紅い錠剤・紅い瞳 後編
それは、『異様』としか思えない姿だった。いや、正確には『異形』と例えるべきか。映画の中で暴れ回る凶暴な怪物は人間が考えている以上その知識と想像力で造られているものではあるが、この写真に写る怪物は僕の想像を超える醜悪なカタチをしていた。その明らかに地球の進化の系譜から逸れているそのフォルムに、例えようのない恐怖を覚える。
全身を光沢のある黒に染められた異形の生物は、異様に太い筋繊維のようなものが束ねられた両腕は胴体に対して非常に長く、その末端にある身体と同じく真っ黒な爪は人間を楽にバラバラに切り裂いてしまいそうな鋭さが、画質の悪い書類でも容易に窺えた。その生物は頭らしい頭は存在しておらず、まるで御伽噺に出てくる首無しの騎士を想起させる。頭の代わりに身体の至る所に存在する小さな眼らしき器官は血の色のように紅く、紅い。その紅は何度見てもあの錠剤と寸分違わず同じ色をしている。画質が悪いとかプリンターのインクの色や設定で幾らでもそんなものは変えられるし、実際こんな生物がいるかいないかは置いておいて、現物と写真の色が違うことなど往々にしてあり得ることだ。それでも、怪物の紅い瞳があの丸い錠剤と何か関係があるような気がしてならない。
ここまで見てしまうと、もう他人の書類がどうとか言った理由で手を止めることはできなかった。小さく震え始めた手で何枚かの書類を手に取るが、殆どは何語かで書いてあるかわからない文体の意味不明な文書がほぼ全てであった。僕の知る限り英語でもフランス後でもドイツ語でもない、そもそも文字の羅列かどうかすらも識別できない文章は、何を示しているのかさえわからなかった。
意味を判別できない書類はどうしようもないのでファイルに戻していると、もう一枚写真をプリントアウトした別の書類を見つける。どうやら先程の怪物とは微妙に違う個体が写されているもののようだ。基本的な色合いは同じような黒と紅であったが、この個体は豚ぐらいなら一口で食べてしまいそうな口が胴体に何個も何個もついていた。何れの口腔からは鋭利なナイフを思わせる鋭そうな牙が不揃いに生えていて、見るものを恐怖させる醜悪な印象を与えてくる。
なんでこんな怪物の画像がファイリングされているのかわからない。僕が知らないパニックホラー映画か何かの映像をキャプチャーしたものなのかもしれないが、何故か僕の頭の奥がそれは違うと叫んでいる。根拠はないが、確信に近い予感がしていた。
お告げ事件。外宇宙からのメッセージ。藍原さんのような未来を見通す力。歪んだ願望と強い暗示を伴う、急速に行われる脳の強制的なアップデート。それを結びつけるものが、仮にあの怪物だとすれば。あまりにも荒唐無稽な考えが僕の頭の中で暴れまわる。
煙が出そうなほどに思考に思考を重ねていく。先日野々村さんと話しているときに、そもそもわからない『鍵』の製造方法は宇宙人の干物でも使っているのかという馬鹿馬鹿しい冗談を考えたものだが、まさかこのバケモノが材料とかいうオチは幾ら何でも冗談がすぎる。それこそゲームや漫画の世界だ。
『考えたままに、思ったままに動いてみる。そういうのも、悪くないんじゃないか? キミは少し考えすぎなところがあるからね』
後頭部から鈍い痛みとともに声が聞こえてくる。ここ最近、野々村さんとの一件以来こうやって頭の声は僕の思考を覆い被すように響いてくる。頻度はそれほど多くないし、見たことを忘れていることを確信するようなあの黒い森の中でこの声を聞く儚い夢を見ることはなくなったが、僕の思考や行動を監視されているようで正直なところ気分は悪い。
幾ら夢で会話をしたからといって、僕しか観測できないということは、僕の妄想や内なる声である可能性が高い。一応、黙っていてくれと頭の中で念じながら何か手がかりのようなものがないかと書類に印刷された怪物の写真を穴が開くほどに凝視するが、幾ら目を凝らしてもこれ以上の情報を得ることはできなかった。
「賢治サン? どーしました?」
真嗣の声が僕の意識をを現実に引き戻す。慌てて首を上げると、不思議そうな顔をしながら僕を見ている彼の姿があった。その両手には僕が思考の迷宮を歩き回っている時に拾ったと思われるたくさんの書類があった。
「なんか凄い顔してますね。変な記事でも見つけたんですか? それとも、賢治サンの弱みメモとかですか?」
やはりこんな時は、彼の太陽のような笑みがやけに心地よかった。危うく漫画や映画でも三流以下のトンデモな回答を導き出すところだった。首を振って、現実に戻ってきた意識の錨を下ろす。
「な、なんでもないよ。邑兎は凄い調べてるなぁ、と思っただけさ」
それよりも、邑兎がなぜこんなバケモノの画像や意味のわからない文書を保管しているのかがよくわからなかった。これに関しては後日また聞けばいい。そう判断した僕は頭の中を切り替え、真嗣の分もまとめて書類をファイルに詰め込んだ。
「確かに最近何か忙しいみたいなのに、よくやりますよねぇ。ここ最近、部室には来るには来るけど俺らと時間がズレてたり、そもそも来ないことが多いじゃないスか。去年は雨が降ろうと槍が降ろうとサッカー部が不祥事起こそうとずーっと部室にいたような気がするんですよね」
ファイルを机の上に置き、溜息を吐く。真嗣の言うことも尤もだ。ここ最近はなかなか顔を出さないことの多いオカルト研究部部長の猫を思わせる笑みを思い出しながら、相変わらず間抜けなほどに青い空を映している窓の外を見つめた。
「単純に忙しいんじゃないのか? 卒論とか就活とかいろいろあるんだよ、4年生には」
確かに授業があろうとなかろうと毎日入り浸っていた彼女がなかなか来なかったり、すぐにいなくなったと思えば僕たちが帰る直前になってやってきたり来ることに違和感を覚えていないと言えば嘘になる。実際に僕がこうやって卒論で頭を抱えているように、就活でなかなか納得していないのかもしれない。
「あ、そうか。就活かァ。卒業だけじゃなくって、その後もあるんスよねぇ……賢治サンは何かやりたいことってあるんですか? いや、変な意味じゃなくて、単純に志望職種みたいなの」
とぼけたことを口にする真嗣に何を言っているんだと突っ込むこともできた。しかし、考えてみるとゾッとする未来であった。僕がこの世に生を受けてから22年が経った。2012年に世界が週末を迎えるマヤ文明の終末論のなんて話があったが、そんなものもなく今日も世界は続いている。この地球が回転し続ける限り、朝が来れば夜が来る。今日が終われば明日が来て、明日が来れば明後日が来るのだ。『1+1=2』と同じぐらいに、それは僕たちにとって当たり前のことなのだ。
日々を生きている以上、僕たちは未来へと進んでいく。小学校、中学校、高校ときて大学へ進んだ僕は、あと一年もしないうちに社会人としてこの国の荒波の中へと飛び込んでいく。今の時代、新卒で入った会社にずっと勤め続ける方がレアケースらしいが、とにかく余程のことがない限り、65歳ぐらいまで働き続ける。今までの人生で過ごしてきた時間の倍以上をこれから勤労を続けていくことになる。
「卒論のテーマがなかなか決まらなかったヤツに、職種なんて決まってると思うのか?」
結局のところ、これに尽きるのだ。その長い時間をどう過ごせばいいのか、実感が湧かないのだ。猶予期間とも例えられるこの大学の生活の中で、続く40年以上に繋がるものを見つけられないのだ。殆どの大学生がそう感じているような気がするのだが、果たしてどうやって就職活動を行なっているのだろうか。
「そんな気がしてました。就活浪人とかシャレにならんですよ」
オーバーリアクションをする欧米人のように肩を竦める真嗣に若干苛つくが、全くもってその通りなので無言を貫きながら、改めて鞄を手に持って部室のドアを開ける。9月とはいえ、まだまだ生暖かい風が僕のすぐ横を通り抜けていく。そろそろ暗くなりそうだ。
気を取り直して足を強く踏み出すが、画像を通じて僕のことをじっと見つめるバケモノの紅い瞳が海馬の奥底に離れなかった。
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