真夏の悪寒 後編

 意識を失っていたのは、ほんの数秒だと思っていた。仰向けに倒れていた僕は、ゆっくりと起き上がって辺りを見回した瞬間に全てを理解する。


「こんな真っ昼間に会うとは、なかなかに奇遇だね」


 僕のすぐ後ろで笑いを噛み殺したような声と、その周りに広がる黒い針葉樹林で囲まれた深淵のような森。それだけで、これが夢であることを再認識させる。


 黒雲母の欠片のように鋭い木の葉が僕の掌に深々と突き刺さっているが、血は一滴も流れていないし痛覚も存在しない。痛みを感じることによって目覚められればと乱暴にそれを引き抜いても、まるで最初から刺さっていなかったかのように傷口はすぐに消えて無くなるだけだった。


「前にも言っただろう。この場では自分が認識したいものしか認識できないって。本当はキミはこの程度で目が覚めるなんて思っていないんだ。こんな『突き刺さっている破片を引き抜いた程度』では起きないだろうとこの脳の中で確信しているんだよ。痛みを想像できるならば、痛みを認識しているならば、本当に、本当に痛いはずさ」


 どこか突き放すような口調の声が鼓膜の奥を突き抜けるような感覚。そもそも声の言うことが正しければ、本当は脳が直接聞こえていることを鼓膜から聞こえているように認識しているだけであり、そう認識してしまうのは僕が音は耳から聞こえるものだという固定概念に囚われているからなのだろう。そもそも、声が耳以外から聞こえることなど、普通は有り得ないものなのだが。


「本当に、本当に哀れだ。キミはいつも結果がわかっているのに行動をする。キミがここ最近、ずっと考えていることもそうだ」


 声はいつもより遠くから聞こえてくるような気がする。いつものように勝手に動き出し、何処かへと向かう僕の両足に逆らう気はもう起きない。意識を後ろの声に集中し、ゆっくりと歩いていく。毎度毎度感じていた薄いガラスを何枚も踏み抜くような足元の感触はなく、地上5センチメートル程度を浮遊しているような奇妙な感覚があった。浮遊感に戸惑う僕のことなどお構いなしに、一方的に声は僕の脳を揺さぶり続けていく。


「キミは解っていない振りをしているから、ここでホントウのことを教えてあげるよ。もし未来が本当に『見えて』しまったのであれば、もうその事実は決定してしまっている。あの娘の戯言が真実であるならば、どんなに危機を脱するように立ち回っても、逃げ回っても、あの場所キミが倒れるという未来が確定してしまっているということさ。それこそ、宇宙をもう一度作り直しでもしない限りは、その未来を覆すことなんてできない。キミは必ず、また、あの場所に行く。だって、ついさっきもそこに来ただろう? そしていつか必ず、倒れる。それはもう、逃れることなど出来ないことなんだ」


 意味のないはずの心臓が、縮み上がったようながした。側頭部を木製のハンマーで思いっきり殴られたような衝撃を受けても、僕の両脚は歩くことを止めずに前へ前へと進み続ける。相変わらず背後の声は未来が覆すことが出来ない理由も、そもそもこの足が何処のか何も教えてくれない。意思を反映させることなく勝手に進み続ける足に引っ張られる僕自身の意識とその後ろを離れることなく付いてくる声という、側から見ればよくわからない状況は膠着したまま時間は刻々と過ぎていった。


「有り体に言ってしまえば、もう諦めるしかない。解決方法も、なくもないけどね」


 一泊置かれて聞こえてきた溜息混じりの声は、先程よりは幾分か近づいてきているような気がした。僕の思考に再び疑問符を捻じ込んでくる言葉に首を捻ろうとするが、いつしか僕の身体の眼球しか動かすことが出来なくなってしまっていた。必死に首を動かそうとしても、体を捻って動かそうとしても、まるで他人の視界を支配しているかのように肉体だけが勝手に動き続けている。


「答えはキミが見つけるんだ。『俺』が知っている以上、答えはキミも理解している筈だ。これも前に言ったね、『俺』自身がキミの脳が作り出した幻想ならば、既に答えはキミの中にある。それだけは、それだけは認識してほしい」


