秘密と狂気 前編

 アルコールで火照った体を夜の風が急速に冷やしていく。外に出て10分もすれば、先程まで回転を続けていた視界も本調子とは程遠いがそれなりにはマシになっていた。


 昨日一昨日と雨が続いていた影響か、それともこの凱場の山奥という僻地だからなのかは定かではないが、カエルの鳴き声が輪唱となってパノラマ360度から聞こえてくる。その音色に凱場という町がそれなりの田舎といってもところどころに建造物があり、見渡す限りの自然に囲まれているわけではない久我とは違うことを改めて実感する。


 大きく息を吸って吐くたびに、僕の肺の中で冷たく爽やかな空気のなかの新鮮な酸素が取り込まれ、血液に乗って全身を回っていく。今の僕はアルコールによって心拍数が高まっているので、そのスピードはとても速い。


 少しだけ酔いが覚めてきたので気晴らしも兼ねて何分か歩くと、すぐに小さな川を見つける。久我にある川よりも幅が狭く、流れも穏やかなものではあるが、星の光と微かな電灯の光に反射して淡く光るそれは見るものを癒す優しい雰囲気を感じた。もう少し暑くなれば蛍でも出てくるのではないだろうかと思いながら、川の淵の草むらに腰を下ろす。


 いつも左腕につけてある腕時計は外していた。そういえばスマートフォンも先程まで僕が飲み食いをしていた机の上に置いてあるから今が何時かわからない。確か飲み会が始まったのが午後7時過ぎだったので、今の時刻は恐らく午後10時過ぎぐらいだろう。なんとなくのものでも、時間を認識すると睡魔が僕の頭の中で静かに、それでいて急速にやってくる。


 頭の中ではわかっているのだが、やはりまだまだ酔っているのだろう。三大欲求の一つに抗うことができずに寝転がり、瞳を閉じる。このままだと風邪をひいてしまいそうことも、頭の隅ではきちんと理解していた。それでも火照っている身体にはこの冷たい風が非常に心地よかった。


 夢と現の間で微睡もうとする暇もなく、睡魔が瞳を閉じた僕の隙を狙って一気に襲いかかる。急速にやってきた眠気は僕の意識を頭上で輝くアークトゥルスとスピカの中間あたりに吹き飛ばそうと握り拳に力を込めて飛びかかってきた。


「あの…こんなところで寝てたら、風邪、ひきますよ?」


 一撃で意識を刈り取るであろう睡魔の拳が僕の顎に炸裂する直前、細く高い声が僕の意識を覚醒させ、その拳を直前で躱させる。


「フガっ……! 寝てません、寝てませんって!」


 覚醒と同時に、こんな所で本当に寝てしまいそうになったことを誤魔化すために大きな声を出してしまう。慌てて瞳を開き、上体を一気に起こすと目の前にはよく知った顔の女性がいた。


「あ、藍原さん」


 二つの夫婦星の真下に、藍原さんが中腰で僕を心配そうに覗き込んでいた。確かに傍から見れば酔っ払いが路上で寝ているような光景だ。誰だって前後不覚になっているように思えて当然だろう。


「ホントに大丈夫ですか? 結構飲んでるみたいでしたし、あんなことしてたから倒れちゃうんじゃないかなって思ってました」


「はは、ありがとう。マジで平気さ。結構酔いも覚めてきたしね」


「なら、よかったです。あ、隣……いいですか?」


 彼女の言葉に首を縦に振ると、小さく会釈しながら僕の隣で膝を抱えて座る。街灯が殆どないために薄暗いを通り越していて、今の彼女の姿をはっきりとみる事はできない。川沿いには虫がたくさんいるものではあるが、先ほどまでと変わらない白いタートルネックの薄手のシャツとベージュのロングスカートという肌をそこまで露出していない服装ならば蚊や虻が血を吸うようなことは殆ど無いだろう。


 そういえば、僕と彼女が二人きりになるという状況は随分と久しぶりだ。前に2人で何かした時といえば、彼女が入部して調べることになった『お告げ事件』に関して資料を漁っていた時だろうか。


 彼女が差し出したアルミ缶を受け取り、開封して一気に飲む。缶の外見は薄暗い闇の中でよくわからなかったが、どうやら中身は緑茶のようだ。爽やかな風味が今の僕にはとても有難い。


「なんだか、久しぶりですね。こうして畑中さんと二人でお話するのって」


 僕の方を見ることなく、藍原さんは空を見上げながら語りかける。藍原さんが夢で見た学館で起きた先月の出来事から、なんとなく彼女の方から僕に対して距離を取っているような気がしていた。確かにあの状況では致し方ない。仮にあの時、僕が彼女の立場だったとしたならばどう声をかけたものかさっぱり見当がつかない。当時はそれほどの衝撃だったのだ。


