無事に卒業する為に 後編

 黒く分厚い雲から、雨が大地に降り注いでいく。梅雨空独特の小さな雨粒がしとしとと地面を濡らしていた。


 久我の駅前では色とりどりの紫陽花の花が生い茂り、それが雨で濡れている光景はこの国独特の春と夏の間にある雨季の美しいものだ。


 そんな久我から電車で1時間半。電車を一度乗り継いで県の東端の久我から西の端へと横断すると、県内最大の都市、銀城市に僕はいる。


 それなりの自然に囲われている久我や、パノラマ360度の緑の山々に包まれていた凱場と比べるとまさに対照的なコンクリートジャングル。そして比べ物にならないほどの人、人、人。久我で毎年行われる小さな夏祭りよりも人が密集しているのではないかと思えるほどの人の密度に、小さな目眩すら覚える。


 今の時刻は昼の14時。家を出る前に食べた昼食の饂飩がいい感じに消化されてきた時間帯だ。それにしても、降り続いている雨がこの場を冷やしていないと、人の体温でとんでもない温度になりそうだ。少しだけ蒸す梅雨の空ですら、この人混みの生み出す不快指数に比べたら数段まともな気がした。


「……畑中さん?」


 僕の少し前を歩いていた藍原さんが怪訝そうな表情をしながら僕の顔を覗き込む。苦笑いをして彼女の後ろをゆっくりと進んでいった。今日は、彼女にこの銀城という街を案内してもらう。彼女には特に何も言っていないが、『鍵』に対するなんらかの手掛かりを探す為だ。


 見上げるようなビルが数多く立ち並ぶこの銀城においては、駅から出るだけで一苦労だ。至る所で改装工事や拡張工事が行われ、狭くなる道や迂回する道などが数多く存在して進む者を惑わせる構造をしている。確か僕が子供の頃に遠足で来た時も改装をしていた気がする。もしかしてずっと改装を続けていたのだろうか。それならば、まるで改修を繰り返しているサグラダ・ファミリアのようだ。藍原さんが案内してくれなければ、確実に迷子になっていただろう。そういう意味でも、彼女が案内してくれることの有り難さを早々に噛み締める。


「いやぁしかし、凄い人だなぁ」


 道を歩きながら、つい田舎者丸出しの発言をしてしまう。その声を聞いたのか、藍原さんは小さく笑う。いつもの眼鏡のフレームと同じような濃い赤色の傘を差す今日の彼女は、グレーの長袖ワンピースという服装で、なんだかいつも以上に大人びて見えた。


「今日は雨ですから、少ない方ですよ」


 彼女の言葉に驚きながら、反対側を早足で進む人に当たらないようにビニール傘を傾ける。傾けた傘から零れ落ちた雨粒が、微かに肩を濡らした。


「なるほどなぁ、やっぱり都会って感じだな。それで、一番大きな、メインストリートっぽいところはあっちだっけ」


「そうですね。こっちの道の方が近いので、付いてきてもらえますか?」


 藍原さんに了解だと伝えると、藍原さんは人混みの中を慣れた歩調ですいすいと進んでいく。躊躇いを全く感じずに歩き続ける彼女の背中にこれが都会の歩き方か、と驚嘆する。


 藍原さんにとってはゆっくり進んでいるつもりでも、進もうとする僕にとっては、道行く人たちが障害になって思うように進むことが出来ない。まるで他の通行人をすり抜けるように歩く姿は、情けない話ではあるが場数の違いというものを見せつけられているような気がした。


 はぐれない様に、見失わない様に彼女の大きく伸ばした三つ編みのお下げに視界のピントを合わせて懸命に追いかける。やはり都会という事もあるのか、久我や凱場に比べて空気がなんだか澱んでいるような気がする。雨で排気ガス等の様々な臭いの相当量が絡め取られて落ちているのだが、それでも空気の悪さというか、都会独特の香りが僕の鼻の奥で鈍く蠢いていた。


 それでもなんとか見失わずに歩き続けること数分。目的のメインストリートに辿り着いたようだ。駅前と同じ程度の人の密度に、思わず閉口してしまう。


「あの、ここが一番賑わってるところかなって。どこか気になってるところとかありますか?」


 思考停止した僕の表情を見たのか困ったような彼女の顔を見て、慌てて頭の中で気合を入れ直す。


「とりあえず一通り歩いてみないと、だな」


 なんだかんだで少しずつ、この人混みにも慣れてきた。一定数の人が人混みで酔うような体質を持っているようであるが、幸い僕にはそのような厄介な体質は持っていない。なんとか人混みを潜り抜けて、藍原さんとはぐれないように気をつければ、なんとかなる。


