もう一度 前編

 捜査に協力することに同意し、連絡先を教えると警察官は敬礼をして帰っていった。どうやらこれで解放されたらしい。そこまで時間は経っていないとは思うのだが、妙な気怠さが残っていた。やはり、閉鎖された空間でとんでもない事実を受け止めるとそれなりに精神に負担がかかるようだ。


 別荘に戻り、片付けをしていた部員の皆を手伝っていると時間はあっという間に過ぎていく。いつしか時計の針は正午を指していた。


 帰りながら昼食を食べて帰ろうと言う結論に至り、僕たちは荷物をまとめて車へと戻っていく。沈んでいた僕と藍原さんのテンションを高くするためか、いつも通りの軽口を叩きながら歩く真嗣や邑兎の気遣いはとても有難いことではあると思っている。それでも、やはりまだまだ楽しい旅行へと思考を切り替えることができなかった。否応なしに視線は川の方へと向かっていく。


 あの先で、人が死んだのか。


 あの男が亡くなったということは藍原さんには伝えなかった。僕以上に繊細な性格をしている彼女に、その言葉を伝えるのはあまりにも酷過ぎると思ったからだ。当然、他の部員にも伝えていない。男の指紋が見つかったから僕のイタズラではないこと、もうあの男が僕達に襲い掛かることはないことを言葉を選んで話していた。


 往路と同じく野々村さんの運転する紅いスポーツカーに乗るのかと思って荷物を持って行ったが、見たこともないような優しげな顔をした邑兎が先に乗り込んでいた。想像もしない彼女の行動に、僕にここまで気を遣ってくれたのかとなんだか不思議な表情をしてしまった。


 改めて真嗣の乗る軽自動車の後ろ側に荷物を載せて、助手席に潜り込む。隣を見ると、爽やかに笑う真嗣の横顔が見えた。軽快なエンジン音と共に走り出した軽自動車のすぐ後ろで爆音が聞こえる。バックミラーで後方を確認すると、冷水をぶっかけられて驚いた猫のような顔をする邑兎と、世界全てを睨みつけるように鬼気迫る表情の野々村さんが見えた。これから2時間と少し、邑兎には地獄を味わうことになるだろうが、昨夜の絡み酒の報いだと思うことにした。


 そこまで長い渋滞もなく、久我に向かって二台のクルマはゆっくりと走っていく。高速に乗ってしまえば、あとは真っ直ぐ進むだけだ。カーステレオのAMラジオから軽快な流行歌が流れている。ややノイズが入った音楽がなんだか心地よい。


 先日に起きた数々の出来事があまりにも多く、そして衝撃的過ぎた。この帰りの時間の平穏というものがとてつもなく温かく、そしてなんだか愛おしい。


 相変わらず、僕たちを気遣って昨日は何もなかったかのように振る舞い馬鹿話をする真嗣のおかげで、陰鬱としそうであった帰り道は笑い声の絶えない楽しい復路となっていた。往路は邑兎もいたことでもっと賑やかなものだったのだろう。終始無言だった僕と野々村さんとは大違いだ。


 二台のクルマは順調に進んでいく。高速道路に入って一番初めにある大型のサービスエリアに到着した僕達は人があまりいなかった、自動販売機が並んだエリアあたりに集合する。紅いスポーツカーの助手席からずるりと這い出てきた邑兎の表情は、さぞ青い顔をしているだろうと内心ほくそ笑んでいたのだが、実際の彼女は能面のような無表情だった。今まで見ることのなかった表情に僕も後輩たちも目を丸くする。


「いやいやいやいや、どうしたのさミンナ。鳩が豆デッポー喰らったような顔して。あたしの顔になんか付いてる?」


 能面の口から放たれるのはいつもの邑兎のいつもの声色。あまりにもギャップというか、酷い絵面に僕達は更に困惑する。


「もしかして表情筋がおかしくなっちゃったんだろうか」


 囁くような真嗣の呟きに同意する。墓場から蘇った腐乱ばかりの死体のようによろよろと揺れながら売店のドアを潜る邑兎の背中を見送り、何も見なかったことにした僕達は昼食のことに関して話し合う。


