虎穴に入る羊たち 前編
沈んだ太陽は夜の闇に溶けていったが、それでも強い熱を放ち、僕の身体に生温い風となって吹き抜ける。梅雨はもう明けようとしていた。
幾ら住んでいるアパートの家賃が安くて、一人暮らしをして大学に通っている以上、苦学生という現実は揺るがない。日々を食べて生きていかなければならない以上、アルバイトなどで食いつなぐ必要がある。実家から仕送りを頂いていないという訳でもないが、あまり負担は掛けられないので必要最低限を送ってもらっているという程度だ。
卒論の中間発表も控えている昨今、なかなか時間も取れるようなものではない。サークルに行く頻度も最近は減っていた。しかし、交友関係があのサークルにしかない為に、学食などでそれなりに顔を合わせる機会はあったので、寂しさは特に感じることはなかった。
なんとか卒論のテーマは決まった。取り掛かり始めた程度ではあるが、テーマさえ決まってしまえばこちらのものだ。他の学生よりも本や論文に触れる機会が多い為に、中間発表にむけてそれなりには形になってきている。そのお陰か少し時間が空いたので、出来なかったことを実行に移すいいチャンスがやってきたのだ。
本格的な夏の直前の太陽が沈んだ頃、僕は銀城の駅前に立っていた。手にしたスマートフォンから伸ばしたイヤホンから流れる流行歌が都会の喧騒を塗りつぶしていく。しっとりとしたバラードの再生が終わり、ランダム再生にて切り替わった次のトラックはハイテンポのオルタナティヴ・ロック。前奏の軽快なドラムのリズムに乗せて右足を踏み出そうとする。
「畑中さん?」
会うとは思っていなかった人の声が、イヤホンの隙間からミュージックと共に僕の鼓膜を震わせる。音楽を止めながら、慌てて声の方向――右側を振り向くと、藍原未央が僕のことを驚いた顔で見つめていた。
「あ、藍原さん⁉︎ どうしたのさ、こんな、ところで。奇遇だね、ははは」
想定外の出来事に、明らかに狼狽えてしまう。
「私は実家に用があって、帰り道だったんですけど……。畑中さんこそ、どうしたんですか?」
夜の帳が落ちて明るさが強くなっていく照明によって、藍原さんの赤い眼鏡が妖しく光る。僕の心を見透かしていくようなその輝きに、思わず後退りしてしまう。
「はははは、うん、買い物買い物。ちょっと、探し物があって、ね。ここならあると思って、うん」
「畑中さん」
笑って誤魔化そうとする僕を、藍原さんは真面目な顔をして正面から見つめていた。真っすぐ見据えるその瞳は、煌びやかな街の照明に反射して、どこか儚げに揺れている様に見えた。その視線に耐えられなくなり、目を逸らしてしまう。
「もしかして、少し前に一緒に来たときに私に聞いた、物騒なところ……に行こうとしてませんか?」
喧騒が一瞬だけ聞こえなくなった気がした。藍原さんの細い声だけが、僕の耳孔を通り過ぎていく。幾ら考えても、口から出てくる言葉はしどろもどろな答えだけだ。
「畑中さん、嘘が下手ですよ」
悪戯をした子供でも宥めるような、優しい声で微笑む彼女は、年下であったことを忘れるほどに包容力に溢れたものだった。その声を聞いて、一瞬だけ後頭部に鈍い痛みが走る。痛みに眉を顰めそうになるが、目の前の彼女にそれを見せるわけにはいかなかった。
「多分、凱場に行ったときに変な人に襲われた事について、調べるつもり、なんです、よね。私も、あれから調べたんです。あの人が、もう死んじゃってることとか、あれが『お告げ事件』だったら変なクスリを、使ってるかもしれないこととか、それが、ここで、流行ってたものかもしれない、とか」
どうやら、藍原さんも同じ答えに行き着いていた、らしい。
「畑中さん」
先程よりもしっかりとした、真っ直ぐな瞳で僕を見つめる彼女はいつもの小動物のような雰囲気とはまるで違う、強い意志を感じるものだった。
「私が見た夢が、一体何を示していたのかなんてもう私にもわかんないんです。でも、あれが真実になるなら、私は、それを、止めたい。そのお手伝いをしたいんです」
彼女の意思はもう固まっていて、覆すことのできないものに感じた。最早、僕も腹を括るしかないようだ。気合を込めて鼻から小さく息を吸って、吐く。藍原さんの意思を改めて確認するように、彼女の瞳を力強く覗き込んだ。
「ダメ、と言っても付いていきますから」
普段の藍原さんはならば目を逸らして俯いていただろう。しかし、今の藍原さんは負けじと僕の目を覗き返して、更に言葉を続けていく。そこまで言われてしまったら、無理と言っても付いていきそうだ。押し問答をする気もないし、ここは彼女を信じるしかなさそうだ。
「わかった、わかったよ。一緒に調べよう」
