宇宙の果ての果て 前編

 名残惜しいものではあるが、大学最後の夏の気配はもうほとんど消えてなくなっていた。半袖のTシャツ一枚から上に一枚羽織るようになり、そろそろ長袖の出番かなと衣替えのタイミングを見計らい始める。そんな今日、このオカルト研究部の部室にメンバー全員が集まっていた。


 夏休みにあったあの一件以来、なかなか部室に顔を出さなくなった野々村さんが来てくれるのは正直なところ、かなり嬉しい気持ちがあるが瞳を閉じて寝息を立てている彼女のその顔は疲れを隠せないものであった。もしかして『鍵』の禁断症状の悪夢などによって精神的・肉体的に負担があるのではないのか。この場で彼女が『鍵』を使用したという事実をはっきりと認識しているのは僕だけだ。だから、その事実を他の人達……特に藍原さんにだけは気取られないようにしなければ。アメリカンコーヒーの缶の中身を食道に流し込みながら、僕はスマートフォンを操作していた。


 特に何か調べごとをしているわけでもない。ただ単に、手持ち無沙汰なだけだ。この部員たちでぎっしり詰め込まれた状況で卒業論文を書くほどの心理的余裕もないし、それなりに進んできたのでそろそろ教授に一度見てもらおうという段階まで進んできている。少しの間ぐらい論文に関連する事象を頭の中から外したところで、バチは当たらないだろう。


 このオカルト研究部の部室にて部員が集まったとしても基本的にやる事は変わらない。各々が好きな事をする。それだけだ。真嗣は携帯ゲーム機を物凄い指の動きで操作しているし、邑兎と藍原さんは持ってきた本を読んでいた。時計の秒針が動く音をBGMに、僕たちは何も喋る事なく、自分達の時間を共有しながら一つの部屋で過ごしていく。このゆっくりと時間が過ぎていくような雰囲気が僕はたまらなく愛おしく感じているのだ。夢のキャンパスライフのようなものに憧れを抱いているのは事実ではあるが、性に合わないということも理解している。派手なことができない集団がが寄り添って、何も言わずにのんびりしてもいいだろう。今時の大学生らしからぬ考えであることだけは、理解はしている。


 ページをめくる乾いた音と、携帯ゲームのボタンが軽やかに押される音。それと寝息が壁掛け時計の秒針が動くリズムと重なって独自のメロディーになっていく。非常にスローテンポな旋律ではあったが、やはりこの日常の音は、僕にとって心休まるものであり、ここ数ヶ月にあった非日常をゆっくりと洗い流してくれるのではないかさえ思えてしまう。


『現実はそこまで甘くない。そんなことはキミだってわかっているんだろう? 時計の針は戻せても、過ぎ去った時間は取り戻すことは出来ない。例え時間を逆行する手段を得ても、それを観測する者の時間は戻らない。体を若返える手段があったとしても、精神は昔のものに戻ることはない。何一つ変わらずに戻るなんてことは、あり得ないんだよ』


 のんびりとした時間をぶち壊していくものは、いつだって唐突に訪れる。それがこの頃、僕の頭の中から聞こえてくる声であるケースが日に日に増えていた。どんどん頻度を増していく声に困惑しながらも、当初は考えすぎだとか疲れているとか、そういう風に捉えていたのだが、ここ最近は本当に僕の頭がおかしくなってしまったのではないかと思い始めている。


 黒く深い針葉樹林で構成されていた僕の頭の中で僕にひたすら語り続けていた声は、僕と全く同じ声をしていた。きっと、あの声は世界を俯瞰で冷たく見ている僕の、僕自身の声なのだ。自分自身の声によって自分が感じている安息を壊されるというのは、なかなかに堪えるものがある。それもこれも、答えを出すことの出来ない自分自身への憤りと焦りが生み出したものなのだろう。


 スマートフォンの電池の残量は心許ない。顔を上げると、いつの間にか僕と邑兎を除いた部員の姿がなくなっていた。声もかけずに出てしまったとは考えられない。恐らく僕がみんなの声に気付かなかった。それだけなのだろう。全くもって自分の視野と余裕のなさに辟易する。


