真夏の悪寒 前編
夏はゆっくりとやってくるものではない。ずっと遠くにいたと思えば、気が付けば蝉の鳴き声と共にすぐ後ろにいるものだ。燦々と燃え上がる太陽の周りを、自転し公転する地球のサイクルによって発生する四季。そのうち、僅かに太陽が近づく期間のこの島国は茹だるような暑さに襲われるのも、この星が滅びない限り永遠に繰り返されるサイクルなのだろう。
あまりの暑さに思考があらゆる方向へと移行していく。蝉の大合唱は、木々に囲まれた久我の町では夏の風物詩の一つだ。生まれ育った日比生とは比べ物にならない程の、木の一本一本に蝉の住処が存在しているのではないかと思ってしまうような、残り少ない命を燃やし尽くし次なる世代に繋いでいく虫達の悲痛な叫びコンテストはもう慣れたものだ。
それよりもこの暑さだけはどうにかならないものか。ゼミの教授は「地球温暖化なんて宇宙単位でみたら誤差みたいなもの。氷河期に比べて地球の温度は何度上がった?」と言っていたが、暑いものは暑いのだ。
出かけるときに持ち出したペットボトルの水はもう道中で飲み干してしまった。水分を出し切っていた身体は、水を飲むと同時に汗となって吹き出してTシャツを濡らしていく。動きにくくなった濡れたシャツが夏の不快指数を加速度的に上昇させていく。
何故こんなクソ暑い日にわざわざ陣内大学まで行かなければならないのだ。もうとっくに大学は夏休みだ。こんな日はクーラーの効いているところで一日中涼んでいるに限る。それなのに野々村さんに呼び出されてしまった。彼女の言葉に従う自分も自分だが、こんなタイミングで呼び出すからには何かあるに違いないとほとんど誰もいない大学の構内を歩き、部室棟の階段を登ってオカルト研究部の部室のドアを開いた。
「遅いですね。てっきりもっと早く来るものだと思っていたのですが」
温度差で風邪をひきそうなほどの強い冷風と相まって、野々村さんの冷たい声が僕の背筋を激しく冷やしていく。
「そもそもどうした、こんなクソ暑い時に呼び出して。電話とかメッセじゃあ駄目なのかい?」
冗談めかした口調で口答えをする程度には、僕も野々村可南子の付き合いはそろそろ2年になる。その分、他の男子生徒に比べてほんの僅かに対応が柔らかいような気がする時もあるけれど、いつも冷ややかな目を向けている点に関しては彼らとあまり変わりはしない。寧ろ向けられている頻度が多い分、彼女の視線で凍りついてしまいそうだ。
「重要な話なんで、出来る限り直接話をしたかったんです」
そう言って椅子から立ち上がった野々村さんは、出入り口、つまりボクの近くへとゆっくりと歩いていく。この陽気だから仕方ないかもしれないが、薄手のキャミソールと7分丈のレギンスパンツという、いつもより肌を出している彼女の服装は煽情的と捉えそうではあるが、その美貌と相まってそういった感情よりも美術品のような優雅さと美しさを感じる。その彼女の姿を直視できずに、視線を逸らしてしまうほどに。
「ここ最近ずっと藍原さんと『お告げ事件』に関して調べてるみたいですね。仲がいいのはいいことだと思いますが、あの子は気が強く無いですから、弱みに付け込むような真似はしないでくださいよ」
そんな僕のことなど全く気づかず、呼び出すだけ呼び出して阿呆のようなことをいう野々村さんに一瞬思考が停止する。その時の僕は余程間抜けな顔をしていたのだろう。彼女は溜息をつきながら首を小さく横に振った。
「私だってたまには冗談ぐらい言いますよ。それとも、こういうことを言わない鉄仮面だと思っていましたか?」
微かに口を尖らせたような気がしたが、おそらく気のせいだろう。瞬きの間に目の前で腕を組む野々村さんはいつもの表情に切り替わっていた。
「来てもらって早々に申し訳ないんですが、場所を変えましょう」
僕の返事も聞くこともなく、そう言うなり何も言わずに部室を出る野々村さんを慌てて追いかける。階段を降って部室等の外に出た彼女に何処に行くんだと問いかけても、何も言わずに歩みを進めていく。そのまま野々村さんはメインストリートを左に曲がり、北の方へと向かっていく。その方角には食堂ともう一つ、僕ができる限り近づきたくない建物である学館がある。まさかとは思ったが、彼女は学館の方向へと向かっていく。
