ご飯を炊いて、さんまの缶詰をおかずにする。キャンプといっても、凝った調理やたき火をする訳ではない。テントを張って簡単に自炊して、音楽を聴きながら眠る。それが僕のキャンプスタイル。食後はブログを書いた。その後は音楽を聴きながら寝転んでいると、あっという間に眠ってしまった。

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