闇を渡って木立の中へ 前編

 いつしかアークトゥルスとスピカといった星達も、太陽の光を反射して妖しく輝く月も雲に隠れて消えていた。星々の光は完全になくなり、光を放つものは寿命で時々点滅している街灯ぐらいだ。もう自分が何をしているのかもよくわからない。


 その中で僕はひたすらに身を低くして、ゆっくりと摺り足で動き続けていた。もう先程まで行っていた、大声を出して自分を鼓舞するような行為など出来なかった。


 理解してしまった。純然たる殺意に比べては、野々村さんの射抜くような視線などはまだまだ優しいものだった。まるで肺に重油を流し込まれていくようか感覚に、息をすることすらもだんだんと難しくなってくる。肺が酸素を供給しなくなっていくことにより動きはだんだんと鈍り、思考は朧げになっていく。


 何故こんなことになったのか。先程まで頭の中で動いていた思考回路が急速に停止していく。もう、逃げるという選択すら何処かに消え失せようとしていた。


「なァ、こっちに、向かってるんだろう? だから、カミサマが、教えてくれてるって、言ってるじゃないかァ。大人しく、ここで、罪を、精算するんだよォ」


 激しく興奮するような荒い息切れとともに嗄れた声は後ろからゆっくりと近づいてくる。その速度は、僕の移動速度よりもずっと速い。このまま追いつかれて手に持った割斧で頭を割られてしまうのだろうか。


 凱場という辺鄙な田舎で知らない男に殺される。それだけは嫌だ。声が背後から聞こえてきて、僕の居場所がもうわかっているというのなら、僕に取れる選択肢は一つしかなかった。


 太腿を思いっきり抓って気合を入れ直す。先ほど拾っていた木の棒を掴み直し、声の方向に力の限り投げると同時に全力で声から離れるように駆け出した。撹乱にもなるとは思ってはいないが、せめてもの抵抗の意思を示したかった。


 あれから何分経ったかわからないが、恐らく藍原さんは別荘に到着した頃だろう。例えその判断が自分勝手なものだとしても、そう思った以上そこから先はもう考える必要などなかった。


 数年のブランクはあるとはいえ、これでも元運動部だ。今でもそれなりに運動能力には自信はある方だ。恐らく中年男性だと思われる声の主に体力の差というものを見せつけてやる。


 元100メートル走11秒8の健脚を活かして舗装されていない道をひたすらに走っていく。今は別荘に戻ってはいけない。どこで待ち伏せをしているか分からないからだ。とにかく走って走って走って走って、逃げ切ったならば僕の勝ちだ。


 別荘から出る時にサンダルではなくスニーカーを履いていたことだけが幸いであった。後ろからの気配が薄まっていくのを感じながら、坂道を下っていく。先日まで雨が降っていたからだろう。足元の状態は泥濘み、脚を上げるたびに泥が靴の底にへばりついていく。それでも、この脚を止めるわけにはいかない。自分の中の不安を振り払うかのように、夜の凱場をひたすらに駆けていった。


 走り続けてどれほどの時間が経ったかはわからないが、極度の緊張状態から一気に筋肉や心肺を酷使した為か、僕の身体が急速に酸素を求めていく。周囲に気をつけながら脚を止め、息を整えながら藍原さんのことを考える。彼女は無事に別荘に辿り着けただろうか。みんなに連絡できたのだろうか。今は他人の心配をしている場合ではないことはわかっていたが、自分を棚上げして彼女のことでも考えていないと、恐怖でどうにかなってしまいそうだった。


 暴れ回る心臓と肺をなんとか宥めて、再び走り出す。もうあの嗄れた声は聞こえない。見失って何処かに行ってくれたならばいいのだが、別荘の方向に行かない理由も存在しない。そこまで考えてしまうとキリが無いが、警察がうまく動いてくれることを祈る。


「だからさァ」


 だからこそ、頭上から聞こえて来た声が誰のものか、理解できる筈もなかった。どうしてここにいるのか。どうやってここまで辿り着いたのか。絶望が僕の頭の中を塗り潰していく。


「カミサマが、教えてくれた事を、お前にも教えてやるよォ。ここで、頭がグッシャグシャになった死体が出来上がる。ンで、増え続ける不幸を、止め、られたならたとえ人を、殺しても、罪に、ならないんだってよォ」


 街灯が放つ微かな光が声の主を照らしていく。闇に溶けるような黒いズボンとシャツを身に付けた小太りで中背の姿だった。白髪が目立つ刈り上げをしたその顔は、やはり僕の知らない顔をしている。薄暗がりでもはっきりとわかるほどにその双眸は爛々と輝き、口の端から涎を捕食する直前の肉食獣のようにだらだらと垂れ流していた。


 男は高さおよそ5メートルの土留のコンクリートの壁の上に立ち、割斧をゆらりと構えながら本当に同じ人間とは思えないほどの狂気を以て僕を見下ろしていた。僕との距離は直線にして約7、8メートル程度。足にかかる負担などを無視して一気に飛び降りられたのならばすぐに追いつかれるような距離だ。 