ここまで来たならば一蓮托生だけれど、やはり彼女に危険な目に合わせるわけにはいかない。嬉しそうな顔をする藍原さんに、出来るだけ鋭く諭す。
「でも、危ないと思ったらすぐに引き返すからね。それと僕一人じゃないとマズいなら、何処かで待機してもらう。それでいいかい?」
僕の最大限の譲歩に、藍原さんは首を縦に振る。ならば行動の時だ。「行こう」とだけ言って僕と藍原さんは夜のピークとも言える時間帯の銀城のメインストリートへと進んでいく。
先日下見をした時より、明らかに人の数と種類が多い。雨の時と晴れの時、昼の時と夜の時と状況がまるで違うので当たり前といえば当たり前なのだが。飲食店も多いので、アルコールを摂取して顔を真っ赤に染めながら大声で笑っている人もちらほらと見える。
昼の銀城が爽やかで活気のある街ならば、夜の銀城は艶やかで蠱惑的な街という印象だ。若い女性が中年男性の腕を組んで歩き、セーラー服を来た女の子の集団が夜だというのに街を甲高い声で跋扈する。そして彼女たちに下卑た目つきで声を掛ける金髪の男達など、なかなかに混沌とした光景だった。
「畑中さん、ちょっといいですか?」
地図に示されたあの場所にどう向かおうかと考えている僕が反応するよりも早く、藍原さんは自身の腕を僕の右手に絡め、一気に抱き寄せる。彼女の柔らかい腕の感触が僕の腕に直接伝わり、驚きで思わず声が出そうになる。
「多分、あの辺に行くにはこうした方が怪しまれない気がするんです。ドラッグだったら、ここここ、こいび、こい、恋人同士で使うっていいます、し。だからだからだから、その、その、こうやって、付き合ってます、って、風に見せた方が、いいと、思います!!」
顔を赤く染め、熱風を出しながら早口で一気に捲し立てる藍原さんは先程の力強さとは真逆の可愛らしさに溢れていた。それを見ている僕も、顔に熱を感じている。恐らくは、彼女と同じような表情をしているのだろう。
「う、うん。そうだ、ね。そうしよう。あっちで、いいんだよね」
「はい、こちらの方です。改めて、案内、しますね」
僕の腕に力を入れて、引っ張っていく藍原さんの体温はとても高い。彼女が生きていることを証明する身体の熱は気怠い外気温とは違って、何処か心地良い温もりだった。
女の子と腕を組んで歩くなどなかなか経験したことがない為に、舞い上がりかけていた。部員としての印象も多分に含まれているが、藍原未央という女性は非常に愛らしい外見をしている。透き通った肌に街灯に照らされて光る艶やかな髪の毛と、桜色の薄い唇。そんな儚く可憐な女の子に腕を抱かれて、意識をしない年頃の男など存在しない。正直なところ、舞い上がっていた。
しかし、その感情はすぐに消え失せることになる。
あっという間に僕たちは先日に藍原さんから案内された裏路地へと入っていく。メインストリートは艶やかな印象を受けていたこの街であるが、細い一本の路地を通れば、この時期独特のじめりとした湿気の多い空気すら不快感をもって纏わり付くような薄暗い場へと変貌する。メインストリートの街灯に据付けられたスピーカーからミュージックが細い路地に微かに聴こえてきて、一層の恐怖感を煽る。
少しだけ、僕の腕を掴む藍原さんの力が強くなった気がした。彼女の顔を見ると、意を決したように口を結び、大きく頷いた。
ゆっくりと、だが力強く裏通りを進んでいく。メインストリートの喧騒が嘘のように、この薄暗い裏通りの人通りは少ない。名前の書かれていないホテルのような建物を通り過ぎ、ところどころアスファルトが削れた乱雑な舗装の道を歩いていくと薄紫色のネオンが強調されたバーのような店を見つけた。
木目調のドアは分厚そうではあったが、そのドアが開かれる。そこから出てきたのは若い男女とかなりの音量で流れるディスコサウンド。派手に髪を脱色し、やたら光沢めいたジャージのような服を着た男女はどこか虚ろに僕たちを見ながら何処かへと歩いていく。失礼な例えではあるが、脱法ドラッグを使うステレオタイプのような風貌をした彼らと流れていた若者向けの音楽に、ここに何らかの情報があるような気がしてきた。
看板にはアルファベットで『スタンジール』と書かれていた。どうやら店の名前らしい。もうここまで来たならば、行くしかない。藍原さんに小さく「行くよ」と呟き、ドアノブに手をかける。
思ったより開かれたドアは軽く、再び聴こえてきたディスコミュージックとともに冷房の冷たい空気が外に漏れ出ていく。僕の腕を力強く掴む藍原さんの温もりが、足を進めていく今の僕の唯一の支えだった。
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