 しかし、好都合と言ったら好都合だ。あのファイルにあった怪物に関して聞くいい機会なのかもしれない。何やらハードカバーの難しそうな本に没頭する邑兎の邪魔をするのも悪いが、なんとかして声を掛けなければと息を吸い込んだ瞬間に。


「やっぱり、畑中クンだったかぁ。ちょっと順番がズレてるから誰か読んだのかなぁって思ってたんだよネ」


 完全に虚を突かれるような形で放たれた邑兎の言葉に思わず息を呑む。邑兎はいつものように笑っていた。いつもの『講義』を始める少し前。主題を勿体ぶって話さない時の顔にとても似ているものだった。長い付き合いの中で僕の思考が邑兎に届いてしまっているのか、それとも邑兎が僕の思考が読めているのかわからないが、とにかく邑兎はもうあのファイルを僕が読んだことを把握しているようだった。ならば話が早い。いち早く本題に入れることへの安心感が、僕の頭の中で小さく燻る何かを覆い隠していく。


「あぁ、見たよ。アレは。あの怪物は、一体何なんだ。映画や神話の怪物か何かの画像じゃないってのはわかってる。もっと根源的なナニカが違う。そうだ。別の生き物だ。アレは本当に生き物なのか?」


 自分でも何を言っているのかよくわからない。あの怪物の姿を思い出そうとすればするほどに、僕の思考が纏まらなくなっていくのだ。まるで生命を冒涜するような醜悪なフォルムはあれからずっと目蓋の裏に張り付いていて、気を抜いた瞬間にいつでもフラッシュバックするのだ。


「それに、あの眼は。なんだよ、あの眼。あの色。紅い色だ。あの血みたいな色した赤い眼。あの色。何か、知っているんだろ? なんでもいい。答えを教えてくれ……!」


 邑兎は猫のような笑みを崩す事なく、待ってましたと言わんばかりに口を開く。彼女の声帯が空気を振動させ、僕の鼓膜を震わせて脳に認識させた情報は、僕の予想を超えていくものであった。


「あれはね。正真正銘の怪物だよ。外宇宙……というとちょっと語弊があるね。別の次元、別の世界のイキモノって例えたらわかりやすいかもしれない。漫画やアニメとかで、ファンタジーの生き物がいるよね。例えばドラゴンとかスライムとか。あぁいう別次元の生命体の写真だよ」


 どうやら僕は困惑を極めると無表情になるようだ。表情筋がまったく動いていないことを自覚していた。あり得ないと除外していた考え。常識が蔓延る現代の世界で、駆逐されて絶滅してしまった怪異。だからこそ、肯定できるはずがなかった。


「馬鹿馬鹿しい。それこそ虚構そのものじゃあないか。ドラゴンがこの世界にいるのか? スライムは排水溝の中に潜んでるのか? こんなバケモノが世界のどこかにいるんだったら、もっと大騒ぎになってる筈だろ。まさかエリア51とかに匿われてるとか言わないよな?」


 邑兎が先程浮かべていた笑顔は僕の否定の声と同時に消え失せていた。まるで何も知らない子供に授業を行う厳格なベテラン家庭教師のような厳しい表情に一瞬で切り替わった邑兎は、溜息の後に僕に向かって迫力のある声を出した。


「あのね、畑中賢治クン」


 三倉邑兎が人の名前をフルネームで呼ぶことが『講義』を行う時に決まってそうする彼女のルーティンである。


「『お告げ事件』で犯人が受け取るのは外宇宙からのメッセージって、随分前に言ったよね。正確には、外宇宙っていうよりも別世界って例えたほうが正しいんだ。地球は多数の惑星とその周りの衛星を含めた天の川銀河の中にある。じゃあその外はどうなる? 銀河の隣には他の銀河だ。数え切れないほどの数多の銀河で構成される途方もなく広いセカイ。それが私たちが存在する宇宙なのよ」


 椅子から立ち上がり、邑兎は何処までも飛んでいきそうな透き通った声で語り始める。彼女の『講義』は説明というよりも演説という面が強い。彼女の持論を言葉の圧力によってひたすらに殴り付けられる。そんな印象を受けるものだが、今回のそれはいつもより熱が入る速度が遥かに速い。


