凱場防衛戦 後編
勝負はあっけなく着いた。14本あったアルコールの缶、1人7本という計算であったが、3本目を終えようとしたところで邑兎は小さな声でぶつぶつと呟き始める。
「ごめん、私が悪かった。どうか許しておくれ、冥王星が発する重力波が遥か彼方からこちらに向かってやってくる。その波動によって天の川銀河の全体図が少しずつずれていくんら。ずれるとろうなるか。ラケーミトヌ電子の崩壊によるエネルギーの爆発はが来るんら。宇宙が赤く染まる時がもうそろそろら。宇宙が赤くなると言う事は世界の海も赤く染まるということら。赤に包まれた世界は一体ろこへ行くのか。ああ、社会主義れはそういう意味じゃないかられ…!」
これは完全にやばいやつなのではないのか。なんだかとても嫌な予感がする。うつむきながら変なことを延々と語り続ける邑兎を怪訝そうな顔で見つめると、彼女の切れ長の瞳は目蓋によって覆い被され、ほぼ酔い潰れているといっても問題はないだろう。
「あの、邑兎さーん、寝てます、よね?」
邑兎は僕の声に反応せず、ぶつぶつと良くわからない言葉を呟き続けているだけだ。それもそれで、先程とはまた違う恐怖をじわりと感じてしまう。
「赤く染まった宇宙は今までとは逆の方向にぐるぐるぐるぐる宇宙は回転してるんらけど、そもそもその回転って誰が作り出したんらろね? ビッグバンの余波か、それとも人間の観測の外の揺らぎのようなものか。実際の答えは宇宙全体の意思の流れら。集合無意識のようなものと言っていい。人間らけじゃらくて、木々といった植物や石ころのような無機物。それだけじゃなくて命が抜け落ちた動物の死骸やあたしたちが普段何気なく立てている音にまれそれは存在するんら」
正直いつも彼女が僕たちに行う『講義』は意味不明ながらも彼女独自の理論で話を続けていく為に、話としてはきちんと組み立てているわけではあるのだが、今の邑兎の言葉ははっきり言って支離滅裂の極みだ。まぁ今の彼女は酩酊している訳だから、それを求めるわけにもいけないのだが。
「なんか大変な事になってますね。大丈夫ですか?」
真嗣がグラスに注がれた水を僕の前にそっと差し出す。なんというか、彼の献身的な行いにいつも感謝すると同時に、彼のいつも行うとても思い浮かばない献身的な行動を自分が出来ないなぁ、と改めて凄さを感じていた。
「サンキュ、なんとか潰れないで済んだって感じかな」
藍原さんが胸を撫で下ろしながら、安心したような表情をしている。元々かなり酔っ払っていたこともあり、思ったより陥落した邑兎のお陰で、まだ頭の中はなんとか思考ができるぐらいには余裕がある。視界が回り、若干足に力が入らないので立って歩くと多分ふらついてしまうだろうが、目の前で瞳を閉じて訳の分からない言葉を呟き続ける邑兎に比べてはだいぶマシな状態だろう。
「にゅふ……んー……すぴー……んふふふふ…すぴぴー……」
気がつくと邑兎の呟きは止まり、代わりに聞こえてきたのは彼女のなんだか間抜けな寝息だった。辛うじて繋ぎ止めていた意識が彼女の言う赤い宇宙の彼方へと吹っ飛んでしまったようだ。
「三倉さん、こんな所で寝てたら風邪ひいちゃいますよ」
藍原さんがおずおずと邑兎の肩を揺らしても、寝息が途切れることはない。先ほどと変わらない頓痴気な寝息を立て、寝ながらもその顔はなんだか楽しそうだ。
「……仕方ないですね」
瓶が机の上に置かれる音に振り向くと、野々村さんがゆっくりと椅子から立ち上がるところだった。どうやら自分が持ってきたワインの瓶は全て飲み干してしまったようだ。かなりの量とアルコールだと思うのだが、それを感じさせないしっかりとした足取りでこちらに向かって歩いていく。
野々村さんは自身の両手を寝息を立てる邑兎の両脇に突っ込み、まるで猫でも抱えるかのようにずるりと持ち上げる。同年代の中でも背が高い野々村さんとはいっても、流石に邑兎の全身を持ち上げるには流石に身長が足りない。床に足を引き摺なるような姿勢になるが、お構いなしのようだった。