「なんでここ、なんだ。ここは、その、良くないと思うんだ」
否応無しに藍原さんが夢で見たという光景を想像してしまう。学館の自動ドアを潜り抜け、階段を上っていく野々村さんに声を掛けても彼女は何も応えない。
彼女が歩みを止めてこちらを振り返ったのは、3階の突き当たり。まさしく藍原さんが走り去ったあの場所だ。嫌な汗が額からじんわりと浮かんでいくのを感じる。
「あそこは物が多すぎます。物と物の間に、何が収められていてもおかしくはないので」
何故かあの部室を警戒しているような口調で淡々と話す野々村さんであったが、一拍置いて表情を切り替える。それは少し前に彼女がハンドルを握っていた時と少し似ているような、なんだか張り詰めたものを感じるようなものだった。
「私も少しだけ、『お告げ事件』を調べてみたんですよ。三倉さんが外宇宙がどうとか言ってましたけど、アレは宇宙とかそういうのより、もっと、とんでもない事のような気がしてきたんです」
まさかの野々村さんまで邑兎のようのことを口にするなど、とても想像がつかなかった。思わず攻撃を受ける直前のプロレスラーのように身構えながら、彼女の言葉を反芻していく。
オカルト研究部の部長、三倉邑兎が『講義』をするときはいつも勢いで話しているわけではない。人に何かを教える時はそれが決して間違いではならないという信念を持っているのだと数年前に語っていた彼女は、『講義』をする前にはその事象を徹底的に調べて確認している。
いくら荒唐無稽なオカルトの話であっても、きちんとしたソースや物的証拠などをひたすらに調べた上での行動ということで、彼女の中でしっかりとした芯が通ったものとして言葉達を連ねて、『講義』を形成していく。それが例え常人には理解できないものだとしても、邑兎にとってはそれが現時点での最適解を話しているつもりなのだ。なので、訂正を口にする彼女を見たことがない。
問題は、例えしっかりとした調査をしていたとしても彼女の言っていることが専門的すぎて何を言っているか僕にとってはお経かスワヒリ語か何かに聞こえるということだ。これは一重に僕自身の勉強不足と、オカルトにほぼほぼ興味がない事実が、彼女の言葉の意味をシャットアウトしてしまう原因なのだろう。
つまり、邑兎の言っていた『お告げ事件』は『外宇宙からのメッセージを受け取った影響によるもの』ということを、野々村さんも全て若しくは1部を信じているということなのだろう。僕と同じくオカルトにそこまで興味がない彼女ではあるが、大学院に余裕で進み結果を残せるだろうと思われるほどに成績優秀で地頭も良く、頭の回転も早い。
「藍原さんと調べていたんですが、事件と脱法ドラッグの『鍵』に何らかの因果関係があるのだろうとまでは辿り着いていました。でもやはり、一番根本的なところが引っかかるんですよ」
彼女が言いたいこともわかる。根本的な問題に直面していたのは、僕だけではないのだ。あまりにも当然すぎて、口にすることもなかった言葉を野々村さんに向かって放つ。
「藍原さんは、『鍵』のことを全く知らなかった」
僕の言葉に、野々村さんは大きく首を縦に振る。当然の疑問だ。順序はどうあれ、元々は藍原さんの夢に関して調べているうちに『お告げ事件』に関して調べることになっていた。彼女の見た『僕が腹から血を流して倒れる』ビジョンを回避するために様々な調査をして、本人にとっての願望やその逆、つまりは良い未来と悪い未来を描く可能性が高い夢を見せるドラッグの存在を見つけた迄はいい。
仮に凱場にて僕と藍原さんに襲いかかってきたあの男が『鍵』を使用していたならば、襲いかかった結果に死体ができる程度のビジョンしか見えていなかったのだろう。どうしてそうなったかは不透明ではあるが、恐らく僕に逃げられた後にクスリの齎した結果に沿わなければならないような強迫観念に襲われて自ら死を選んだと思われる。
