闇を渡って木立の中へ 後編
今にも泣き出しそうな藍原さんをなんとか宥めながら別荘に戻った僕たちは、話は明日しようとだけ決めた。
そして、それから僕たちは何も喋ることはなく部屋に戻っていく。
女性陣が二階に上がったのを確認して、念のため持ってきたもう一着のジーンズに履き直しシャツも着替え直す。なんだか寝巻きに着替えるような気分にはならなかった。身体は休息を求めていて、それに抗うつもりはないけれど、またアイツがこちらに来たらすぐに動けるようにしておかなければならない気がしたのだ。
着替え終わった僕は一階の一番奥の和室に敷かれていた布団に潜り込む。気が立って眠れなくなるような気もしていたが、やはり疲労が全身を染め上げている現状、睡魔は僕の目蓋の裏に潜んでいた。目蓋を閉じた瞬間に、僕の意識はアークトゥルスを軽く飛び越えて、さんかく座銀河の彼方まで吹き飛んでいった。
450年ほど前にジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナが見つけた、肉眼で確認できる最も遠い銀河からおよそ300万光年を必死で戻って目を開けると、太陽はとっくに西の空から飛び出していて、あと少しで頭上へと到達するところだった。
「お、起きましたね」
リビングの方から真嗣が顔を出す。その目にはやはり疲れが見えていた。申し訳ないことをしたな、と思いながら挨拶をして洗面所に向かう。
顔を洗いながら、自分の顔を覗き込む。流石に疲労感は拭いきれていないがあの時よりは遥かにマシだろう。今思い返してもあの一夜は悪夢のように、現実感というものがまるでなかった。
「あ、さっき警察の人が来たんですけど、また少ししたらまた来るって言ってましたよ」
タオルで顔を拭いていると真嗣の声がした。その言葉に、昨日起きたことはやはり現実だったことを否応無く思い出させる。それでもあくまでいつも通りに振る舞おうとする彼の軽い口調が、今はただ有り難かった。
「わかった。なんか、済まないな、ホントに。せっかくの合宿だっていうのにとんでもないことになっちまった」
それでも、幾ら自分自身が原因でないにしても、謝意を示さないと僕の中で割り切ることもできない。真嗣達からすれば、パニックになっていただろう藍原さんからいきなり警察を呼べと言われて、なにが起きたのか理解できなかっただろうし、それによって楽しい合宿が一瞬で塗りつぶされてしまった。
藍原さんと合流したならばすぐに戻ればよかった。そもそも、あんな夜に風に当たりに出歩かなければよかったのだ。いざ言葉にすると後悔の念が胃袋の裏側から急速に湧き上がってくる。
「気にしないでくださいよ。もしあんな斧もったヤツがいつかの金曜日みたいにここに飛び込んでたら、今頃俺たちは袋をかぶって霊安室にいたでしょうから」
初夏の太陽よりもずっと眩しい真嗣の笑みで、少し気が楽になる。彼の笑顔につられて僕も口角を上げてなんとか笑ってみようとしたがなんだか上手くいかず、変な感じになってしまった。
そんな僕たちの会話を聞いたのか、狙いすましたかのように階段を下りる足音が聞こえてくる。ポケットから取り出したスマートフォンが示した時間は午前10時半を過ぎたところだった。女性陣もとっくに起きているタイミングだろう。しなやかな猫のような足取りで階段を下りてきた邑兎は僕に近づき、どこか嬉しそうな表情で目を細めた。
「いやいやいやいや、とんでもないことになったねぇ。まずは無事でよかったよ、マジで。藍原ちゃんの取り乱しっぷりからして、正直五体満足で帰ってくるとは思っていなかったもんよ」
鈴のような声は、いつもより高い。先日はかなり酔い潰れていたが、二日酔いなどの悪影響はなさそうだった。昨日の乱痴気騒ぎや僕と藍原さんに起きた出来事などよく覚えていない、わかっていないような気がした。
「おはよう、昨日はいろいろあり過ぎて処理が追いつかないよ。ホントに殺されると思ったんだからな」
「心配してたのはホントだよ、藍原さんの声を聞いて飛び起きたんだからさ!」
両手をぶんぶんと振り回しながら語る邑兎は、一拍の間を置いてにやりと笑う。いつもこういう時は、ロクでもないことを言うときの前兆だ。
「いやいやいや、でもイイもの見させてもらったよ。まさかあんなに取り乱した野々村ちゃ―――」
「なにを話してるんですか?」
びくり、と邑兎が震える。彼女がゆっくりと振り向いた先には、いつの間にか鋼で出来た人形のように無表情の野々村さんが仁王立ちをしていた。こういう話を彼女が聞き逃すことがないということを長い付き合いだから分かっていた筈だ。完全に油断したという表情をした邑兎は、小さく咳払いをした。
「いや? ナぁンにも」
一瞬で驚いた顔をいつものものに切り替えて、平然と答える邑兎であるが、じりじりと野々村さんから離れていく姿に、思わず笑みが溢れてしまう。
「そういえば藍原さんは?」
摺り足で離れていく邑兎を無視して先日、僕の言葉を信じて逃げ切ってくれた少女の姿を探してしまう。彼女が今どうしているか、二人に聞きながら視線を階段に向けても、人の気配は感じられなかった。
