秘密と狂気 後編

 僕と藍原未央はいつしか何も語ることなく、ただ川の流れを見つめていた。360度から聞こえるカエル達の輪唱と、川のせせらぎ。それと頭上で光るアークトゥルスとスピカ、それとデネボラの輝きが一つになって幻想的な光景を描き出している。


 初夏といっても、まだまだ夜は冷える。長袖のTシャツにジーンズという格好は正直なところ、かなり肌寒い。だがその肌寒さが、まだまだ熱をもった今の僕の身体には心地よかった。


 いつの間にか1メートルは離れていた藍原さんが僕のすぐ近くに座っていた。僕と彼女の距離はもう10センチメートルもない。時折藍原さんの肩が僕にぶつかり、アルコールで高まっていると思われる彼女の体温をしっかりと伝えていく。


 アルコールに対してまだ耐性がないのだろう。ふらふらと頭を揺らす彼女の表情は暗がりでよくわからないが、きっと目蓋を閉じないように必死に耐えているところなのだろう。なんだか昔の自分を見ているようで、微笑ましい気持ちになってくる。


「んー……」


 すぐ隣で小さく声が聞こえる。本当に眠たげな彼女の声に、そろそろ別荘に戻らなければなと咳払いをする。


「まだ、もうちょっと、ここにいたいです」


 僕のサインを察したのかどうかはわからないが、消え入りそうな呟きがすぐ隣で聞こえてくる。量は少ない筈だが、まだまだアルコールが残っているのだろう。肩をこちらに預けながら深く息を吸って吐く彼女の息が、やけにはっきりと聞こえていた。


 心臓が跳ね上がる。これは、その。年頃の女の子がそんなことを言って身体を寄せてくると、幾ら酒の勢いとはいっても勘違いをしてしまいそうになる。自身の左手を彼女の肩に添えようかどうか考えあぐねていると、僕たちの背中を一際強い風が通り抜ける。


「ダメじゃアないか。こんなところで若い男女が乳繰り合っちゃァ」


 風に乗って何処からか、聞いたことのない男の声がほんの微かに聞こえてきた。何秒かカエル達の鳴き声が止まった気がする。周囲の空気が一瞬で張り詰める。目を閉じて息をする藍原さんは気付いていないようであったが、誰かに見られていることだけはわかった。


「どうせな、どうせなァ。こういうヤツラは○○○○に○○○を突っ込むだけの快楽を優先してペラッペラな愛を語るんだろォ? 若いうちからさ、こんなことヤってるヤツらはさぁ。オトコもオンナも絶対に、絶対に不幸になるんだァ。だからさ、これ以上不幸にしちゃいけないんだよォ」


 要領を得ない卑猥な言葉を呟く声はまだまだ小さいが、どういうわけだかはっきりと僕の鼓膜を震わせていた。恐らく声の主は僕たちよりかなり歳が上だろう。嗄れた声からして、40歳は越えているかもしれない。最低限僕は、この凱場においてそんな歳の知り合いなどいない。知らない人に向けられる敵意というものは、こうも恐ろしいものなのか。


「だからさァ、そういう輩はさァ、バラッバラにしてもいいって事だよなァ。そう俺の頭の中で言ってたもんなぁ。カミサマがさァ!」


 怒気と狂気を含んだ声は段々と大きくなっていく。後ろの方で草を掻き分けて進む音が聞こえてきた。もう声の主は、僕たちのかなり近くにいる。僕ひとりならばダッシュで走れば別荘まで逃げ切ることなど容易いだろう。しかし、僕のすぐ隣にいる藍原さんはどうなる。確実に逃げ遅れる。頭の中でひたすらに思考を試みる。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。


 いくら考えようと、今日の朝に否応無く感じた恐怖とはまるで純度が違う狂気をぶつけられてしまえば、人間の思考というのは容易く凍りつく。僕にできることといえば、先程まで閉じていた瞳を大きく見開いて困惑の表情を浮かべていた藍原さんに対して小さな声で指示をすることだけだった。


「藍原さん、なんかアイツはヤバい。今から走って別荘まで逃げて、警察を呼んでくれ。やり方がわからないなら真嗣に頼め。アイツならきっとうまくやる」


「え、あの、畑中さんは?」


「とにかくアイツの注意を引き付ける。んでもってタイミングを見計らって逃げる。心配しないで」


 狂気に塗れた声に立ち向かおうとする僕が相当な無謀に思えたのか、首を大きく振って僕を引き留めようとする。


「嫌です、一緒に行きましょうよ…!」


 しかし、こんな状況で議論を交わしている場合ではない。話を終わらせるために藍原さんの目をはっきりと見ながら言葉に力を込める。


「はっきり言う。藍原さんのが足が遅いし力も弱い。あぁいう奴は弱い方から狙うんだ。だから、逃げられる方が逃げて、引き付けられる方が引きつけた方が絶対にいい。言い争ってる時間はないんだ。頼むよ」


