無事に卒業する為に 前編

 大学での調べ事を適当なところで切り上げ、帰宅した僕は安物のノートパソコンを使って様々なサイトを見て回ったのだが、先程見たサイト以上のものは特になく、これといって重要な情報は見つけることができなかった。テレビをつけてもニュースで昨日の事件を取り上げることはなかったし、有名ポータルサイトのニュース一覧にも存在していなかった。あの程度の障害未遂事件なんて、この国では日常茶飯事だと考えると少々げんなりするし、まるで昨夜のあの出来事が夢だったのではないかとも思ってしまう。


 パソコンを閉じ、椅子の背もたれに体重をかけて天井を見上げ、ため息を吐く。学者や警察官という調べ物の専門家が調べるようなことを一介の学生が調べるというようなことが無理があるような気がしてきた。調べようと思った直後に弱気になってしまいそうな自分自身の芯の弱さが少し嫌になる。


 そもそも新しい世界の扉を開くという『鍵』に関して調べようにも、いくらなんでも情報が少なすぎる。実際に使用している、もしくは使用していた人に話を聞くことができれば一番手っ取り早いような気がするのだが、生憎そういうものと無縁の生活を送っていた為に会って話を聞くこともできない。何処に行けばそういう人達に会えるのかなど根本的なところもよくわからない。


 せめて銀城に詳しい人がいるのならばいいのだが。顎に手を当てて考えていると、頭に浮かんだのは後輩の女の子の顔だった。藍原さんは銀城の出身だと先日話していた。それならば彼女に聞くのが現状唯一のヒントかもしれないとメッセージアプリを開いて連絡をしようとするが、途中で手が止まる。大人しいあの子が脱法ドラッグに関して知識を持っているとはとても思えない。途中で思い直し、首を振りながらスマートフォンをスリープ状態にした。


 いきなり八方塞がりになってしまった。スマートフォンを放り投げ、ベッドに転がり込む。安物のマットレスが軋む音が少しだけ不愉快だが、それももう慣れたものだ。横になると、帰り道や学内での調べ事などをして疲れていることもあり睡魔が急速にやってくる。やはり、朝方にあれだけ睡眠を貪ったとしてもあの状況では深い眠りにつくことができなかったようだ。慣れきった自室のベッドの感触が、僕の意識を高速で夢の世界へと連れていく。


 夢を見る自覚もなく、数刻もしないうちに目が覚めた。疲れの抜けきっていない肉体は休息を求めている筈だが、なかなか今日に限ってはいくら目を閉じても深い眠りがやってくることはない。基本的に眠りが早く、そして深い僕ではあるが珍しく目が冴えてしまっているようだ。やはり今日の昼前に警察官と話したことが未だに無意識の下で頭から離れないのか。


 強引に寝てしまおうと薄い毛布を被るが、ここまで来てしまうと、睡魔は僕の視界の外に逃げ失せてしまったのかどうやっても眠気がやってくることはない。こういう時は寝れないと思ってしまったが最後、寝ようと思えば思うだけ目蓋の裏で眼球が動き回り、薄暗くなっていた意識がどんどん冴えていく。


 このタイミングで寝ることを諦め、体勢を変えてベッドに腰掛けるような姿勢をとる。今の時間を調べる為に枕元に放り投げていたスマートフォンを手に取った瞬間、メッセージの受信を知らせるバイブレーションが僕の手に伝わる。急にやってきた振動に驚きながら、スリープを解除してメッセージアプリを起動させた。


 届いたメッセージは後輩の藍原未央からのものだ。先程連絡を取ろうかどうか考えていた少し後から来た彼女からのメッセージに少し戸惑いながら展開する。


『昨日は、改めてありがとうございました。家に帰ってみると安心したのか震えが止まらなくなっています。私でさえこんな風になっているのに、畑中さんはもっと怖い思いをしたのかと思うと、すごく心配になりました。大丈夫ですか?』


 僕を心配するメッセージに、なんだか少しだけ安心する。こういう風に気をかけてくれるのは有難いことだ。返事のメッセージを打ちながら、先程ずっと考えていた『鍵』のことでやはり少しでもヒントが欲しかった僕は、最後に一行だけ付け加えた。彼女が知らなかったとしても、それらしいところを見付けて次の機会に一人で入ればいいだけなのだ。そう切り替えることにする。


『今度銀城に行きたいんだけど、案内とか頼めるかな?』


 メッセージを送った直後に、もしかしてこの文体は誤解を与えるのではないか。一瞬そう思ったが気のせいと思うことにする。


『わかりました! 来週の日曜日とか、どうでしょうか?』


 送ったのも束の間に返信のメッセージがやってくる。物凄い速さでやってきた返事のメッセージに複雑な表情をしながら、了承する旨の内容を返信する。


 これでヒントに対する足掛かりが出来た。あとは実際に行くだけだ。実の所、銀城にはあまり足を運んだことはない。小学生の頃に遠足で一回立ち寄った程度だろうか。県の中で一番の都会であり、気軽に行ける都市であったのだが、単純に行く機会がなかったのだ。


 そこに行って買い物をしようとか、美味しいものを食べようとかいう誘惑が銀城にはそれなりの数があるのだろう。昔住んでいた日比生という銀城ほどではないが、この久我に比べて十分発展している都市において、少年時代の僕は物欲を満たすことに完全に成功してしまっていたのだ。そして、日比生から更に遠くの久我に住むようになり、さらにその物欲というものは一人暮らしの苦学生という立場もあり窮屈になっていく。


 ただ、それだけだ。もうかれこれ10年入っていない計算になるのか。まだまだ短い人生ではあるが、今までの人生の半分の期間は行っていない県の反対側の都市。もうどんな景観をしていたかなんて全く覚えていない。


 今の僕の頭の中の銀城という街は、住んでいたという藍原さんには悪いが真嗣の話やニュースを聞く限り、とてつもなく治安が悪いところというイメージが付き纏っている。昨日にあんなことがあったばかりなのに、また危険なところに足を踏み入れるかもしれない。だけど、僕は止まるわけにはいかないのだ。


 藍原さんが見た夢によると、僕が腹から血を流して倒れてしまうという未来があるという。それをお告げだというのならば、昨日襲いかかってきたあの男がしきりに叫んでいた言葉もまたお告げであり、それが銀城などで流行していたドラッグにより齎されたものならば、死んでしまうかもしれない僕の未来を防ぐための方法が見つかるかもしれないのだ。


 それを探している間に危険な目に遭うのは本末転倒な気もしなくないが、とにかく無事に卒論を提出して卒業する為には、この不条理にもとれる謎に立ち向かう必要がある。


 小さく息を吐き、気合を入れ直す。来週の日曜日、きっかり一週間後に銀城に行くことが決まったので、平日と土曜日はしっかりと日常を過ごしていこう。来週こそ卒論に手をつけなければ。そのことを考えて、再びベッドに潜り込んだ。


 未だに手付かずな状況の卒論のことを考えると、逃避の為か先ほどとは比べ物にならないほどの睡魔が僕に向かって牙を剥いてくる。自分自身に襲いかかってきた男が死んだ知らせや、その基になっているであろう書かなければいけない卒業論文の方が僕にとっては意識の割合が大きいのか。心の中で苦笑しながら、目蓋を閉じると僕の意識は再び深く暗い闇の底へと落ちていった。

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