カルト宗教が信者に合成麻薬を使用してトリップ状態にさせた上で指示をしたり、海外で流行した死のゲーム、『蒼の鯱』のように自己肯定感を否定した後に逃げ道を作ることによる思考誘導などにより、人の行動は容易く縛り付けられる。それと同じかそれ以上の思考を縛る力が、夢を見せる紅く丸い錠剤には存在するのだろう。
だがそれは、外的要因があってこそあり得ることだ。銀城の酒場で話していたケータとショーコの二人組の話を聞いてきた藍原さんの反応は、『鍵』の知識を持ち合わせていないようだった。もし知った上で、僕にそれを知らせないように行動しているのならば、そもそもあんな治安が悪そうな所へ付いていったりはしない。あの時僕のことなど気づかなかった振りをして家路についていればよかったのだ。
だからこそ、藍原未央という女性が何故『鍵』を使わずに少し先の未来を見ることができたのか、それがわからなかった。
「技術の進歩で、これが『鍵』というドラッグであることまでは検査などでわかるようになったのですけど、そこまでしかわからないらしいんです。どういった構成をしているのか、そもそもどういった物質を使っているのか。それが全くわからないとか。あまりにも非科学的だから、こういうのは部長の役割なのかもしれないですけどね」
野々村さんの声が僕を思考の大海から現実に一気に引き戻す。どういった物質を使っているのかわからないのであるならば、そもそも『鍵』の製造方法はどういったものなのだろうか。邑兎は春先に『お告げ事件』での啓示は外宇宙からのメッセージだって言っていたが、もしかして宇宙人の干物とかを漢方薬みたいに使ってたりしているのだろうか。
馬鹿馬鹿しい思考を振り払い、前を見る。目の前の窓枠に背中を預けて、僕を複雑な表情で見据える野々村さんは、いつもと違って一瞬だけ躊躇いながら口を開いた。
「『鍵』の効能というものはもうご存知と思うので説明は省きますが、『鍵』はその記憶の領域を活性化させるような作用をさせるところまでは判明しているらしいです。ここから先は私の予想になるんですが、『鍵』を構成している物質はともかく、このドラッグはとある状況を再現するための試薬に近いもの、なのではないでしょうか?」
「……もしかして、藍原さんの見た夢か」
僕の言葉を無言で肯定し、野々村さんは言葉を続けていく。微かに太陽が移動したのか、夏の太陽の日差しが窓を通して野々村さんの赤い髪の毛に降り注ぎ、炎のように輝いて見えた。
「まだあの子の見た夢が本当に起きるかなんてわかりませんけど、ね。もし妄想でもなんでもなく本当に未来を見通していた場合、認めるつもりは無いですけど、彼女は本当に未来を見たことになる。それはつまり、なにか特別な力……陳腐な言い方をするならば超能力のようなものですよね。それを人為的に作りだそうとする動きがあったとしても、おかしくはないはずです」
超能力。透視や予知能力のようなものはオカルト雑誌などでは定番中の定番だ。そんなものを持っている人が世界中には沢山いるらしいが、超能力者を人間の進化と考える人は一定数いるだろう。人間が猿から進化するにあたり、気の遠くなるような年月が必要になった。短い期間で人間をアップデートする方法は、まず部分的に行う方が手っ取り早いのかもしれない。よって、人工の超能力者を作りだしたいという考えも、わからなくもない。
「成程。こりゃたしかにとんでもない話だなぁ。しかし、なんでここでそんなことを話すんだ。藍原さんに聞いていないのか?」
「……何のことです? 私はあの子からは見た夢の内容は聞いていませんよ。ここで、何か起きるのですか?」
全身の毛穴が開き、そこから止め処なく冷や汗が流れ落ちていく。ここにこれ以上いてはいけない。猛烈な強迫観念が僕に襲いかかってくる。彼女の話を途中で投げ出して、階段に向かって駆け出そうとした瞬間――腹部に鈍い痛みが走り、僕の視界は真っ黒に染まった。
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