「部長は私が上に運んでおきます。ついでに私もお腹一杯なんで、このまま上で寝ちゃいますね」
「んにゅふふふ、すぴぴぴぴー」
あのしっかりとした足取りならば任せてしまっても問題はないだろう。大きく頷き、改めて野々村さんに邑兎の後始末をお願いする。野々村さんはそのままの姿勢で邑兎の足を引き摺りながら階段に向かって歩いていく。
「あ」
階段に一歩目を踏み入れた瞬間に、思い出したようにこちらに向かって振り返りながら、野々村さんが溜息と同時に言葉を吐き出す。
「そんな度胸も行動力もないと思いますが、二人で藍原さんに如何わしい事をしないように。判明した瞬間、どうなるかなんて考えないでも、わかりますよね?」
藍原さんの頬が一瞬で赤く染まり、眼鏡が曇る。どう何を考えたのかは酒の席だから不問とするが、それを誤魔化すように冷めてしまったポテトフライを高速で食べる姿は、なんというか小動物のようで可愛らしい。
「「しないわ!」」
それでも言わなければならない。真嗣と同時に発せられた声も野々村さんの表情を変えるには至らず、「なら結構」とだけ言葉を残し邑兎を抱えた彼女は階段を上っていく。力が入ることがない邑兎の足が階段の蹴上がり部分に何度もぶつかっているのは、見ないことにした。
「ったく、変なことを言いやがって」
小さく溜息をつきながら、残り僅かな缶の中身を一気に飲み干す。アルコールは既に脳に入り込み、独特の酩酊感を認識させている。
机の上の料理も、もう殆ど無くなっていた。僕も飲みながらそれなりに食べていたとはいえ、ちょっとしたパーティ会場並に並べられた料理が五人でほぼ空にできたのは、やはりずっと黙々と食べていた藍原さんの尽力が大きい。沢山用意しておきながら大量に残すなど、作ってくれた人に対する侮辱行為にも捉えられかねない行為だ。特に邑兎と野々村さんの二人は飲むばかりでロクに食べてはいなかったから、邑兎と戦う前はどうなることかと思っていたが杞憂であったようだ。
三人で雑談をしながら残りの料理をちみちみと食べる。藍原さんだけではなく、真嗣も素面組の一人として頑張って料理を胃袋の中に詰め込んでいたのだろう。元々そんなに食べないこともあり、限界がもう近かった彼はすぐに額にじっとりと汗をかきはじめる。
「俺はもう、食え、ねぇっス……! すんませんが、残りは、お願い、しま、す」
お腹を摩りながら苦しげに真嗣は崩れ落ちるように椅子に背持たれる。まぁ彼にとっては善戦したほうだろう。彼の戦いぶりもあって残りは僅かだ。手早く片付けてしまいたいところだが、正直なところ僕の胃袋もはち切れそうだ。
「畑中さん、残りは私がなんとかするので、休んでていいですよ」
僕も真嗣と同様にかなり辛そうな顔をしていたのか、藍原さんが僕の顔を心配そうに覗き込んでくる。真嗣の倍は食べているのに、それを感じさせないほどに彼女の表情は変わることはない。もしかして、まだまだ入るのか。
「じゃあ、お言葉に甘えさせて貰おうかな。ちょっと夜風に当たってくるよ」
ならばここは彼女に任せよう。足に力を入れてゆっくりと立ち上がるが、アルコールは順調に僕の認識を阻害しているのだろう。僅かによろけるが、何事もなかったのように机の上に手を出してバランスを取った。
泥濘のように感じるフローリングの床を転ばないように歩き、ドアを開ける。まだ夏とは言い切ることのできない初夏の終わり。木々を通り抜けて僕の隣を駆け抜けていく風は、少しだけ冷たい。
頭上を見上げると、うしかい座で一番激しく輝く赤色巨星、アークトゥルスが煌いている。近くで青白く輝くスピカと合わせて夫婦星と呼ばれる二つの星が、まるで僕の勝利を称えているような気がした。
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