飲み込まれた果実 後編

 本物と偽物の違い。それが一体何を示しているのか皆目見当は付かないが、『鍵』を使って幻想の僕によって欲望に塗れた夢を見た野々村さんと、未来の僕が苦しみながら倒れるという夢を見た藍原さん。夢の中で見えたビジョンという共通点があるが野々村さんは自分の見た夢が偽物で、藍原さんが見た夢が本物だと言った。そして、藍原さんの夢が必ず後ほど起こりうる未来そのものだと。


 ならば、『鍵』が見せた夢というものは一体どのようなものなのだろうか。疑問は尽きることはないが、とにかく今この状況を脱しない限りはその疑問を晴らすことも出来やしない。今まで見たこともないようなサディスティックな笑みを浮かべながら僕を見下ろしている野々村さんは、真っ赤な舌で薄くルージュが塗られた唇を艶かしく舐めた。


「貴方が受け入れるつもりがなくても、畑中さん、貴方を私のモノにしたいという願望は変わらないんですよ。それこそ手段を選ばない程に、ね」


 ズボンの後ろポケットから取り出されたのは、銀色に光る細長く四角い棒状の何か。何かが収められているような形状にまさかとは思った瞬間にその予感は的中する。金属が擦れ合う不愉快な音と共に、手の中の棒状の物体は瞬く間に鋭利な刃物へと姿を変えていた。


 鈍く光る刃の長さは彼女の握り拳程度の長さしかない。それでも、その刃が根元まで刺さったならば致命的なダメージを負うのは明白である。彼女の性格や今の状況を考えると仮に行動に移した場合、躊躇したり寸止めしたりするとは思えない。凱場で薪割り斧を持った男に追いかけられたときと同じかそれ以上の量の嫌な汗が僕の全身の汗腺から吹き出していく。


「力尽くっていうのは余りにも野蛮なので好きじゃないんですけどね。好きじゃなくてもこうする程に、貴方が欲しいんです。夢で見たように、貴方の全てを侵したいんです。貪りたいんです。蹂躙したいんです。だって、きっとそれが、愛なんですから」


 ナイフの刃を前に突き出した野々村さんは、瞳を爛々と輝かせながら僕に向かってゆっくりと歩く。素足が床に着いては離れる音と共にナイフを構えている彼女の先ほどまでは狂気に塗れていたその姿は、僕には何故か縋り付くように、懇願しているように見えた。


「もう一度聞きます。畑中さん、貴方は……私を、受け入れてくれますか? 私を、愛してくれますか?」


 いつの間にか彼女の瞳には狂気が薄れていて、ただただ純粋に自分を受け入れて欲しいという願いだけが見えた。だからこそ、僕は自分の気持ちに正直にならなければならない。銀色に光る刃など見向きもせず、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめながら自分の心のままに口を開いた。


「……ごめん。本当にごめん。そんな経験もないのにわかったような事を言うのも良くない事だとは思うけど、愛っていうのは、一方的なものじゃあないと思うんだ。想いあうとか、尊い気持ちを与え合うとか、そういう事が愛、だと思う。だから、野々村さん。君の気持ちは嬉しいけど、その気持ちに応えることはできない。例え君が『鍵』を使わず、どこか別の部屋で、違う状況で言ったとしても、きっと、僕はそう言っただろう。君と同じ感情を、君に向けることが出来ないんだ」


 僕の言葉をやはりわかっていたような顔をして受け止めた野々村さんは、折りたたみ式のナイフを握りしめていた右手をゆっくりと下ろす。頬を今にも滑り落ちそうな涙が、彼女の瞳に溜まっていく。その大きな涙の粒に、カーテンの隙間から漏れた光が反射して煌めいた。


「そう、ですか。そうですよね。そういう風に言われることもわかっていたんですよ。無理矢理こんなことをしたからって私が満たされないって、わかってるんですよね。こんな刃物を突きつけられている状況でも自分を曲げない貴方だからこそ、私は貴方を愛したのかもしれません」


「野々村さん、僕は―――」


「何も言わないでください。私は、貴方の本音が聞けた。今はそれだけでいいんです」


 僕に背を向けた野々村さんは自身が座っていた椅子に向かって、先程までとは印象が全く異なるしっかりとした足取りで向かう。今の彼女はいつもの野々村可南子そのものに感じる。冷静さを幾分か取り戻した僕はなんとか立ち上がり、足首を使った間抜けな歩き方で彼女の後ろをなんとか付いていく。


 再び金属が擦れ合う音が聞こえる。野々村さんが離れた椅子の上には、折り畳まれたナイフと半透明のケースが置かれている。椅子から何歩か下がったところで、野々村さんはいつものような冷たい視線でケースを見つめていた。


 半透明のケースには何かが入っているようだったが、まずはこの両足を自由にさせる方が優先だ。椅子の上に置かれた折り畳みナイフをなんとか掴み、苦心しながら刃を展開させる。指の腹で刃をなぞると、冷や汗が流れるほどの切れ味の良さがわかる。下手をすれば剃刀と同じかそれ以上の刃物を丁重に扱いながら、脚に巻かれた結束バンドを切り離すと、鬱血するほどまでではないがきつく締められていた両足が解放される。自由になった足で軽く足踏みをしている僕に向かって、野々村さんは聞き取りにくいほどの小さな声で呟いた。


「私が見た夢。『鍵』が見せる、夢。それはただの願望を映したものではないんです。これはもう、確信と言っていいです。うまく言語化できないんですけれど、おそらく、これは。無数に広がる『もしも』の一つ、それと自分にとって都合の良いものを見せる。原理はどうあれ、そういう冷静に考えると馬鹿馬鹿しいドラッグなんですよ」


