宇宙の果ての果て 後編

 エアコンから吹き出す、まだまだ残る残暑を打ち消す風が一気に冷たくなった気がした。今、僕の中でぐるぐると回り出した感情は凱場で剥き出しの殺意を向けられた時や、野々村さんの述懐を聞いた時に感じた恐怖感とはまた別の種類のものだ。


 精神的成長を辞めた大人が若者の流行を下らないものと一蹴するように、人は興味の無いものや理解できないものに恐怖し、毛嫌いをする。短くない人生を過ごしていくなかで、情報の取捨選択を行うことは至極当たり前だ。今僕が抱いているものはそれに近いものではあるが、もっと根源的な、人が人である理由。果てのない深淵を覗いてしまったような、あと1分で自分の命が尽きることがわかってしまった瞬間のような、とにかく自分自身の価値観というか、世界観が音を立てて砕け散っていくような気がしたのだ。


 宇宙の果ての果てでぶつかり合い混ざり合った二つの宇宙。紅い錠剤と同じ色をした瞳をしたバケモノ。そして、そのバケモノを食べるという行為。


「まさか」


『その、まさかだろうね』


 僕の声に応えるのは、頭の中の声。今、1番聞きたくなかった声。どういうわけだか僕がもうすぐ口にしようとしている疑問に関して、それが事実であることを認識しているようだった。


「『鍵』は、このバケモノの肉体から作られたってことはないよな?」


 頭の声をねじ伏せて、僕の言葉を待っていた邑兎に向かって声をかける。冷静に考えなくても馬鹿馬鹿しい話だ。与太話以下と言ってもいい。こんなことなど、あってはならない。銀城で会った青年や野々村さんが服用したあの錠剤が他の世界の生き物で作られたなんて、想像もしたくない。


「なかなかに面白い反応だね、と言いたいところだけど、ピンポン大正解だね! アレの肉体をベースに、ドラッグである『鍵』は作られる。あの生き物、私はリバーシブルって呼んでるんだけどね。あんな口をしてるから当然言葉を発することができないんだけど、彼らは何らかの情報ネットワークで繋がっていて、記憶や知識を共有しているらしいんだよね。一つの個体の経験が、全ての個体に反映される。わかりやすく言うと、形は違えど彼ら全てが一つの個体なんだ」


 何故彼女がここまで知っているのかはわからないが、とにかくあの怪物はとんでもない生命体ということだけはわかる。やり方はともかく、『鍵』がその肉体から作られているという事実に僕の頭の中が殴られてもいないのにハンマーで力一杯ぶん殴られたような衝撃を感じる。言葉を発することもできずに立ち尽くす僕をちらりと見た邑兎は小さく咳払いをした後に、『講義』を再開していく。


「隣の宇宙にもね。地球とよく似た星があるんだ。そこにはスピードや分岐点は違っても、地球と同じように長い年月を生命を進化させていった。知能が高く、声帯から声を出し、発達した前肢で道具を使う、ヒトにとても似ている生命体も存在する。とりあえず彼らのことも『ヒト』と定義しておこうか。でも、その数は私たちの宇宙からしてみるととても少ない。理由はとてもシンプルで、彼らは食物連鎖の1番上に存在していないからだ」


「……さっき言った、リバーシブル、とやらが1番だっていうのか」


 絞り出すように呟かれた僕の声に邑兎は御名答だと言うように満足気な顔で頷く。


「その通り、リバーシブルはヒトを捕食する。そして、ヒトがヒトである為に一番必要なものを奪っていくのさ」


 邑兎の指が彼女の右のこめかみを軽く叩く。指の先にあるもの。頭蓋骨の内側にある、ヒトがヒトたらしめる最大の理由が収められている脳。そこを指差しながら、事も無げに邑兎は『講義』を続けていく。部室の中で彼女の声だけが響いていく。空調の音も、僕が生み出す衣擦れや呼吸の音はノイズとなって、ヒートアップを続ける彼女の声に吸い込まれてしまっていた。


「記憶、だよ。例えばあたし、三倉邑兎が三倉邑兎ということを認識するのは自分自身の意識だ。そしてそれを裏付けるのは、あたしがあたしとして生きてきた記憶。それが、認識を形作るんだ。例え、あたしが試験官の中で揺蕩う脳髄だけになったとしても、あたしがあたしである記憶と意志さえ残っているのであれば、あたしはあたしだと認識し続けるよ。そういうヒトがヒトであるアイデンティティそのものを、リバーシブルはヒトを捕食することにより、取り込んでいく」


 いつの間にか水性マーカーを手に持っていた邑兎は、机の奥に置かれたホワイトボードに向かって何かを描き始める。恐らく話の流れだとリバーシブルとやらの創り出しているネットワークを書きたいのだと思われるが、勢いだけで描かれただけの図は具体的に何を表しているのかさっぱり分からなかった。マーカーを投げ捨てるように机の上に置き、何事も無かったのに続けられる邑兎の講義は、まだまだ終わる気配がない。


「そして、さっき説明したようにリバーシブルは記憶は全個体に共有される。食べられたヒトの記憶は、他の記憶と混ざり合い、一つになっていく。それは世界の人たちが争わないようにする為にあらゆるヒト達を一つにしていこうとする、その星の選択かもしれない。あたしには、それを止めることはできない……」


 彼女の話の腰を折るのは非常に好ましくないことになるので出来るだけやらないようにしているのだが、これだけは聞いておかなければならない。


「なんで、なんでそんな事を知ってるんだ? リバーシブルとか、記憶を食べるとか。インターネットとかにあっても信じる人の方が少ない、言っちゃえば与太話じゃねぇか。まるで隣の宇宙に行ってきたみたいだな」


