飲み込まれた果実 中編

「どうして、なんでだよ」


 絞り出した声は自分でも驚くほどに小さく、力無いものだった。先程から情報が多すぎて頭の中で処理が出来ない。目覚めた瞬間に頭の内側で広がっていた夢の光景に野々村さんの独白、そして『鍵』。訳のわからない事だらけで脳がパニックを起こす寸前だ。


「だから言ったじゃないですか。私のお腹の奥の方で暴れまわっている独占欲のような感情は、本当に私の願望そのものなのかを確かめる為、ですよ」


 困惑に困惑を重ねる僕とは違って、野々村可南子はいつものような平坦な口調へと戻っていた。つまらなそうに話す彼女の姿に、額が急速に熱を持っていく。根源的な感情のままに、肺の中の空気を全て吐き出しながら叫ぶ。


「そんな事のために、そんな下らないことの為にドラッグを使ったのか⁉︎」


 嘆くような怒りの声も、野々村さんは表情を変えることはなかった。僕の言葉が聞こえていないのか、それともこういうことを言われるであろうことを以前からわかっていたような涼しい顔をしていた彼女であったが、その二つの眼球は爛々と輝き、本人の美貌もあって見るものを釘付けにする狂気的な印象を一層強めていた。


「下らないこと、ですか。私にとっては、自分の願望を客観的に観ることが最大の近道に思えたんですよ。そもそも下らないかどうかとか、そういう価値観みたいな、本人にしか認識できないものを他の人がどうこう言うなんて、間違っているとは思いませんか?」


 野々村さんは先程と同じように右手を伸ばす。僕の頬に向かって伸ばされた細い手を反射的に払い除けても、やはり彼女の表情は変わることがなかった。まるで先程の笑みなど幻だったかのように、再び凍てついた氷の表情を変えることはない。


「どんな本を読んでも、どんな映画を観ても。私は今まで愛というものが理解出来ずに生きてきました。そんな私が観る、個人に向けた独占欲とでも例えるべき自分の願望というものが、どういったものになるのか。その願望を映す夢の中で畑中さん。貴方が出てきたならば、私は貴方を愛している。そういう認識が欲しかったんですよ」


 行き場をなくした右手を残る左手で摩りながら、何歩か後ろに下がった野々村さんは再び椅子に座る。彼女が離れたことにより、熱く煮え滾っていた僕の頭の中がゆっくりと冷めていく。幾らか余裕が出来た思考回路を必死に動かし、今この現状をどうにかする方法をひたすらに考えるが、直ぐに画期的で斬新なアイデアなんて考え付く筈もなかった。


「……それで、どういった夢を見たんだ? ドラッグは当然許されるものではないだろ。脱法だろうが合法だろうが、だ。特に野々村さんみたいな女の子がそんなことをしたって、何もいいことなんてない。例えばアルコールよりも大麻の方が依存性がどうとか、治療にどうとかいうのはこの国においては詭弁以外の何でもないことは、頭のいい君のことだからわかっているだろう。そんな君が色んなものをかなぐり捨ててでも見た光景っていうのは……どんなものだったんだ?」


 回転を続ける頭の中でまず思い浮かんだのは、彼女が鍵を開いて見えた夢の中の光景がどのようなものか聞くことだった。彼女の願望を映し出した夢を見たのであれば、その願望を読み取ることによって何らかの打開策が浮かぶような気がしたのだ。もしかしたら叶えられる願望ならば叶えることによって満足するかもしれないし、出来ないなら出来ないなりに対処方法を見つければいいだけなのだ。


「そうですね。遅かれ早かれ言うつもりだったんですが、ここまで煽られてしまうと、きちんと明かした方が、いいですよね」


 背もたれに体重を乗せたのか、華奢なパイプ椅子が微かに軋む音が聞こえる。目の輝きを一層強めながら、野々村さんは僕を真っ直ぐに見下ろした。


「当然、畑中さん。貴方を私のモノにする内容でしたよ。ベッドの上で裸になった私が貴方と目合まぐわい一つになる。それはとてもとても幸福で、満たされるものでした。愛されるということが、こんなにも満たされるものだなんて。こんな素晴らしいことが、本当にこの世界にあるなんて思ってもいませんでした」


 氷のような表情が再び溶ける。永久凍土を溶かすほどの熱を持った恍惚な表情を浮かべた彼女の右足をぶらぶらと動かし続けるうちに、履いていたヒールサンダル靴が床に落ちて、乾いた音が聞こえた。