 彼女の視線は、僕ではなく半透明のケースに縛り付けられていた。まるで、視線を外すことを禁じられているようなほどの強制力を持っているような印象に、疑念を抱きながらケースを手に取り軽く振ると、聞こえるのはからからという軽い音。


 疑念は急速に確信に変わる。静かにケースを開くと中に入っていたのは風邪薬ほどの大きさの、錠剤が3錠入っていた。その色は、人間の命の通貨でもある血液のように紅い色をしていた。


 これが、こんな小さな錠剤が現を侵し、願望と欲望に塗れた夢の世界の鍵を開けるドラッグなのか。怒りのあまり衝動的に握り潰したい欲求に駆られるが、どうにか踏みとどまることに成功する。なんとか理性をギリギリのところで保てたところで、これ以上この狂気に染める錠剤を収めたケースを見ないようにズボンの右後ろのポケットにねじ込む。その瞬間、携帯電話や財布がいつものようにポケットに入っていることに気づいた。あまりに気が動転しすぎていて、助けを呼ぶ手段に気付かなかったことに今更ながらに気付く。冷静になるとわかる自分の滑稽さに渇いた笑いが自然と出てきた。


「藍原さんは、『もしも』などという不確定なものではなく。現実に見たもの、聞いたもの、触れたもの。ありとあらゆる事象を睡眠中に演算して、『必ず起こりうるもの』として観測する。それは最早、予知能力と断言しても良いでしょう。見せかけの未来を見せる『鍵』が見せる夢などとは、まったくもって違うものです」


 気づいた時には彼女は靴を履き直していて、部室で会ったときと全く変わらない格好へと戻っていた。腕を組んで壁に背中を預けるその姿は、ここ数十分程度と思われる問答や困惑が無かったかのようだ。それでも、彼女の声はその時の自信に溢れていた声とは違い、細く小さく消えそうなものだった。


 いつもの姿の彼女を見て、ポケットの中に入れたばかりのケースの中の錠剤が音を立てる。彼女が手に入れたこのドラッグが僕の手元にあるもので全てならば、そう遠くないうちに野々村さんには『鍵』の齎す苦痛に襲われるだろう。


 幾ら彼女が撒いた種だとしても、野々村さんが苦しむ姿など見たくない。知らないということはないと思うが、副作用のようなあることを伝えなくてはならない。意を決してそのことを告げると、野々村さんは息を首を小さく振りながら答えた。


「飲まなくなると悪夢に襲われる。聞いています。これに関してはまだ分かりません。私は何回か服用していましたので、恐らく暫く後に見ることになります。まぁ、叶うはずのない欲望に溺れた私の贖罪です。甘んじて受けることにします」


 どこか遠くを見ながら覚悟を決めた表情で力強く頷く彼女を見て、安心する自分がいた。体験したことがないからわからないが、薬物の禁断症状というものは想像を絶するほどの苦痛なのだという。肉体的依存のない『鍵』ではまだマシな方かもしれないが、彼女ならきっと耐え切ることが出来る。そういった信頼はまだ僕の胸の奥でしっかりと光り輝いていた。


 その信頼を胸に秘めて、彼女に向かって一番聞きたいことを口にしようとするより先に、野々村さんは僕の目をしっかりと見つめて口を開く。


「貴方が聞きたいことは、わかっています。私が何処でこの『鍵』を手に入れたか、ということですよね」


 先程よりは格段に声が大きくなってはいたが、その声は今までで一番困惑しているというより、言葉を選んでいるような気がした。まるで自分の言っていることが信じられないとでも言いたいようだった。


「それは、言えないんです。言うことができないのではなく、思い出せないんです。『鍵』を使うことで私の頭の中でどういった暗示や処理が行われているのかわかりません。それでも、私に多数の『鍵』を収めたあのケースを手渡した人が誰なのか。そもそも何処でどうやって手に入れたのか。そこだけが記憶に靄がかかっているような、抜け落ちているように思いますことができないんです。気がついたら、ポケットの中にケースが入っていました」


 今この状況でなければ。相原さんの夢の話を聞いていなければ。そして、僕が見てきた夢の内容を覚えていなければ。僕は彼女の話を白昼夢の出来事だと指摘し、信じることはなかっただろう。あまりにも荒唐無稽な話ではあったが、現を侵すだけあって、ポケットの中で踊る紅く丸い錠剤には認識や記憶を捻じ曲げる効果も存在するのだろう。彼女が嘘をついているとは、とても思えなかった。


「畑中さん」


 僕が彼女に向けている信頼の感情を受け取ったのか、野々村さんは狂気に塗れていた時とは違うベクトルの、絵画の中の聖母のような優しい笑みを浮かべる。


「貴方を私のものにするのは諦めます。それでも、私が貴方を愛しているということだけは、覚えておいてください。それは、『鍵』で自覚したことではありますが、私の本心なんです」


 これ以上、野々村さんを傷つけるわけにはいかない。彼女に向けた言葉であっても、今の僕が何を言っても、傷を深めてしまうことだけだ。出来ることといえば、静かに頷くことだけだった。


 それでも、この頷きだけで彼女にとっては十分すぎるようだった。


 自由になった身体で野々村さんの前を通り過ぎる。引戸タイプのドアを開き、一気に開く。遮断されていた夏の太陽が放つ光が、僕を一瞬で照らし出した。

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