 僕の疑問は、邑兎にとっては答えを用意しているものだったようだ。むしろ、僕がそのような基本的な疑問をぶつけることを想定してあったような気すら覚える。いい質問だと楽しそうな笑みを浮かべながら質問に答えるジャーナリストのように、邑兎は大きく頷いた。


「ふーむ。畑中クン、さっき言ったけど重なり合った宇宙と宇宙のコンタクトを取ることは接点を持つ事だって言ったけど、別にリバーシブルの肉体を身体に取り込むことだけが唯一の方法というワケでもないよ? よく言われる超能力者がそれで、先天的や後天的でも、何らかの理由で偶然、隣の宇宙にいる自分に近い自分と繋がってしまうことがあるんだ。近さの基準は、やはり意志、つまりは記憶だね」


 脳が作り出している記憶と意志は、宇宙が重なると近い自分と繋がる。遽には信じがたい荒唐無稽な話だ。邑兎のいう事を一蹴したい欲求がないとは言い切れない。それでも、頭の何処かで彼女のいう事をまるっきり信じてしまう自分も確かに存在するのだ。


 僕の沈黙を『講義』の続きを求める声だと認識したようだ。邑兎は再びホワイトボードに何かを書き殴るが、やはり何を書いているのかわからない。これが何を示しているのかもわからない。ヒエログリフの解読でもした方が余程楽かもしれない。難解すぎる図面を描き出した邑兎は満足そうな顔をしながら『講義』を再開した。


「デジャブってあるよね? あれは、他の世界の自分に近い存在と繋がり、それが覚えている記憶を思い出すから起きるものなんだ。そして、ヒトを捕食するリバーシブルは記憶を共有する。さっき言ったように、ヒトがヒトである事を認識する唯一のものは記憶だ。仮に繋がりを持ったとしても、ヒトの数が減っている以上、ヒトの記憶を持つリバーシブルのどれかとリンクすることになる。そうなると、どうなると思う?」


「仮に邑兎の言ってることが全部事実なら、隣の宇宙のヒトだけに繋がるはずが、その人プラス沢山の記憶を持ってるバケモノの全て繋がることになるよな。一つでいっぱいいっぱいだってのに、大量に繋がっちまえば脳味噌なんて一瞬でオーバーフローしないか?」


「やーっぱり、君は物分かりが悪いようで良いんだねェ。人間の脳の容量を遥かに超えたリバーシブルの情報の負荷に耐えきれずに、自分に都合の良い情報だけを取り入れるようになる。それが私の見つけた、『お告げ事件』の真相だよ」


 僕の回答に心底嬉しそうな顔をしながら邑兎は腕を組み、大きく頷いた。つまり、『お告げ事件』は隣の宇宙と繋がり人為的に超能力を得る為に『鍵』を使い、隣の宇宙のヒトではなく、その上位存在ともいえるネットワークを持つ生命体と繋がってしまったことによって、自分に都合のいい情報を解釈して行動した結果に起こってしまった一連の事件というワケか。


「御名答〜!。ちなみに夜、眠っているときに夢で『お告げ』を見るのは、睡眠中という無意識になる状況が一番隣の宇宙と繋がりやすいタイミングだからに過ぎないね。特殊な精神集中、俗に言うチャネリングとかが可能な人は自在に繋がることが出来ると思うよ」


 僕の頭の中に返答をするのは、もう何度目かわからない。顔に出しているつもりはないが、ここまで来ると今回の『講義』もあってか邑兎がとてつもないステージに立っているような気がしてきているのだ。そもそも、およそ3年間――長くもないが短くもない期間の付き合いのなかで、三倉邑兎という女性をそれなりに理解していたつもりになっていたのは、僕の勘違いだったのか。


「いやァしかし、野々村チャンだったら夢に溺れることなく、リバーシブル相手でも自意識をしっかりと保てるような気がしてたんだけど。残念だった、うん」


 蚊の鳴くような声で呟かれたと思われる邑兎の小さな声。恐らく無意識で呟かれたその言葉を聞き逃す筈がなかった。


「野々村さん? 野々村さんがどうかしたのか?」


 彼女が『鍵』を使用していた事は僕しか知らない筈だ。敢えて何も考えずに、無知を装って振る舞いながら問い質そうと口を開くが、邑兎の口から聞こえてきたのはどうにも間抜けな声だった。


「あれ? だって野々村ちゃん、『鍵』を使ってたじゃない?」


 さも周知の事実のように、事もなげに平然とした声で語る邑兎の表情は、いつかの野々村さんのように狂気と情愛に染まったものではない平常のものだ。まるで茶飲み会話でもしているような邑兎の瞳に、言いようのない恐怖と違和感が混ざり合ったものを感じてしまう。


 一瞬の沈黙の後に聞こえてきたのは、部室棟の使用時間の終了時間である19時を告げるチャイム。その音に気を取られている間に、一瞬の内に身支度を終えた邑兎が鞄を片手に外に出ようとしていた。


「さてと、結構良い時間になっちゃったことだし、あたしはそろそろ帰るよ。聞きたいことがあるなら、今度まとめて聞くから、それでいいよね?」


 頷く事もできずに硬直する僕に向かって邑兎は更に「あ、最後なんだから鍵閉めヨロシク」と声を掛けた後に足音を立てることなく邑兎は廊下へと消えていく。わからないことが多すぎて頭の中が混線しているが、机の上に未だに散らばっている書類が、すべては現実だと僕に訴えていた。

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