到着、そして。 後編
梅雨入りした事を忘れそうなほどの爽やかな陽射しが昼を過ぎても降り注いでいる。出発する前に何度も何度も確認したスマートフォンの天気予報のアプリ曰く、この天気が今日明日においては続くという。この時期において、晴天が続くというのは珍しいことであるしとても有難いことだ。
そして、なにより。この青空に相応しい程に、今の僕の心と胃袋は歓喜で埋め尽くされていた。何故ならこの合宿において個人的に楽しみにしていたことが一つ完了したからであった。
「美味しかったですね、お蕎麦」
歓喜の理由。それが昼食に食べた蕎麦だ。柔らかく微笑んでいる藍原さんの言葉の通り、蕎麦の香りと出汁の味わいが調和するその一品は、確かに絶品と言うべきものであった。グルメサイトや雑誌などで取り上げられている有名店である為に、この連休において混雑を予想していたのだが、それを予測して早めに来店したのが正解だったようだ。特に待つことなく席に着くことが出来た僕達は、少しだけ早いランチタイムに興じることが出来た。
この店は僕の強い推薦によって行くことになった店であり、そこでは山菜そばが有名であることは店に行く道中でずっと語っていたことだ。久我では……というよりはこの年代の若者はあまり食べることのない山菜料理であるが、いざこうやって食べてみると非常に素晴らしいものであった。
「山菜そばとは、じじくさ…渋いねぇ。ガクセーの男が提案する昼ご飯といえばバーベキューとか、お肉でしょ。もっと肉食な感じ出してもよかったんだよ?」
など店に入る前まで茶化すように言っていた邑兎ではあったが、蕎麦を口に入れた瞬間に目の色を変え、夢中で食べていたのは見ていて面白かった。見る限り真嗣も野々村さんも気に入っていたようで、熱く語ってこの店に来ててよかったと心の底から安堵した。
お腹も満たされたし、その満足感によりあの地獄のドライブの恐怖感も何処かへ消え失せていったので今の僕のコンディションは絶好調だ。改めて周りを見回す余裕も出てきたので首を左右に動かして凱場の風景をゆっくりと見渡していく。
久我も都市部を除けば田園が広がるそれなりの田舎ではある。ここ凱場は田が少なく針葉樹を中心とした森林と、畑が多いというベクトルが違うが、とにかくそれ以上の田舎であった。パノラマ360度がひたすらに緑色。生き生きとした自然のど真ん中に立っているようだ。
息をするたびに自然の織りなす空気の香りが肺に充満していく。肺に入った空気から新鮮な酸素が血液を伝わって全身を循環し、高速で肉体がリフレッシュしていく。やはり、人間は自然の中で生きてきた生き物であってコンクリートと排気ガスで満たされた狭い空間で過ごしていると健康を損なってしまうというのもわかる気がした。
そんな特に何もない凱場の山並みを歩いたりしているうちに時間はあっという間に過ぎていく。いつしか太陽は東の空へと落ちていき、夕食時の時間になっていた。近くにあった日帰り温泉で手早く入浴を済ませ、宿と例えていいのかわからない別荘に戻っていた僕たちは一階のリビングルームに設置された大きなテーブルを囲んでいた。
「合宿と言ったらァ!」
「これでしょお!」
邑兎と真嗣の二人が息を揃えて騒いでいる。この別荘の周りには人が住んでいるスペースなど何もない。つまりここではいくら騒いでも書いているのは虫と草花だけだ。若者達の騒音に怒った隣人が押し掛けてきたり、壁を叩かれるようなことはない。だからといって幾ら何でもテンションが上がり過ぎている。
そして、いい匂いがすると思って視線を少し動かすと、机の上に置かれているのはいつの間にこんなものを用意したのかわからないほどの量の料理であった。ガスが通っていないし電子レンジなどのロクな家電が無いのにどうやってこんなものを調達したのだろうか。
