ホンモノの夢 前編

 冷静になった頭が、ようやくまともな思考を再開する。ポケットの中のスマートフォンを取り出し、時刻を確認すると15時になるところだった。昼過ぎに野々村さんと話し、あのような状況になったのだから、それほど時間は経っていないようだった。


 僕の背後を野々村さんが通り抜けていく。素手で僕を昏倒させるほどの腕力……というか技術を持っている彼女なら、もう一度僕を拘束することなど簡単にできるだろう。しかし、今の野々村さんと僕の間にはお互いの気持ちをぶつけあった事で奇妙な信頼関係のようなものが産まれていた。


「それじゃあ、私はこれで」


 靴底が床を叩く音が連続していく。彼女の長い脚によって生まれる若干間隔の長いリズムが、今まで通りの彼女のような気がしてなんだか心地よかった。


「畑中さん」


 くるりと振り向いた状態で、野々村さんは視線を僕に向ける。その瞳はいつもの彼女のように見えたが、どこか不安そうな雰囲気を感じた。強がっているようでも、『悪夢』という未知の副作用に恐怖を感じているようだ。それでも普段通りでいようと大きく開かれた口から、微かに震えた声を出した。


「もう絶対に『鍵』は開けません。それでも、それでも、誘惑にどうしても耐えられなくなったら、連絡していいですか?」


「勿論。先輩として出来る限り、後輩の頼りにはなりたいさ」


 僕の言葉に艶やかな唇の端を微かに傾けて野々村さんは微笑う。まるで僕の心の中を見透かすような笑みに、先程とは違ったベクトルで僕の心臓が収縮した。


「ずるい人。あの子には、そんなことは言わないであげてくださいね」


 そう言い残して、階段を足早に降りていく野々村さんの背中を見送っていく。僕もこれ以上ここにいる必要はない。それよりも、この場所にこれ以上留まっていたくなかった。一刻も早くここなら離れる為に、とっくにいなくなってしまった彼女の背中を追って廊下の床を蹴って外へと向かっていった。


 野々村さんの姿が見えなくなってから僕が足を踏み出すまでに10秒もかかっていなかっただろう。それでも学館の階段や廊下に彼女の後ろ姿を見ることはなかった。学館の出入り口である自動ドアを潜り抜けても、まるで霞や幻だったかのように野々村さんの姿は消え失せている。夏休み真っ最中の人の気配が薄い陣内大学のキャンパス内に取り残されてしまったように、僕は立ち尽くしていた。


 まるで狐に抓まれたような気分になる。まるで先ほどの野々村さんとの問答や感情の揺さぶりが夢や幻だったのでないか。一瞬だけそう思ってしまったのだが、ポケットの中に軽い音を立てて揺れる錠剤の音が全ては現実のものであったことを改めて実感させていく。


 衝撃的なことが多すぎて意識を失っているときに見ていた夢の内容は一部を忘れてしまってはいたが、視界いっぱいに広がる黒く深い針葉樹と、背後で僕に向かって語り続けていた自分自身を『俺』と言っていた声ははっきりと覚えていた。


 僕の頭の中にずっと居座っている癖に、ひたすらに僕を煽り追い詰めるようなことばかり言う彼の事など僕が作り出した妄想と切り捨ててしまえば終わってしまうような気がするが、そう思ってはいけないような気がしたのだ。何か根本的なことを忘れているような。自身を『俺』と呼ぶ、姿の見えない男のことはずっとずっと、それこそ産まれた時から一緒にいたような。そんな不思議な感覚だけが僕の頭の中でぐるぐると回っていくのだ。


 そんな僕を嘲笑うかのように、真夏の太陽の光が僕の身体をじりじりと焼いていく。夏季休暇が終わり、後期の日程が始まるまではまだまだ日数がある。卒業論文も就職活動も終わっていない現状、脱法ドラッグを追っている時間があるならばそちらを優先するべきなのかもしれない。本来、大学というものは学んできたことの集大成である卒業論文を書く為に通うものだとゼミの教授が言っていた。卒業論文を書かない、書けないということは大学生活4年間の否定でもあるのだ。真面目に勉学に励んできた身としては、それだけは回避しなければならない。


 邑兎はもう殆ど書き終わっていると聞いた。何かヒントになると思って一部を読ませてもらった。相も変わらず完成度は非常に高いということだけはわかるのだが、いつものようにオカルトに関してひたすら書かれている内容で、正直なところオカルト研究部内で彼女が書いているものと何が違うのかまるでわからなかった。彼女は僕と違ってきちんとしたゼミナールに所属していたが、どうせ自由奔放な邑兎のことだ。教授に『これが自分が学生生活でやってきたことだ』とでも言って論文を押し付けることによって無茶を通したのだろう。


 ホンモノの未来を示したという藍原さんの夢を模倣する為に作られたという紅く丸い錠剤。藍原さんが予知能力のような特別なチカラを持っていると野々村さんは断言していた。脳の記憶の領域を活性化させて、ヒトという種族をもう一歩先へとアップグレードするためのものだとも仮説していた彼女は、それよりも自分の願望を確認することを優先した。


