飲み込まれた果実 前編
まるで微睡みの途中で冷水を掛けられたかのように、僕の意識は一瞬で覚醒した。仰向けになって床に倒れていたことなど、今の僕にとってはそうでもいい。いつもの目覚めとは全くもって違う感覚に、頭を軽く押さえてしまう。
今の僕の脳裏に浮かぶのは、黒く深い針葉樹林。そして、脳を揺らすように僕に向かって嘆くように言葉を放ってきた、僕によく似た声。まるで子供の頃の記憶がふとした瞬間に引き摺り出されるように、夢で見ていた光景がフラッシュバックしていく。高速で処理されていく情報に後頭部の奥、海馬あたりが熱を持っていくのを感じた。
初めて認識した、内容を覚えている夢というものに困惑していた為に、今自分の身に何が起こっていたかという根本的な事実を失念してしまいそうになる。慌てて首を上に向けると、なんとも言えない表情で僕を見下ろしている野々村さんの姿が見えた。
身体を起こして立ち上がろうとするが、上手くいかない。硬い床の上に無造作に寝かされていたことによる全身の痛みの軋みと、鳩尾周辺にまだまだ響いている鈍い痛みもあるが、両の足首がプラスチック製の結束バンドで固定されていて動かすことが出来ない。この状態では歩くことはおろか、立ち上がることも難しいだろう。
「……思ったよりお早いお目覚めですね」
床に転がる僕を見下ろしている野々村さんは、パイプ椅子に座り、細く長い足を組んでいる。左脚の上に置かれた右脚が、彼女の氷のような表情とは違って、どこか楽しげにゆらりゆらりと揺れていた。
「私、ずっと、ずっと探していたものがあったんです」
首や眼球を動かして辺りを確認する。閉められたカーテンから微かに漏れている日の光の強さから、あまり時間が経っていないことがわかる。
そして、幾ら野々村さんでも協力者でもいない限り、あの場所から長い距離を移動することはできないだろう。野々村さん以外に人の気配を感じない為に、まだ僕達は学館のどこかにいるであろうことも予想できた。あまりにも少ない情報を少しでも手に入れようと、どうにかして立ち上がろうとしている僕を見ることなく、野々村さんは何を考えているのかわからない無表情で呟く。
「畑中さんは疑問に思った事はないんですか? 私がなんで、あの旅行の時にあんなに高いクルマを持ってきたこととか」
確かにそれは気になっていた。初めての運転に学生身分では到底手の届かない、傷つけるどころか素手で触ることすら躊躇しそうな高級そうなクルマを実家から借りてくると簡単にいい、乗ってきた彼女の家柄というか、お金周りは普通のそれとは違うのではないだろう。漠然とではあるが、そんなことを思っていた。
先程まで見ていた夢と、拘束された上に聞かされる野々村さんの話が耳に入り混乱しはじめている今の状況。まだまだ纏まらない頭をどうにか動かしながら、なんとかして現状を打開する為に身体を動かす僕に一瞬だけ憐れむような視線を向けた野々村さんは、すぐに虚空に焦点を戻して虚げに語り続ける。
「まぁ冷静に考えればわかると思いますが、私、実家がとても太いんですよ、空いているクルマがアレしかないぐらいには。自分で言うのもちょっと横柄に聞こえるかもしれないんですけど、ね」
どこか遠くを見るような彼女の瞳は少しも動くことはない。しかし、何故かその眼差しが悲しむような、憐むような形容し難い感情を帯びているような気がした。
「父は会社を立ち上げ、一代で財を成した男でした。その為に家に帰ることなく働き続け、途方もない努力を続けていたということは、娘の私でも理解しています。それでも、父が家に帰らないという事実は、まだまだ幼かった頃の私や妹には耐えることのできない空白でした。そして、家に帰らない父を愛しているのかわからない母。父が帰らないことをいいことに、広い広い屋敷の一室で使用人の男と何かをしていたことだけは覚えています」
野々村さんは、微かに眉を顰めながら小さく息を吐き出した。なかなかに複雑な家庭環境の中で育ってきた彼女に、どういう風に声を掛けていいかわからない。そもそも、なぜ僕をこのような形で拘束をするのか。問い詰めたいことと彼女に声を掛けたい内容がぐちゃぐちゃに混ざり合って、僕の言語中枢がパニックを起こしてしまっていた。