「もうそろそろ下りてくるんじゃないかな? やっぱりしんどそうだったけど、まぁ大丈夫でしょ」
楽観的な邑兎の声にそれもそうかとなんとなく納得しながら冷蔵庫のドアを開ける。都合よく中に入っていたミネラルウォーターを手に取り、置いてあった使い捨てのコップに注いで一気に飲み干す。乾き切っていた身体に水分が入ることで、生きている実感が再び奥底から滲み出てくるような気がした。
寝ていた部屋に戻り、再び着替える。袖を通した水色の長袖Tシャツはこの旅行に向けて新しく調達したものだ。気合を入れ直す意味を込めて、敢えて力強く身体を通した。
ちょうど着替えが終わったところで、インターホンの気の抜けた音が建物中に鳴り響く。閉められたカーテンから外を覗くと、白と黒でカラーリングされた警察車両が停まっていた。再び警察官がこちらに来たらしい。
振り返ると、部屋の入り口で真嗣がこちらを覗いていた。首を縦に振ると律儀に敬礼をして玄関のほうに向かっていく真嗣に僕も急ぎ足で付いていった。
真嗣が控えめにドアを開く。ドアの向こうにいたのは昨日こちらにやってきた生真面目そうな警察官だった。昨日の夜遅くに駆け付けて、その後に何処かに行っていたので休む暇も殆どなかったと思われるが、彼の顔付きに合わせるように制服には皺一つ存在しなかった。
「おはようございます。畑中賢治さん、ちょっとだけいいですか」
背骨が固まっているのではないかと思ってしまうような彼の生真面目さに圧されて、つい背筋を伸ばし顎を引き、俗に言う『気をつけ』の姿勢を取ってしまう。背後で真嗣が小さく吹き出していたが、聞かなかったことにした。
「ちょっと細かい話をしたいので、車内まで宜しいでしょうか」
勿論ですと答えて、警察官に従って外に出てパトカーの後部座席に入る。初めて入るパトカーにほんの少しだけワクワクして周りを見渡してしまう。この警察官は本当に生真面目なのだろう。小さなゴミや小石も徹底的に排除され、僅かな埃すら車の中には存在しないような気すらした。
「……あの、いいですか?」
僕の行動に呆気にとられていたのか、若干の沈黙の後にいつの間にか隣に座っていた警察官が声を掛けてきた。先程から内心は何を思っているのかはわからないが、その生真面目な表情は崩れることがなかった。
「早速ですが確認したい点がありまして。昨夜貴方達を襲撃してきた人の顔って、覚えていますか」
首を縦に振る。あの狂気に塗れた貌は、忘れたくても忘れることができない。こればかりは時間が幾ら流れても永遠に消えることはない。それほどに強烈な体験だったのだ。
僕の頷きを確認した警察官は、僕の手元に何枚か写真を見せる。いずれも同じぐらいの年頃の男達が正面を向いて僕をじっと見つめていた。どうやら免許証の写真か何かを引き伸ばしたようだ。若干粗い写真達の中で、見落とす筈のない男の顔を見付ける。
顔のパーツは確かにこの男で間違いないが、正面を見ている男の顔は至極落ち着いた表情をしていた。まるで突然バケモノが乗り移ったようなあの表情は、一体なんだというのか。疑問が頭の中でどんどん膨らんでいく。
「この人ですか?」
警察官は写真を見つめる僕の顔を真っ直ぐに見ていた。まるで全てを見通すような視線に目を逸らしそうになるが、間違いを言うつもりもない。彼の目を見返し、大きく頷いた。
「ふむ。あまり街灯がない暗がりだったので、もしかすると見間違えなど有り得たと思うのですが。確かに、この写真の男と貴方が持っていた斧に付いていた指紋が一致しました。疑っているわけではなかったのですが、貴方達のイタズラという可能性も捨て切れませんでしたからね。一応の確認でした」
「指紋……? あの、あの人の指紋が取れたってことは捕まえたってことなんですか?」
表情を変える事なく一息で一気に語った警察官に、率直に思ったことを聞いてみる。あの男を昨日の夜にに押さえ付けたのか。やはり警察は頼りになると素直に有難く思う。逃げられたとして、『カミサマが言っていた』という予言のままにこちらを追いかけ続けて、久我まで来られたら堪ったものではない。
心の底から安堵した僕の言葉に、警察官は眉を大きく潜める。彼の初めて変わった表情に驚くと同時に、消え入りそうな声で小さく答えた言葉は僕の耳を疑うものだった。
「この近くで、遺体で発見されました。捜査している段階ですが、おそらく自殺かと」
遺体で発見されたということは、あの後すぐに死んでしまったのか。僕達がいた場所のすぐ近くで人が死んだと言う事実に心臓が跳ねる。中身がほとんど入っていない胃袋が激しく動き回る。先程まで安心していたからこそ、とてつもない反動が僕の肉体の内側で暴れ回っていく。
『ここで、頭がグッシャグシャになった死体が出来上がる』というのは自分自身のことを指していたのだろうか。ここまでいくと、もう何がなんだかわからない。
そこから先は警察官に何を聞かれたか、何を答えたかなどはまるで覚えていなかった。煮え切らない思いを抱えたまま車のドアを開けて外に出る。馬鹿みたいに晴れた空は、僕の肩を叩くように照らし続けていた。
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