「わかりました。行きたくなったところがあったら、言ってくださいね。私もそこまでいろんなところに行ったわけじゃないですけど、わかる範囲でなら説明、できますから」


 少しでも土地勘がある人がついていてくれるということは非常にありがたい。このまま散策しているだけでも楽しめそうだが、あくまでも今日ここにきた理由は『鍵』に関して情報を仕入れることだ。藍原さんが知らなそうなアングラな場所の方が情報がありそうな気がするが、とりあえずメインストリートを歩くことにする。


 いつしか雨も止み、傘を差している人がほぼいなくなっていることに気付き、僕達は慌てて傘を閉じる。それにしても、祭でもないのに街灯に備え付けてあるスピーカーから、軽快なギターの音色が聞こえるというのはなかなか不思議な感覚だ。藍原さん曰く、多くの音楽家や歌手を輩出したこの街は音楽の街としても有名で、その出身者の曲を様々な楽器で演奏したアレンジを街のBGMとして流しているそうだ。


 人混みの中をくぐり抜けて歩くのも、だんだん慣れてきたところで、周りを見回す余裕が出てきた。今日が日曜日ということもあってか、若者が多いような気がする。全体的に年寄りが多い久我に比べると、やはり華やかな街という印象を覚える。その街の影で脱法ドラッグが跋扈しているという事実に、なんとなく不快感を覚えた。


 匂いを吸い込んでいた雨粒が無くなった為か、排気ガスやエアコンの室外機から発せられる臭いが微かに強くなった気がした。この空気の悪さというものは、慣れるようなものなのだろうか。鼻を摘みたい欲求を抑える。


「久我に比べると、やっぱり空気、悪いですよね」


 気がつくと僕のすぐ隣を藍原さんが歩いていた。どうやら前を行く彼女を追い越しそうになっていたらしい。


「ここに来るのも3ヶ月ぐらい振りなんですけどね。なんていうか、空気が淀んでるような気がします。そういえば久我に来て、空気って美味しいものなんだなって」


 隣で微笑みながら歩く彼女は、相変わらず器用に人を避けたりやり過ごしたりしながら進んでいく。それに並列して歩けている自分も、この人混みに順応してきた証拠だろう。


「ずっとこの街で過ごしてたんですよ。物騒なところもたくさんありますけど、素敵な街だと、私は思ってますよ」


「こうやって改めて見てみると、やっぱり華やかな街だね。久我に比べて、活気がある」


 僕の返事にこちらをちらり、と見上げながら口角を上げる藍原さんの笑顔は屈託がなく、可憐だった。先日とは違う意味で跳ね上がる心臓を宥めながら、自分の中での本題に切り込んでいく。


「ちなみに物騒なところって例えば、どの辺だい? 今度一人で来るような時があれば、近づかないようにしたいんだけど」

 

 嘘をつくしかなかった。彼女には悪いが、僕はその物騒なところにこそ用がある。そこに行かないと、手がかりすら得られない情報を求めてこの街まで来たのだ。


 藍原さんの眉が寄り、訝しむような表情になる。それもそうだ。彼女からしてみれば、つい一週間前に僕と二人でいるときにあの男がよくわからないことを叫びながらこっちに突っ込んできて警察を呼ぶことになったのだ。変なところに寄ってトラブルに巻き込まれないか不安なのだろう。


 それでも、僕は行かなければならない。無事に卒業する為に、だ。


「行ったことはないですけど、ここを曲がって入る裏通りから駅前に続く古い道は、危ないから行かない方がいいって中学校のときに同級生が言っていました。理由は忘れちゃいましたけど、確か悪い人たちの溜まり場だとか、そんな感じだったと思います」


 確かに躊躇いながら話す藍原さんの視線の先には細い抜け道のような通りが見える。スマートフォンを手にとり、地図のアプリを開いてみると確かに細い道が駅の方まで続いているようであった。彼女に気づかれないように、画面をスクリーンショットの機能を使って保存した。これで、次に行くときは一人で行ける。


 僕の行動に気づいたかどうかわからないが、どこか困った顔をした藍原さんは、小さく息を吐く。人混みが生み出している喧騒に紛れて、その吐息は何処かに消えていった。

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