「宇宙は膨張を続けていく。膨らんでいくということは境目があるということだ。その境目の向こうには、何があると思う!?」


 あっという間に彼女のボルテージが最高値あたりまで上がってきたのだろう。鋭く息を吐き、細い腕に力を入れて机を叩く。大きい音と共に、まだまだ湿った空気も振動する。


「そう、答えは単純。また別の宇宙だ! そうやって宇宙の外にはまた別の宇宙があり、その宇宙の中ではまた数多の銀河が広がって、その中に惑星が存在するんだ。ここまではいいかい?」


 ここまでは彼女の言うことはなんとなく理解できる。僕の頷きに満足したのか、小さく息を吐いた邑兎は『講義』を続けていく。


「宇宙は膨張し続けるとさっき言ったけど、隣の宇宙も膨張していく。そうなると二つの宇宙はぶつかってしまうよね。当然ぶつかりあったところに何も起きない事はない。宇宙と宇宙の摩擦は、いつしか二つの宇宙を重ね合わせるんだ」


 邑兎は両手で二つの握り拳を作り、それを胸の前でぶつける。この二つの拳が宇宙を表しているのだろう。音もなく合わさった二つの手は解け、10本の指が絡み合い一つになった。


「一回は考えたことがあるという前提で話すけど、生命が誕生した惑星が、地球だけなんて有り得ないと思わない? 地球の生命がアメーバみたいなのから長い長い年月を経て進化していったように、姿形は違えど他の星で偶然生まれたナニカから他の姿へと進化していった生命体がいるのは当然さ! あたし達がこうやって意思を持っている以上、進化の末にこういった意志やチカラを得ているはず!」


 手を元に戻し、再び振り上げながら邑兎は大きな声で叫ぶ。隣の部屋の壁が叩かれる音がしたが、そんなもので彼女は止まらないし、むしろ今の邑兎には部屋に聞こえる一定のリズムが進軍の太鼓か何かに聞こえているのだろう。高らかに『講義』を続けていく邑兎は、額に汗をかきながら歌うように言葉を続けていくが、内容はだんだん僕の理解から外れようとしていた。


「宇宙と宇宙が完全に重なり合った時、その二つの宇宙は互いにコンタクトが取れるようになるんだ。よくある霊的接触、死者の声、自身の願望、それこそお告げなんてものはその重なった他の宇宙の中にある生命のある世界から聞こえてきたものに過ぎないの。昔々に話題になった金星人からのメッセージは、実際は隣の宇宙からのメッセージってコトさ」


 もう何を言っているのかわからない。隣の宇宙とのコンタクト。宇宙は広いとはよくいったものだが、よくもまぁこんなトンデモな話が出てくるものだ。虚構だと笑い飛ばすのは簡単なのだが、藍原さんの未来を見る夢、原理と効能が現実離れしている紅く丸い錠剤、そして僕自身の頭の中で響く声――現実離れしていることがあまりにも多すぎて、信頼している女性の話を鵜呑みにしてしまいそうになる。


「コンタクトの方法は色々あるけど、一番手っ取り早いのは『接点を持つ』ってコトだね。なんらかの方法で、隣の宇宙とのつながりを持てばいいんだ。特別な訓練なんて、何一つ必要がない。そのやり方ってのは、その外宇宙の生命体を、取り込むのさ」

 

 それでも、理解が追いつかない。生命体を取り込むというのは、どういうことなのだろうか。困惑を重ね続けていく僕の思考などまるで気付くことなく、さも当然とでも言うように邑兎はあの書類を机の上に置く。勢いあまって散った神束の中から、あの怪物の紅い瞳が写真を通して僕を睨みつけていた。子供の頃にふとした拍子で見てしまったグロテスクな映像のように脳にこびりついていた恐怖感が再び僕の大脳の中で暴れ回る。


「簡単な話だよ。食べるのさ。写真に写っていた、あのバケモノを」


 まるで推理小説の中で事もなげに自身の仮説をワトソン役に話す探偵のように、普段の講義と何一つ変わらぬ様子で語り続ける邑兎がなんだかとても恐ろしいものに見えた。

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