 少しきつく言いすぎたか。目に微かに涙を浮かべながら、確かに頷いたのを見届けると近くに転がっていた長さ50センチメートル程度の木の枝と小石を何個か手に取り、脚に力を入れて立ち上がる。


「任せとけ、僕はこれでも元運動部でね。それなりにやってたんだ。体力にはまだ自信があるよ」


 しっかりと力が入る脚に内心安堵する。見えているかどうかわからないけれど、ほんの僅かでも安心させようと暗闇の中で微笑む。小さく「行って」と呟いた後に、こちらも大きな声で怒鳴り返す。


「せっっかくのお楽しみを邪魔しやがって! 萎えちまったじゃねぇか! ツラ見せやがれ、ぶっ飛ばしてやる!」


 出来るだけ声の主の怒りに触れるように腹から声を出す。こんな大きな声を出したのは高校の部活動ぶりだ。小石をポケットに乱雑に突っ込み、両手で木の枝を握りしめて中段に構えた。


「ほぉぉぉん、やっぱり野蛮なヤツじゃアないか。だからこそ、これ以上誰かを不幸にさせないためにも、お前は、お前はお前は、お前はお前はお前は、バラバラのズタズタだぁァぁ!!」


 男の叫び声はもうはっきりと聞こえている。もう僕との距離は殆どないだろう。僕の周りを大きく旋回するように草木が揺れる音が移動していく。電灯の光も殆ど届かない暗闇の中、声の主の姿を捉えることは出来ない。こういう状況で丸腰な筈がないが、そもそも何を持っているかもわからない。いきなり刃物や鈍器で一発というのだけは避けなければならない。というか一発も食らってはならない。


 視界の隅で藍原さんが別荘の方向へ走っていくのが見える。あそこまで行けばもう大丈夫だろうが、万が一がある。出来るだけ僕に注意を引きつけなければ。出来るだけ彼女とは逆方向へ剣道のような摺り足で歩いていく。剣道など、高校時代に体育の授業でやった程度だ。付け焼き刃にもならない。それでも構えを解いてはいけない気がしたのだ。


「オラオラオラオラ、男らしくタイマンといこうぜ、そもそもコソコソしなきゃバラバラに出来ないほど肝っ玉が小さいのか!?」


 僕はこういった荒事は殆ど経験がない。語彙力が無いためにすぐに見栄を貼っていることがバレてボロが出そうだ。それでも自分自身を鼓舞するためにひたすらに叫ぶ。こういう時に任侠映画でチンピラが特に意味なく叫び続ける理由がわかってしまった。だが、今そんなことを考えている余裕などない。構えを解かずに、音がしている方向へとゆっくりと進んでいく。


 背中は既に冷や汗でぐっしょりと濡れていた。未だに何処にいるのかわからない。緊張の糸を張り詰めながら音の方向に向かってポケットの中に入れていた石を一つ右手で取り出し、スナップを聞かせて投げる。当たるとは思っていない。それでも何か変化があればと思っていた。


「残念だったねェ。お前が石を投げるってのも、知ってたんだよ。カミサマがさァ。なんもかんも教えてくれたんだよ。やっぱり、不埒な奴らは生きてるだけで罪を増やしていくから殺していいってよォ!」


 ドス黒い殺意に溢れた声は僕のすぐ後ろから。


 一瞬が数秒のように感じる。稲妻のように背筋に走る悪寒から逃れるように、全力で右脚で大地を蹴って転がりながら左に跳ぶ。直後に聞こえてきたのは、何か重く硬い金属製の物体が石にぶつかる甲高い不快な音。それが先ほどまで僕がいた場所から聞こえてきて、背中だけでなく頭皮からも冷や汗が滝のように流れてくる。


 僅かな街灯の光に照らされて、声の主の輪郭がぼんやりとだが見えてくる。髪型はよくわからないが、身体つきはやや太り気味の中背。体格面では完全に此方が優位ではある。全力で走れば逃げきれそうではある。


 だが、その考えてを否定するのが声の主の右手から伸びる黒い影だ。それが僕の身体を硬直させ、正常な判断をさせないようにしていく。


 僕の見間違いでなければ、その影は刃が片方だけに付いた柄の長い斧――薪割斧の形をしていた。まるでホラー映画のような一幕だ。あんなものが頭に直撃したらと想像するだけで身震いするし、一撃で人間の命なんてあっという間に終わらせることの出来るそれを全力で叩きつけられる、普通の人間に必ずある常識や良心の欠片も感じられない精神の異常性も、僕の身体を恐怖で縮込めるには十分すぎる要因であった。


 今の僕の頭の中には先程まで息巻いて後輩の女の子を逃した勇気は欠片もなく消え失せていた。今はただとにかく、僕の全身がこの場から出来るだけ早く逃げ果せたい気持ちと相反するように震えていた。

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