 いつか見た夢を思い出したのか、うっとりとした表情の野々村さんはとても煽情的で、彼女の美しい肉体と相まって『雌』としての商品価値を極め尽くしたような印象を覚える。クレオパトラだろうが楊貴妃だろうが今の彼女には敵わない。そんな野々村さんに煩悩を刺激されない正常な『雄』など存在しないと断言できるだろう。


 それでも、今の僕はそのような感情を抱くことなど出来なかった。一応弁解しておくが、雄としてうまく機能していなかったり、特殊な趣味があるわけでもない。幾ら極上な美女である野々村さんがが頬を上気させ、熱のこもった息を僕に吹きかけてきてこようとも、一夜の夢に溺れている彼女を受け入れることは出来ないし、受け入れる気もなかった。


「野々村さんの、モノか。申し訳ないが僕は誰かのものになれるほどに出来た人間でもないよ。自分のことで一杯一杯なのに、他の人のことなんか構っていられる余裕なんか無いさ。誰かに寄り添うことなんて、出来やしない」


「貴方ならそういうと思っていましたよ」


 僕の拒絶の言葉すらも、今の彼女にとっては枕元で囁かれる愛の言葉にでも聞こえているのだろう。野々村さんは僕の声を聞くたびに、腕を組みながら細かく震えている。一体、彼女の夢の中で僕は何をしたのだろうか。そして、愛を知らなかったという彼女の感情を決定づけるような大きな暗示のようなものが、現を侵す紅く丸い錠剤によって齎されてしまったのだと思うと、どうにもやるせなさが僕の胸に込み上げてくるのだ。

 

「そうやって先を読むのも、『鍵』のチカラか何かかい?」


 これもただの皮肉。行ってしまえば八つ当たりだ。長いこと同じ部活で活動していて、心の底から信頼していた人がクスリに身を堕とした。先程は怒りの感情をぶつけてしまったのだが、今ではその感情よりも悲しさや悔しさの比率の方が圧倒的に高かった。


 ぐるぐる回る僕の感情すらも受け入れて、野々村さんは瞳に秘めた狂気を一層強めていく。締め切られたカーテンによって薄暗くなっているこの部屋でも、彼女の瞳が輝いて見えるほどだ。官能的に息を吐きながら、彼女は僕の皮肉に応えていった。


「違いますよ。あの錠剤は、なんというか……未来を見るようなものではないんです。見える世界を拡げる、と言った方が正しいような気がします」


「どういう、ことだ? 例えば禅を行うことによって自身の精神状態を客観的に見るとかあるけれど、そういうものではないんだろうな。脳の記憶の領域を活性化させるってさっき言ってたよな。目に見えるあらゆるものが記憶と連想付けて見えたりすることによって、世界が拡がって見えたりするのだろうか?」


 野々村さんの答えは、あまりにも抽象的でなにを伝えようとしているのかよくわからない。いつもは理路整然と話す彼女であったが、頭の中では理解できているものをうまく言語化できないような、理解はできるが納得はできないような、そんなもどかしさのある口調であった。


「……私も理解するのに時間がかかりましたよ。最初の一度だけではまるでわかりませんでした。それでも何度か『鍵』を開けて、私なりに理解したものがあります」


 微かに眉を顰めながら、顎に手をかけた野々村さんの姿は、いつも部室で何かを考えている時のものと全く同じものだ。いつもと同じ姿勢で、いつもの声で話している彼女はゆっくりと口を開く。


「あの子が未来を見たことを認めるつもりはない、と少し前に言いましたけどね。それはあくまで私自身の気持ちの問題であって、あの子の夢で見たことは本当に起きることですよ。何度も『鍵』を開けた今なら、確実に理解できます。あのから子が見た夢は、入学した時に聞いた時から何も聞いていないからわかりません。それでも、藍原未央が見た夢は、現実に起こります。これは、もう覆すことのない事実そのものになったんです」


 夢の中で背後から言われた言葉と同じ事を現実で聞くことになるとは思わなかった。再び訪れた衝撃に後ずさろうとしたが、足に巻かれた結束バンドのことを失念していた為に上手くいかず芋虫のように蠢いてしまう。その姿を、野々村可南子は愛おしそうに見下ろしていた。


「私と違って、あの子は、ホンモノなんですよ」


 熱い吐息と共に、左足の靴も脱ぎ捨てる。裸足になった彼女は、爪先ですら芸術家が命を掛けて作り出した彫刻のように美しかった。


 

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