凱場防衛戦 前編

 『人並み程度に飲める』とは、ボトルを何本も開けるようなものではない。酒豪たちの『人並み』と、飲めない人たちの『人並み』においてにどうしようもない差が存在するけれど、この場においては大学生においての『人並み』だ。3、4杯も飲んだら視界がどんどん回転してくるものだ。


 お酒は20歳になってから。そう教え込まれて生きてきた。20歳の誕生日に祝いの意味を込めて一人で缶ビールを開けて飲んだのだが、甘酒などに若干込められているものは除いて、初めて意識して摂取したアルコールが脳を麻痺させて酩酊する感覚に戸惑いを覚えたのも2年近く前の思い出だ。


 それ以来、苦学生の身で嗜好品のアルコールにそこまで手を出すわけにはいかなかったが、バイトの給料日とか、仕送りを送って貰った日などに呑む程度ではあるがそれなりに呑む機会も増えてきて、学生なりの付き合い方というものはわかってきた気がしていた。


 そして、このオカルト研究部の合宿のメインイベントだと思われる酒盛り。参加者五人の中でアルコールを摂取しているのは僕を除いて三倉邑兎と野々村可南子の二人。二人ともとてつもない美人ではあるのだが、如何せん癖が強すぎる。彼女たちが酔うとどうなるのかという興味以上に、とんでもないことになるのではないかという恐怖があまりにも大きい。


 ちみちみとグラスの中身を流し込みながら、使い捨ての容器に入れられたモツ煮込みを口に放り込む。よく煮込まれた豚のモツと野菜の旨みが染み渡る。


 この酒盛りが発生してから、そろそろ2時間が経つ。一般的に人間がアルコールを摂取してから酔いが回り始めるまで、大体30分から2時間かかるとされている。つまり、今この瞬間がみんなの酔いがクライマックスな時と言っても過言ではない。


 楽しそうに雑談を振り、時には話の受け手に回る真嗣は相変わらず流石な社交性だ。まぁ彼の場合は一滴もアルコールを摂取していないから、いつも通りということで特に問題はないだろう。隣で黙々と料理を口にしている藍原さんもいつも通りという感じである。彼女の近くにあるグラスには、緑色の液体が半分ほど入っていた。恐らく緑茶だろう。彼女の表情を見るに、恐らくアルコールは入っていないだろう。


 安心しながら視線を右にずらすと、恐らく高級だと思われるワインをプラ製の使い捨てグラスに乱雑に注ぎながら呑む野々村さんの姿が視界に入る。きちんとしたワイングラスを用意しなかった僕達に問題がないとは言えないが、幾ら何でも風情が無さ過ぎるし、それをミネラルウォーターでも飲むかのように喉に流し込んでいく野々村さんも野々村さんである。確かワインのアルコール度数は12パーセント前後。決して強いお酒ではないが、だからといって弱くもない。


 彼女の目の前にはもう空になったボトルが一本置かれていて、今飲んでいるワインもそろそろ終わりを迎えるところであった。表情を何も変えず、微かに頬を赤く染めている程度でとても酔っているとは思えないが、一度に注ぐ量がだんだんと増えているあたり、それなりにアルコールが回っているのだろう。


「おーいおいおいおいおい!!!」


 若干落ち着いた回じゃないかと安堵した瞬間に、甲高い声が僕の鼓膜を震わせるのと同時に肋骨の隙間をそこそこの力で小突かれる。意識を野々村さんに向けていた所為で完全に対応が遅れ、変な声が思わず溢れてしまう。


「こんなモンじゃないらろう! こんな回じゃないらろう! これでいいのか⁉︎ いや、よかぁないね! 貴様ぁ、貴様らー! もっと、もっと飲めおー!」


 爆然と嫌な予感はしていたのだ。野々村さんがこうも落ち着いているのならば、残る一人が落ち着いているはずがない。これは最早、世界の定理だ。一人で勝手にテンションを上げ続ける邑兎は、缶チューハイをグラスに注ぐことを放棄し缶に直接薄い唇を付けて中身を食道に押し込んでいく。スイッチが入って『講義』をする時の邑兎に対する印象というものは、残念な美人というものであるが、今の彼女は美醜関係なくただただとんでもなく厄介な存在になりつつあるという妙な危機感しか感じない。


「よおっっしゃ、UFO呼ぶぞ、UFO‼︎ 樋野クン、今から外行ってストーンヘンジ造ってくるんらよ、2秒で‼︎ にゅふ、にゅふふふふふふふふふふ、楽しくなってきたねェ‼︎」