 夢遊病患者のようにふらつきながら歩き続ける僕に向かって、背中の声は突き放すように言葉を放つ。それにしても、初めて声の一人称が聞こえたような気がする。少し高い程度の男声は、中性的というわけでもないのに『俺』という言葉を聞くまでこの声の主の性別を認識することができなかったのだ。


「ん? 『俺』だって? まさかまさか、今までずっと、一部が聞こえていなかったのかい?」


 僕の思考は声の主にとっては筒抜けと同義だ。暫くの沈黙の後、声は驚いたような声を上げた直後に聞こえてきたのは、侮蔑を含んだ声であった。それこそ、怖気を感じる程に。


「いやいや、いやいや。ここまで。ここまでだとは思わなかったよ。無知を気取るのもいい加減にしてくれ。何もかも蓋をして、無かったことにできるだなんてあまりにも、あまりにも都合が良すぎないかい? 驚きを通り越して笑いが込み上げてくる。これは、本当に、本当に哀れだ。ずっとずっとずっとずっと、言い訳を続けているのか。子供の頃からずっと何も変わっていない―――未熟な精神を持っていたから、何も出来ない。昔のように、無力でいたいんだ。未熟だから。弱いから。矮小だから。やはりキミは今まで心の奥底で逃げ道を作っている。『俺』がこう話しているという時点で実はその事にすら気付いているっていうんだからお笑いだよ。滑稽とかそういうのを通り越して喜劇の中の道化師でも見ているようだ!」


 捲し立てるように嘲笑う声に怒りを覚える。その感情に影響されたのか、彼の声の更に後方から乾いた木材が燃えるような音が聞こえてくる。小さく炸裂したような音が連続して鳴り、男の声はその熱を受けたのか微かにトーンを落とした。


「怒ったかい? だけど、それがキミだ。何もかも間に合わず、何も守れずにただただ堕ちていくだけの存在さ」


 いつしか足は止まっていた。それでも動く事のない肉体を動かそうと懸命に踠いても、まるで金縛りにあったかのように動くことはなく、相変わらず言葉を発することもできなかった。それでも風もないのに微かに揺れている黒い木々で囲われた深い森を認識することはできるし、男の声も聞き取ることができる。


「だからこそ、だからこそキミが足掻き悶えながら堕ちていく様を、『俺』は観測し続けるんだ。キミの脳に『俺』が存在し続ける以上、それはキミの命の輝きが消え失せるまで永遠に行われることになる。つまり、キミの意思で消えるのは吝かではないが、こんな下らないことで『俺』は消え失せたくないんだよ」


 いつかと同じような、少し悲しそうな声が聞こえる。なんというか、冷静になって考えてみると彼は僕が思っているより感情が豊かなのだろう。怒りや悲しみ、哀れみといったものを脳全体で感じ取ることができる。何故、彼がそんな感情を僕自身にぶつけてくるのか、そもそも彼は誰なのか。わからないことだらけで、深く考えると思考が雁字搦めになりそうになるので考えることを切り上げる。その中断を認識している声が、空気を伝わらずに脳に直接響いてきた。


「もうそろそろ目覚める時だ。そうだ、いいことを教えてあげるよ。理解しているとは思うけれど、キミは強制的に意識を失わされたから、『俺』の声を聞いている。しかし人の意識というものはなかなか上手く刈り取ることは出来ないのだろうね。キミは微睡むようにこの夢の世界に流れ着いてきたというワケだ。当然、今のこの時間は現実の時間とは流れはまるで違うものだ。邯鄲の枕という故事があるが、そのようなものだね。そして意識と無意識の境界線が殆ど無くなっている現在ならば、キミは今回の会話を覚えていられるだろう」


 急速にやってくる浮遊間に抗おうとしても、意識は上へ上へと上っていく。懸命に手を伸ばそうとしても、身体は動くことはない。それでも、遠くなっていく声だけははっきりと聞こえていた。


「だからね、生き延びるんだ。そして、また『俺』に会いに来るんだ」


 何処かで聞いたことのある声は、いつのまにか僕のものと殆ど同じ声をしていた。そのことを疑問に思う時間もなく、僕の意識は現実に引っ張り戻された。

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