「そうだなァ。あの時以来かな。アレはびっくりしたよ。まぁ、今はあんまし気にしてないけどな」


「気にしてない、んですか?」


 藍原さんの声は微かに震えていた。不確定なものではあったが、それを彼女はほぼ確信しているということもわかっている。だからといって、その発言をずっと引きずったままこの限られた大学生活を過ごして欲しくなかったのだ。


「気を付けないに越したことはないけどね。とりあえずあそこにはなるたけ近づかないようにするよ」


 彼女を出来るだけ不安にさせないように意識的に声を柔らかく発した後に再びお茶の缶に口をつける。

もう一つ持ってきてたのか、藍原さんの方でも缶を開ける小気味のいい音が微かに聞こえた。


「あれ?」


 一拍遅れて聞こえてくる藍原さんの声は先程までのものとは違い、ただただ驚きにまみれたものであった。


「私、お茶、渡しちゃいました?」


「うん、普通のお茶だったけど。なんかまずかった?」


「あれ? いや、うん。なんでも、なんでもないです。いえいえ、気にしないで、ください。畑中さんにはジュース渡そうと思ってたんですけど、私が飲むつもりだったお茶渡しちゃっただけなんで」


 今まで聞いたこともない藍原さんの声に、そこはたとなく不安になるが、恐らく気のせいだろう。


 暫くの沈黙の後、僕と藍原さんは同時に口を開き、彼女が入部した日のように他愛もない話をしていく。


「そういえば畑中さんは、久我の出身なんですか?」


「いや、僕は県の真ん中の方、日比生からこっちに来たんだ。藍原さんは?」


「ふふ、私は銀城からです。日比生は銀城と久我のちょうど中間あたりでしたっけ」


 銀城といえば、藍原さんの夢に関して暗示か何かでは無いかと考えた真嗣が噂で聞いたと言っていた、2年程前から新しい世界を見るために使われるという脱法ドラッグが学生を中心に流行っているという地域だ。


 2年前といえば彼女がちょうど学生の時期だ。彼女の性格上、恐らく関わりは無いにしろ全く知らないとは考えづらい。急速に回転を始めた僕の脳細胞であったが、やはりアルコールの影響というものは大きいものでなかなかうまくいかなかった。


 それとなく聞こうとも考えたが、今のこの頭の中ではうまく躱して話ができるとは思えない。この事は一旦置いておき、他愛もない話を続けていく。


「そうそう。銀城っていうと都会じゃないか。久我は田舎だから、退屈しない?」


「落ち着いてて素敵な町だと思いますよ。銀城はごちゃごちゃしてるから、私にはあんまりですね。ふふふふ、本屋さんが少ないのは、少し困りますけど」


 それにしても、過去の銀城から起こっていることよりも、今この場の方がよほど気がかりだ。心なしか藍原さんの声がだんだん大きくなっている気がする。


「お盆休みには一回帰らないといけないですね、ふふ」


 やはりなんだか様子がおかしい。藍原さんの発している、今まで聞いたことのないご機嫌な声に嫌な予感が物凄い勢いで湧いてくる。まさかとは思うが、間違えてアルコールを摂取しているのではないだろうか。


『あ、ホントに申し訳ないけど藍原ちゃんはノンアルコールでね。あたし達、バレたらガッコに滅茶苦茶怒られちゃうから』


 邑兎の言葉を思い出し、頭が急速に冷えていく。気づいた時には酔いは殆ど消え失せていた。藍原さんにアルコールの耐性が強いならばまだ話はマシだったかもしれない。しかしこの場の彼女を見る限り、その線は限りなく無さそうだ。


「うふふふふ、なんだか楽しくなってきましたね。なんで、でしょうか。なにもやってないのに、変な感じ」


「あの、藍原さん? 今飲んでるのってホントにジュース……?」


「何言ってるんですかぁ、当然ジュースに決まってるじゃないですか。ちゃんとパッケージに書いてありますよ、アルコール7%って……あれ?」


 やはりか。額に冷たい汗が一筋流れ落ちる。せめてこれ以上飲まないようにしなければ、と彼女の手に持っていた缶に手を伸ばそうとするがそれを阻むかのように小さく聞こえてきたのは、カエル達の鳴き声と藍原さんの申し訳なさそうな声だった。


「殆ど飲んじゃいました……」


「うん、わかった。これは僕と藍原さんの秘密だ。誰にも言っちゃあいけないぞ。部員のみんなにも、だ」


 輪郭ぐらいしか彼女の姿を確認する事はできないが、首を縦に振る動きは確認できた。まだまだ冷たい風が僕たちの間を通り抜けていく。風をくすぐったく感じたわけではないが、僕と藍原さんは同時に声を上げて笑っていた。

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