 結論としては各自適当に済ませることになった。ランチタイムのピークは過ぎていたが、やはりまだまだ人の出入りは激しい。5人が集まって席に座るなんて到底できそうになかったので、この判断は妥当だろう。


 フードコートの席は殆ど埋まっていたし、特に食べたいものも無かった。まだまだ昨日の夜に食べた物が胃の中に残っていたので軽めに済ませることにして、フードコートではなくコンビニでサンドイッチと玄米茶を購入した。旅先でコンビニのものを食べるのも如何なものかと思ったが、昨日のこともあってそこまではしゃぐ気にもならない。


 外に出ると、間抜けなほどに晴れ渡っていた空はいつしか雲が広がり、太陽を覆いはじめていた。このままのペースだと、今日の夜ぐらいには分厚くなった雲から雨が大地に降り注いでいくだろう。


 再びやってくるであろう梅雨空に内心げんなりしながら辺りを見回すと、植え込みの前に据え付けられていた木製のベンチが見えた。太陽が隠れて若干肌寒くなってきたからか誰も座っていないベンチに向かって歩き、勢いをつけて腰掛ける。風雨に晒され続けた天然木が体重と位置エネルギーによって歪み、軋むような音が聞こえた。


 手早くタマゴとツナのサンドイッチを胃袋に詰め込み、玄米茶を飲むと僕の満腹中枢はもうこれ以上入れないでくれと早速悲鳴を上げる。そして時間差でやってくる眠気を紛らわす為に大きく腕を上げて、全身を伸ばす。気休めにもならないが、気持ちの問題だ。


 集合時間にはまだそれなりに時間はある。かなりの速さで広がっていく雲を見上げていると、一人ということもあってか否応無しに昨夜のことを思い出してしまう。

 

 思えば昨夜は本当に悪夢のような話だった。仲間と楽しく盛り上がって、後輩の女の子と外で話をしていたと思えば急に知らない男に襲われる。B級ホラー映画の冒頭のような話だ。本当に映画だとしたら僕は確実に殺されているわけだが、今こうして僕が生きているように現実は映画のようにはいかないというわけだ。その代わり、死んでしまったのは襲ってきた男の方なのだが。


 今朝、警察官が見せてきた写真の男は言ってしまえば何処にでもいそうな、温厚そうな顔をしていた。それがどうしてあの狂気に塗れた表情で斧を振り回すようになったのか。


 男はカミサマが言っていた、と繰り返し喋っていたが、やはり『お告げ事件』と何かしらこ関係があるのだろう。アングラなサイトや週刊誌の記事で面白おかしく誇張される荒唐無稽だと思っていた話は、実際にそれを目の当たりにしてしまうとそれが本当にあったことだと実感してしまう。


 『蒼の鯱』における心理操作にも似た、夢の指し示すことを本当に実行してしまえるような強烈な暗示。普通の人であれば、指し示されたとしても誰かに危害を加えるようなことは出来ない。やっていいと言われたとしても、理性が正常に働いているならば人の頭に斧を振り下ろせない。


 改めて考えれば考えるほど感じる異様さに身震いをする。この出来事は、忘れたくても忘れることが出来ないだろう。


 『お告げ事件』が夢で見た啓示に従って行動するならば、藍原さんが夢で見たビジョンは、啓示とはまた違うような気がしたのだ。自分の行動を決定させるような未来を教える啓示と、少し先の出来事を曖昧に教えただけの藍原さんのビジョン。似ているようで、何かが決定的に違う。


 そもそも、どういった経緯でお告げを受け取ったのか。それもわからない。もしかしたら銀城で流行っていたという合法ドラッグの仕業かもしれないが、正直なところまだ確証がない。よくわからないものを理由にしてはならないのだ。決定的な核心がない限りは、眉唾物の域を出ることはない。


 まだまだわからないことだらけだ。これ以上考えても埒が明かない。首を振って思考を途中で中断する。


 湿り気を帯びた風が吹く。喉に小骨どころか大きな骨の塊が引っかかっているような不快感だけが、僕の胸の中で渦巻いていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る