「だからさ、安心して、バラバラに、ズタズタに、なってくれよォ。オレは、捕まらないんだ。オレが、正義なんだ」


 まさかやはり、ここから飛び降りるつもりなのか。目の焦点が合わない虚ろな瞳で2、3歩後ろに下がると膝を屈め、一気に僕に向かって飛び掛かる。


 狙うなら、ここしかない。相手が怪我をしたら、などとは考えている余裕もなかった。ポケットに手を突っ込み、残りの小石を乱雑に掴んで大きく振りかぶり、力の限り投げる。幾らわかっていたとしても、避けられなければどうしようもない。斧を振りかぶりながら空中にいた男に受け止めることもできずに何個かの礫が当たる。バランスを崩した男はうまく着地できずに地面に膝から受け身も取れずに着地する。ぶつかったのはコンクリートではなく柔らかく泥濘んだ柔土ではあるが、打ち所が悪かったのか何かが砕ける嫌な音が夜の闇に響き渡った。


「ぐ、が、お……!」


 足の骨か膝の関節だかわからないが、とにかく脚に甚大なダメージを負ったのか、声にならない呻き声を上げる男は足元に斧を放り出していた。すかさず駆け寄り斧を拾い上げ、そのまま一目散に元来た道を戻っていく。斧はその辺に放り投げてしまおうかとも思ったが、また拾って追いかけられるのもあり得ない話ではない。そこまできたらもうホラー映画のような光景になるとは思うのだが、斧を持って追いかけ回されるなんてそれこそ映画のような非現実の出来事だ。もう一度来ても何もおかしくはない。


 このまま、別荘に向かって一気に走っていく。我武者羅に逃げ回っていた為にとてつもない距離を走っていたようだ。かなりの時間をかけてなんとか別荘に辿り着いた時には、全身はもう疲労感で占められていて、今にも倒れてしまいそうだった。


 別荘の前に停められたパトカーの上で回転するパトランプがぼんやりと見えた。車内から警察官が血相を変えて飛び出してくる。そういえば、今の僕は斧を持っている。それは疑われるだろうなぁ、と他人事のように考えながら疲労からか僕の意識はゆっくりと沈みかけていく。


「畑中さん!!」


 悲鳴にも似た声が夜の闇に響き渡り、僕の意識をギリギリのところで繋ぎ止めた。その声は僕にとってとても安心できるものであり、安堵感と達成感で手と膝の力が抜け、斧を落とし、膝をついてしまう。


「すみません、この人が最後の一人です……!」


 警官に向かって叫びながら僕に駆け寄った藍原さんは、僕の身体を抱き寄せる。耳元で囁くように絶叫するその声は、涙を含んでいた。


「よかった、ホントに、ホントに心配したんですよ、あの後全ッ然戻らないから、大変なことになっちゃったんじゃないかって…!」


 僕の存在を改めて確認するように、一体その細く壊れそうな身体のどこにそんな力があるのかと思うほどに強く抱きしめられる。少し苦しいが、僕自身も彼女の温もりに安心感のようなものを感じていた。


 視線を動かすと邑兎をはじめとした部員達も僕の存在に気付き、ドアを開けてこちらに向かって飛び出してくるようところだった。


「あの」


 部員達の感動の再会……というタイミングではあったが、それを遮るのは鋭さの残る言葉。視線を上げると、こんな深夜でも制服をきちんと着込んだ警官が僕と藍原さんを生真面目そうな顔で見つめていた。


「大変だったし、お疲れだとは思われますが、改めて何があったか教えて頂けませんか?」


 それもそうだ。戯言にも思われそうな言葉を信じて警官がこんな所まで急行してくれたのだ。とにかく、何があったかを説明しなければならない。


 言葉を選びながら、あの時起こったことを説明していく。斧を持った男に追い回されたこと。逃げきれなそうになかったのでなんとか抵抗して斧を奪ってこちらに逃げてきたこと。石を投げつけたところあたりで警官は眉を顰めていたが、やってしまったことは致し方ない。そもそも自分の身を守る為にやったことだ。正当防衛というヤツだろう。


 指紋を調べるということで男が持っていた割斧を警官に手渡す。大きな袋に斧を慎重にしまっているところで、警官の胸の無線がなにやら騒ぎ立てていた。駆け足でパトカーに戻り、何か話しているようだったが、なにを話しているかはわからない。すぐに出てきた警官はなにやら切迫したような顔をしながら僕の顔を覗き込む。


「君達、とりあえず今夜はもうここで休んでいきなさい。明日、またここに来て話を聞きに来ますので」


 彼の剣幕に逆らおうとする気も起きず、ただ首を縦に振る。


『ここで、頭がグッシャグシャになった死体が出来上がる』


 あの時男が言っていた言葉が頭の中に浮かぶ。まさか他の誰かに襲い掛かったのだろうか。警官はすぐに先ほどの場所へと駆けていって夜の闇に溶けていく。


「お疲れ様でした。で、貴方達は一体いつまでくっついてるんですか」


 こんな状況でも眠たげな野々村さんの声が、僕を現実へと急速に引き戻した。

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