 いつも彼女に感じている自由奔放な猫というよりは、今の邑兎は獲物に飛び掛かる獰猛な猛獣類のような力強さと暴虐さを感じる。僕の傍から消え失せたと思えば、一瞬で真嗣の隣に移動していた。彼の位置はテーブルを挟んで対面だ。いつの間にどうやって移動したのだろうか。


「いいんらよ、細けぇことはぁ!! ってか樋野クゥン、お酒呑んでないんじゃないのー!?」


 相変わらず僕の思考を読んでいく邑兎に頭を抱える。そんな僕を完全に無視する邑兎は先ほど僕にやったように、真嗣の脇腹を何度も何度も軽めに小突いていく。


 しかもよく見たら彼女の手の形は中指の関節を親指で押し出しながら握る中高一本拳の形だ。主に急所をピンポイントで突く為の握りであり、それを脇腹に受けたら軽くでもそれなりに痛い。真嗣の小さな悲鳴が何回も部屋に響き渡る。


「だから俺は下戸って言ってるじゃないですか! 呑んでないっていうより飲めないんですよ!」


 真嗣の必死の言葉も、思考回路がショート寸前の邑兎には届くことはない。顔を真っ赤に染め、視線が朧げに回転しているという、どこからどう見ても明らかに酩酊している邑兎は首をヘビーメタルバンドのギタリストのように振り回しながら叫び続ける。


「知らん知らん知らん知らん、聞いてないよそんなん! それとも貴様アレか、あたしの酒が呑めねぇって言うのかー? あーん?!」


 典型的な酔っ払いの言葉を吐きながら左手にもう一つの缶チューハイを持ち、物凄い目をした邑兎は真嗣に詰め寄っていく。このままでは無理やり飲ませて急性アルコール中毒、救急車、最後には追悼文集コースだ。それだけは絶対に回避しなければならない。アルコールハラスメント、ダメ、絶対に! 慌てて二人の間に入り、邑兎の手から缶を奪い取る。


「まぁまぁまぁまぁ、コイツの分は俺が飲むから、穏便に頼むよ部長。穏便に、ね」


「にゃにをー! ならさぞいい呑みっぷりみせてくれるんらろなぁ⁉︎」


 漫画のように暴れ回る酔っ払いを誰も止めることはない。野々村さんは相変わらず黙々と飲んでいるし、藍原さんはターゲットにされないようにそそくさと部屋の隅に移動している。厄介な人が多すぎるこの部において面倒くさくなった人への最適解をこの短時間で理解出来たことに感慨深い気持ちになると同時に、助け舟が出ることはないことを理解する。


「はいはい、いくらでも付き合うよ。じゃあどんどん飲んでこう。潰れるまで、ね」


 腹を括る。正直頭の中はまだ纏まってはいるが、少し目が回りはじめている。ここからは行動の時だ。


「んにゅふふふふふふ、畑中クンの分際でいい度胸じゃらいの。いいだろいいだろ、吠え面かかせてやるからな‼︎」


 謎の自身を満載した邑兎はふらふらした足取りで奥の台所に向かう。昼時に換気をしている時に確認したのだが、コンセントは抜けているが冷蔵庫は確かに存在していて、真嗣が楽しそうに掃除をしていたことを覚えている。あの時は掃除しただけだと思っていたが、どうやら飲み物を詰め込んでいたらしい。


「ここから先はデスマッチらぜ……!」


 両手にたくさんの缶を抱えながら邑兎が台所から出てくる。もう頭がロクに動いていないのだろう。バランスも何も考えずに適当に抱えた缶たちが今にも腕から零れ落ちてしまいそうだ。慌てて藍原さんと真嗣の二人が邑兎のサポートに入る。


 三人の手に持たれた缶は合わせて14本。どれだけ入れてたんだと突っ込む間もなく、缶は机の上に乱雑に置かれていく。埋め尽くされる缶と缶に僕たちの視線が集められるが、唯一の例外である野々村さんは相変わらずマイペースでワインを飲んでいて、残る最後の一本を素知らぬ顔で開けていた。


「畑中さん畑中さん、大丈夫っスか?」


 耳元で真嗣が心配そうな声で呟く。


「まぁ平気、だと思う。あれだけヘベレケだったらすぐ潰れるだろ。多分」


 護るならば真嗣よりも藍原さんの方が華があってよかったなぁ、と思いながらも心配してくれるのは有難いことだと割り切ることにした。とにかくこの喧しいモンスターをどうにかしない限り、近いうちに何らかの被害が出てしまうだろう。それだけは未然に防がなければならない。


「あ、あの、無理しないでくださいね」


「ありがとう、頑張るよ」


 藍原さんの声に小さく親指を立てて応える。星と月が見下ろす午後10時前。絶対に負けられない戦いのゴングが鳴り響いた。

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