「父と母は、私たちに親らしいことをしてこなかった。私たちを世話していた使用人の人達は優しかったような気がしますが、親が子に向けるような感情はありませんでした。そうなると、子供っていうのは『愛』という感情がわからなくなるんですよ。現代の人間がおそらく一番最初に向けられる家族愛を理解できないから、それに続く『誰かを愛する』という感情が。私だけじゃない。恐らく亜弥子……私の妹も同じような事になっているでしょう」
いつの間にか野々村さんは冷たさすらも感じない、虚無そのものといった表情で何もない虚空をただ見つめている。ただただレポート文章を何も感情を込めずに喋り続けるだけの彼女に、凱場の夜に感じた恐怖とはまた違う、精神を荒い紙やすりでゆっくりと削られていくような畏怖を感じ続けていた。
「だから、私は得られなかった愛そのものを探していたんです。こんな大学に来たのも、ただの気まぐれでした。何処でも良かったんです。いつでも良かったんです。大学生活は猶予期間っていうじゃないですか。私にとってはそれ以上でも、それ以下でもない」
細く長い脚を組み替えるだけの仕草ですら、野々村さんはまるでテレビや映画で観るようなモデルのように美しい。ローアングルで見ることのないこの光景は、今この状況でなければ非常に眼福ものだったのかもしれないと一瞬だけ雑念が過ぎる。慌ててその邪念を振り払うが、今の僕に出来ることは、彼女を見上げながら呑み込まれそうな巨大な畏怖に耐える事だけだった。
「でもね、畑中さん。入学したばかりの頃、貴方をはじめて見た時にね。とある欲求が浮かんだんですよ」
野々村さんは僕の瞳を覗き込みながら、何かを決心したかのように大きく息を吸う。締め切られたはずの部屋の中で彼女の呼吸につられて何かがざわり、と動いたような気がした。
「貴方を私のものにしたい。私だけのものにしたいという欲求です。この胃の奥の方で煮えたぎるものこそが、私がずっと欲していた愛なのではないか。そう思ったんです。こういうのって、一目惚れっていうんでしょうか」
吐息とともに一気に吐き出されたのは、予想すらしていなかった言葉。なんとか紡いできた僕の思考回路が一瞬で塗りつぶされていくのを感じる。どういった風に返せばいいのかわからず、思考がぐるぐると回り始めた頭の中でどうにか言葉を捻り出そうと勢いのままに言葉を紡ごうとした瞬間に、それを遮るように、彼女の言葉は続いていく。
「でも、貴方は私のことなど見ていなかった。今年やってきたあの子、藍原さんの見た夢をずっと追っている。しなくてもいいことをして、危険な目にも遭った……!」
先程とは違う、怒気を大いに含んだ声によって夏の湿った空気が急速に乾いていき、部屋の中がぴりぴりとした緊張感に包まれていく。
野々村さんは椅子から立ち上がり、僕のすぐ近くまでやってくる。床と靴底のぶつかる少し高い音が5回鳴らし、僕の目まで来た彼女は片膝を立てて座った。
いまだに立ち上がることが出来ず、床に寝そべりながら蠢いている僕の顔を至近距離で覗き込む野々村さんの距離は、お互いの吐息や体温すら感じられそうに近い。手を伸ばせば簡単に触れられるし押しのけられる距離だが、彼女の妖しく光る瞳の輝きに、僕の身体は蛇に睨まれた蛙のように動くことが出来ずにいた。
「『鍵』の効能は、服用した人物の願望を見せる効果もあるってことは、もう知っていますよね。私の身体の内側で暴れまわっているこの感情は、果たして私の本当の願望そのものなのか。気のせいなのではないのか、確かめる絶好のアイテムじゃないですか」
右の頬を優しく撫でられる。まるで情事に至る直前のような、艶かしい手つきに微かに身震いをしてしまう。彼女の爛々と輝く瞳が、凱場の夜で出会ったあの男のような狂気に染まっていく。
「だから、試したんですよ」
「まさか」
僕の喉から出てきた言葉は、掠れきっていた。その後の言葉など、聞きたくはなかった。耳を塞ごうと両手を動かす直前、無情にも彼女の言葉は空気を伝わって僕の鼓膜を容赦なく震わせて脳に信号となってダイレクトに情報を伝えていく。
「やっとわかったんですか? 飲んだんですよ。紅くて丸い『鍵』を、ね」
野々村可南子は、笑っていた。初めて見る彼女の屈託のない笑顔は、普段の冷たい印象とのギャップもあり、この状況であれば何らかのプラスの感情を抱いたかもしれない。しかし、今の彼女の笑みを見ると、背筋どころか全身の毛穴が逆立つような恐怖感しか浮かばなかった。
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