「そりゃテイクアウトってやつさ! 便利な世の中になったもんだね、全く」
また僕の思考を読んだとしか思えない邑兎の言葉を聞いて、そんなに僕の感情は顔に出やすいのかと思ってしまい、つい両の手の平で頬を何度も抑える。
「で、料理はいいんですけど、コレは?」
今にも瞳を閉じそうな野々村さんの言葉も尤もだ。机の上には色とりどりの料理だけではなく、様々な飲料の缶や瓶も置かれていた。当然それらの中にアルコールが含まれているものも存在している。
「やっぱりこういう時には付きものでしょ! 大学生らしいこと、この部でやってなかったじゃんか! やろう、ぜ!」
笑いながら真嗣は答える。先日彼は下戸だって自分で言っていなかったかと突っ込みを入れようと思ったが、敢えて何もしないことにした。下戸の真嗣と未成年の藍原さん。その二人は論外として、人並みに飲める僕と、どうなるか完全に予想がつかない二人の女性。
「はぁ……酒盛り、ですか」
その内の片割れである野々村さんが閉じていた瞳をゆっくりと開き、息を吐きながら呟く。酒盛りという行為をしていることを想像ができない彼女は、やはりそれに抵抗感のようなものを感じるのだろうか。
そう思ったのも束の間、彼女の口から放たれた言葉は僕を驚かせるのには十分すぎる言葉であった。
「どうせ言い出しても誰も用意してないと思って、私も持ってきたんですよ」
そう言って机の下に潜り込んだ野々村さんが引っ張り出してきたのは、ワインボトルが3本。こちらもいつの間にここに置いたのか。澄ました顔をして、やっぱり楽しみだったんじゃないか。
どこから持ってきたのかわからないが、恐らくあの車内のどこかに置いていたのだろう。もしかしてあのスポーツカーのように途轍もなく高級なものなのだろうか。ラベルに何を書いてあるのかはさっぱり分からないが、葡萄色の液体が収められてあるであろうボトルを見て邑兎も口角を上げてにんまりと笑う。
「うーん、いい感じになってきたねぇ。あ、ホントに申し訳ないけど野々村ちゃんはノンアルコールでね。あたし達、バレたらガッコに滅茶苦茶怒られちゃうから」
邑兎の言葉に若干臆しながら何度も首を縦を振る藍原さんの姿は、小動物のようだ。
藍原さんの頷きを見た真嗣はテキパキと僕たちの前にグラスと食器を置いていく。自身の前にさりげなくコーラのペットボトルを置いておくということは、先日言っていた通り彼はやはり下戸なのだろう。藍原さんの前にはジュースとお茶のペットボトルを置いていた。それを見た藍原さんは、お茶のペットボトルを手に取り、中身をグラスに注いでいく。
残りは各々で各自に、ということなのだろう。野々村さんは自分が持ってきたワインを、邑兎は柑橘系の缶チューハイを。僕はビールの瓶を手に取って、ゆっくりとグラス注ぐ。なんだか卒業が視界に入ったこの時期においてようやく大学生らしくなってきたなと感じている。このオカルト研究部において、やる事なく卒業すると思っていた学生らしいイベント。精一杯楽しんでやろう。
「じゃあじゃあ皆さん、グラスを持ってーね」
全員のグラスに飲み物が注がれたことを確認した邑兎は立ち上がり、満足そうに頷く。
「それでは、我らオカルト研究部の益々の発展と畑中クンの卒論の早い完成を願ってぇー!」
もうアルコールが入っているのではと思うほどに邑兎のテンションは高い。彼女も彼女で舞い上がっているのだろう。この乾杯のタイミングでとんでもない事を言い出した事は無視をして、無言でグラスを握る。なんだか急に嫌な予感も膨れ上がってきたが、その辺は考えないことにした。
「乾杯!」
僕たちの声に合わせて使い捨てのプラスチック製のグラスが5つ掲げられる。月と星が見下ろす夜の宴が、始まろうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます