紅い錠剤・紅い瞳 前編
子供の頃は1日が長く感じられて、毎日が煌めいていた。初めての夏休みなんて永遠に続くと思っていたし、9月になった時は逆に呆然としたりした。21歳で人生の体感時間の折り返しだと何処かで聞いたが、それが本当ならば今年で22歳になる僕はもう折り返し地点を通り過ぎたことになる。まだまだ若輩者ではあるが、時が経つのは早いものだとしみじみ思っていた。
「……で、賢治サンは絶賛休みボケというワケですか」
「ンなわけないだろ、だからこうやってここで卒論書いてるんじゃないか」
「休み中に書かなかったんですか? 4年になったら俺もこーなるのかなぁ……」
ほっとけ、と一言だけ返して、ノートパソコンの画面に広がる論文と格闘を繰り広げていく。部室には僕と真嗣の男二人だけだった。藍原さんはつい先程まで部室にいたのだが、バイトがあると言って一足先に帰ってしまった。そういえば何処でバイトをしているのだろうか。邑兎あたりなら知っていそうだ。彼女から場所を聞いて遊びに行くのも悪くないとは思ったが、そういった事を好まない人もいるだろう。とりあえず今度聞いてみることにする。その邑兎も邑兎でゼミナールにて教授となにか話すことがあると言っていたので、部室に来るのはかなり後になりそうだ。もしかしたら僕らが帰ったあとに部室に来るのかもしれない。
それよりも、気掛かりなのは野々村さんであった。夏休み中に起きたあの出来事以来、彼女は部室に殆ど来なくなっていた。あんな事があったので仕方がないと言ってしまえば終わりなのではあるが、彼女の気持ちを受けきれなかった身としては複雑な気分になる時もある。事情を知っている藍原さんはともかく、真嗣や邑兎は気にならないのだろうか。
「野々村さん、最近来ないな。真嗣、何か知ってるか?」
疑問は自然と言葉に出ていた。よくもまぁ何も知らない体で言えるな。頭の奥で聞こえる自分自身の声を聞かない振りをして、真嗣にむかって問いかける。
「あー。野々村ちゃん、ガッコにもあんまり来てないみたいですねぇ。休みボケでしょうか? まぁまだ休み明けて1ヶ月ぐらいですからねぇ。野々村ちゃん頭いいから試験でいい点取れば単位取れますよ。最悪講義なンざ最初と最後さえ出られれば問題ナッシンなんですし」
嫌な大学生活のライフハックを今更ながら知ってしまった。思わず苦笑する僕に真嗣は身を乗り出す。
「もしかして、野々村ちゃんのこと狙いはじめたんですか? 俺ァてっきり三倉サン派だと思い込んでたんですけど。まさかまさか藍原サン派?」
「なーに言ってんだお前……?」
僕のツッコミを無視して、スマートフォンを操作を続ける真嗣は笑いを必死に堪える顔をしている。ここでムキになるのは完全な悪手だ。思考を切り替えて、改めて論文に向かう。自分で言うのもなんだが、僕はそこまでパソコンに強くない。基本的にネットサーフィンや動画サイトを見るぐらいにしか使わないし、表計算ソフトなんかもロクに使えない。タイピングも拙いので、スマートフォンでフリック入力する方が文字を早く効率的に入力できる気がする。それでも、こうやってパソコンで文字を打ち込んでいる方が集中できる。何故なら、論文はパソコンで書くものというイメージが僕の頭の中ではっきりとあるからだろう。
正直なところ、今現在の進捗は良くて4割といったところだ。文字数制限がそれなりにある以上、書いても書いても終わる気配がないというのが現状だ。とにかく今は文字数を稼ぎ続けるために無駄な足掻きをしている最中というわけで、我武者羅に文字を打ち込み続けていた。
「あ、賢治サン。ちょっとえぇですかね?」
水を入れ過ぎた乳酸菌飲料のように、一つの事象を大量の言葉でひたすらに薄めた文を書き続けている僕の手を止める真嗣の言葉。その口調は先程僕を揶揄っていたものとは違う真剣なものだ。つい眼球や首だけでなく身体全体を彼に向けてしまった。
「ずっと藍原ちゃんと『お告げ事件』に関して調べてたじゃないですか。進展とかあったんですか? ずっと聞こうと思ってたんですけど、どうにもタイミング流しちゃってて……」
真嗣は至って真面目な顔をしていた。どうやら茶化すとかそういう意味ではなく、単純に今の僕がどこまで調べたのかということを知りたいだけなのだろう。後輩の頼みを無碍にするわけにはいかない。夢で自分の内面を見ると言っておきながら、実際には歪んだ願望を映す『鍵』の効能。そしてその願望を信じさせる強烈な暗示をみせる紅く丸い錠剤は、人間の脳を強引にアップデートすることを試みた何処かの誰かの欲望の副産物と思われること。当然野々村さんの事は伏せながらではあるが、僕は言葉をどうにか選びながら真嗣に説明する。
時間にして時計の長針が半周した程度だろうか。一度話している内容ということもあり、思ったよりスムーズに説明できた気がする。僕の話が終わった頃には手元に置いていた缶コーヒーの中身は尽きていて、最早香りすらも残っていない。眼を閉じながら聞いていた真嗣の表情は何かを考えているような雰囲気を感じた。
「なるほど.......っスね。やっぱり、凱場のあの一件も『お告げ事件』みたいだったワケですね。あの日にあの場所でおっさんが死んだって事件があったって聞きましたけど、もしかして関係あったりします?」
一拍の後に放たれるもう一つの疑問。真嗣もそこまで調べているのであれば、ここで僕が言わなくても近いうちに藍原さんに聞きに行くだろう。最早隠す必要がないと判断した僕はあの夜に起きた事の詳細も打ち明けた。再び時計の長針が半分回り、先程の位置まで戻る。
「なるほど。そうなると出所はともかく、そのおっさんが夢で見た願望って何だったんでしょうね。誰かを殺す夢か、それとも死体を作る夢か。つまり、死体が出来なかったら死体になるしかないじゃないっていう思考回路……? まったく、クスリってのはつくづくよく解らンもんっスね」
溜息とともに吐き出させる懸念の声は、凱場にて死を選んだ男が選んだ行動についての僕の考えと一致すると同時に、あまりにも無理がある思考を正常な判断という風に認識させてしまう『鍵』の薄気味悪さを改めて感じる。
元々脱法ドラッグというものは大体が暴力団やその傘下が売り捌いているというケースが大半ではあるのだが、あまりにも効果が不透明すぎる。そもそも原料がわからない物をどうやって作っているのだろうか。まさか本当に宇宙人の干物でも使っているなどというオチは無いと思うが。
「まぁ、今の状況は大体わかりましたよ。あのドラッグは俺が思ったよりもヤバいヤツってコトですね」
やけに力の込められた真嗣の声にこちらも幾らか力を入れて頷く。首を戻しながら彼の顔を覗き込むと、真嗣は真夏の太陽を思わせる普段のの表情に戻っていた。
「いろいろ調べてるンですねぇ。しかし、その時間を卒論にかけてればもうとっくに終わってたんじゃないっスか?」
完全に考えないことにしていた彼の軽口には苦笑いするしかなかった。しかし、かなりの時間話し込んだというのに、邑兎はいつまで経っても部室に戻ってくる気配はない。話もひと段落したことだし、そろそろ家路に着くことにしよう。そろそろ帰ることを真嗣に伝えると、彼も帰ることにすると答え、いそいそと帰り支度を始めた。邑兎に帰る旨のメッセージを入力する。部屋を開けるので、その旨を連絡しておかなければならない。鍵は部室棟の受付に預けておけば、夜中にならない限りは邑兎に渡してくれるだろう。
「さて、そろそろ帰るか」
机の上に置いたリュックサックにノートパソコンなどを詰め込む。机の上は僕が広げていた資料の他に、各々が適当に置いている様々な雑誌や本、そしてプリントなどが散乱していて混沌とした様相を見せていた。誰か来客が来るとは思っていないが、散らかったまま帰るのは精神衛生上よくない。僕は出入り口にドアに向けた足を反転し、机に戻った。
「いや、その前に少し片付けていくか」
「確かにかなり汚いっスね。掃除のオバちゃんに全部捨てられたら悲惨な気がするし、少しでも整頓しときましょうか。二人ならすぐに終わるでしょ」
片付ける、整頓するといっても雑誌などを纏めて持ち主のスペースの上に置く程度だ。乱雑にすると本人……特に邑兎にはなにを言われるか分からない。自分のところ以外は、それなりに手をかけて行う必要がある。
「あ、やっべ」
こういうところでしょうもないミスをするのが樋野真嗣という男だ。ファイルに入れられた紙束を落としてしまったのだろう。大量の紙が床に飛散していく。
「あーあー、怒られても知らないからな」
口ではそう言いながら、ぶち撒けられた書類を拾っていく。プライベートに関わるもの、見せたくないもの、見てはいけないものがあるだろう。出来るだけ意識を別の方向にずらして書類の文章に視界の焦点を合わせないように拾っていくが、否応なしに手を止めてしまう一枚があった。
「なんだ、これは」
書類というよりも、カラーの写真をプリンターで印刷されたものだった。少しだけ画質は粗いが、何が映されているかは知識や記憶と一致すればすぐにわかる。しかし、この書類に印刷されたモノは僕の脳の中の全てをもって判別するものができないものだった。
それは無機質のようで有機的で、爬虫類のようで昆虫的な甲殻を持ち合わせている。地球の生命体とは何か根本的なものが違うフォルムに一見、美術的センスが吹き飛んだ芸術家の創り出した薄気味の悪いオブジェかと思えてしまうが、その瞳には画質が悪い書類でもはっきりとわかるほどに、生命が宿っているような輝きを宿していた。
「なんだ、これは」
呟きは無意識に、もう一度喉の奥から吹き上がってきた。その生命体とカテゴライズしていいか判らない、悍しいバケモノの瞳は、紅く輝いていた。この紅い色を、僕はよく覚えている。あの時受け取った、あの丸い錠剤。捨てることが出来ずに僕の部屋の机の中に入れられている、『鍵』と全く同じ色をしていた。
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