 野々村さんの気持ちに報いる為には、藍原さんが見た夢の光景に関して間違った見方をしていたり、嘘を言っていなければ学館のあの場所で、僕が腹から血を流して倒れているというビジョンを受け入れて、確定してしまったという未来をどうにか切り抜けていかなくてはならない。


『だからね、生き延びるんだ。そして、また『俺』に会いに来るんだ』


 後頭部の奥の方で、夢で聞いた声が響く。どうやって彼に再び会えるのかはわからないが、その声にも応えようと思った。


 とにかく、今はここにはもう用はない。茹だるような暑さから逃げるようにインターロッキングブロックで舗装された歩道を踏みしめようとした瞬間、見たことのある人影がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。


「あれ?」


 何故か豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をしながら小走りでこちらにやってくるのは、藍原未央だった。後ろに纏めた髪の毛が彼女の歩調に合わせてゆらゆらと揺れているのを見ていると、なんだか自然と笑みが溢れる。1時間ほど前の野々村さんとのやり取りなど無かったかのように、平静を保ったまま彼女に向かって笑いかける。


「藍原さん、今日は学校休みだよ。それとも、調べごとかい?」


 今回はうまく笑顔を作れたような気がした。予めこういう風に考えていれば、それなりに対処ができるようだ。


「いえ……野々村さんから連絡を受けて。畑中さんが大変なことになってるって聞いたから慌てて飛んできたんです」


「ホントは畑中さんに連絡しようかなって思ったんですけど、連絡はしないでくれって言ってたんです。どういうことか、わかりますか?」


 肩を竦めるジェスチャーをした僕を少しだけ怪訝そうな表情で見ている藍原さんの事は見ないことにする。このまま勢いのまま押し通せばなんとかなりそうだ。


「なんでもない、なんでもないんだよ。ちょっとお告げ事件関係で面倒なことになってただけなんだ。でも大丈夫。なんとか、なりそうだ」


 『お告げ事件関係』と聞いて彼女の顔色が変わることは分かっていた。自身の夢の内容と、『鍵』が見せる願望の夢。その2つは近いようでまるで遠い事がわかっているが、それを藍原さんに伝えることはまだ早いような気がした。


「まだわかんないことが多すぎるんだよ。なんていうか、情報をまとめてる最中っていうか。まとまり次第、きちんと伝えるよ。約束する」


「……約束、ですよ?」


 先送りにするだけであったが、一先ずは納得してくれたようだった。彼女の消え入りそうな声を少しでも安心させるために大きく頷くと、藍原さんは複雑そうな笑顔を浮かべる。安心したのか、思い出したように周りを見渡しながらいつもよりも高い声で僕に問い掛ける。


「それで、野々村さんは?」


「一足先に帰ったよ。どっかで会ってないのか?」


 僕の返答に驚いた顔をしながら首を傾げる藍原さんの気持ちもわからなくもない。冷静に考えると、大変なことになっていると思った人は何もなかったと言い続け、呼んだ人は呼んだ人でそのまま帰ってしまったという、呼ばれて慌ててやってきた彼女にしては幾ら何でも酷い仕打ちだ。タチの悪い悪戯と思われても何もおかしくはない。


「畑中さんは、今日、これからどうするんですか?」


 それでも、藍原さんが次に行ったアクションは、安心したような微笑みと、これからの僕に対しての質問であった。何処となく『これ以上秘密を増やさないでくれ』というお願いにも感じる彼女の質問に応じたいが、今の僕には嘘をつき続けることしか出来なかった。


「どうするというか、やらなきゃいけないことは.......卒論、だなぁ」


 僕の顔を見た藍原さんの苦笑いからするに、相応げんなりした表情が出来ていたようだ。卒論も勿論そうなのだが、考えることがあまりにも多すぎる。火傷しそうな程の真夏の風もあって、頭の奥が熱暴走しそうだ。


「……もしかして、無駄足になっちゃった、よな。涼しいところで甘いものでも食べようよ。このままだと溶けちまうよ」


 ひとまずは帰って頭を落ち着かせたいところではあるが、わざわざここまで来てくれた後輩の女の子に報いる為にも、その辺の喫茶店でパフェでも奢ろうと思いキャンパスの外へと向かって歩き出した。僕の後ろ姿を子猫のように歩く藍原さんはなんだかんだで食べる事が好きなようで、更に甘いものと聞いて嬉しさを隠せないようだった。


 一歩一歩足を進めるたびに熱の吸収率が低い、安物のインターロッキングブロックから反射する熱が靴の底へと伝わっていく。その熱から一刻も早く逃げ出したい欲求と、ゆっくりと歩く藍原さんを放って早足で歩くわけにはいかない自制心が、僕の頭の中で小競り合いを続けていた。

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