到着、そして。 前編

 一言で片付けてしまうならば、地獄であった。


 ただただ真っ直ぐ進んでいるだけだ。それが何故か、とてつもなく恐ろしかったのだ。800馬力が生み出す暴力的なパワーに翻弄されるような辿々しいアクセルワークによって、血の気が引いた数など途中で数えるのを辞めてしまった。『1つの重大事故には29の軽い事故があり、その下には300のヒヤリ・ハットがある』なんて法則があるのだが、片道2時間の道のりにおいて何回冷や汗をかいたかなどわからない。とにかく今言えることは、無事何事もなく到着したのは紛れもない奇跡だということだ。


 つい2時間半前は高速道路に乗ってしまえば殆ど直進するだけだと思っていた。一応僕自身も運転免許は持っている。尤も、所得してから一度もエンジンのキーをクルマに差し込んだことのないペーパードライバーではあるのだが。


 とりあえず教習で習ったことは頭に入っているつもりだが、やはり頭の中で組み立てられていくだけの理論だけでなく、実際にやっていないことを口出しする事はあってはならない。特に扱いの難しいものならば、尚更のことだ。


 それでも、今まで乗ったクルマの中で比較にならない程のパワーを誇っているであろう紅い暴れ馬を駆る野々村さんの表情はいつ見ても引き攣っていて、少しでも気を抜くような発言をした瞬間にいつも射抜き殺されそうな視線を数倍増しで突き刺されそうな、例えるならば抜身の刀を喉元だけでなく全身の急所全てに向けられているような緊張感というにはあまりにも強すぎる『圧』を感じていた。


 その為に、僕と野々村さんの二人は一言も発することなく、車内では激しく唸りを上げるエンジン音だけが反響を続けていた。少し先を走る真嗣のクルマの中では楽しげな会話をしているのだろうな、と一瞬思ったがすぐにその思考を空の彼方に吹き飛ばす。


 予め寄ると決めていた、丁度中間にあるサービスエリアに留まっていたのはほんの数十分だ。それでも、アスファルトで舗装された地面に足をつけて大きく伸びをした瞬間に感じた、束の間ではあってもあの運転から開放されたことによる安堵感というものは否応なく僕に生を実感させていくものであった。


 代わってくれというつもりもなかったが、敷地内に据え付けてあった人工木製のベンチに腰掛けて一息付いている僕の顔を見た瞬間に無言で真嗣のクルマへと小走りで駆けていった邑兎はいつか必ず痛い目に合わせてやろうと誓ったし、僕のことを心配そうに覗き込んだ後にペットボトルの水を持ってきてくれた藍原さんの行動に、余りにも違う対応というか、邑兎とはまるで違う気遣いの差になんだか感慨深いものを感じた。藍原さんにはあとで何かお礼をしなきゃな、と少し纏まらない頭でぼんやりと考えていた。


 そして束の間の時間というものはあっという間に過ぎ去っていくもので、海水浴で一通り泳ぎ切り、休憩した後にもう一度海に入ると冷えきった身体が海水の冷たさを拒むように、再び野々村さんの紅いクルマに乗り込むこの時が今日で一番恐怖を感じた。


 中学の時、僕は軟式野球部として日々白球を追う生活をしていたのだが、その時にピッチングマシンを使ったバントの練習をしている時に起きた悲劇を不意に思い出してしまう。公立中学校の設備など言ってしまえばオンボロのガラクタ一歩手前のものだ。時折あらぬ方向に設定していない程のスピードボールを放るマシンが、僕の前でバットを構えた同級生の顔面に向かって豪速球をぶち込み、彼は鼻血を出しながら吹き飛んでいった。その次に打席に入ることになった僕は、今この瞬間とほぼ同じ感情を抱いていた。


 結果が見えているものほど、怖いものはない。まるで絞首台の階段を一歩ずつ駆け足で上がっていくような気すら起きる。それでも勇気を持って足を踏み出さなければならない時もある。きっとこの瞬間こそが、その時なのだろう。


 まるで戦場に赴く戦士のような心情でドアを開き、初めて乗った時と同じく内装が出来るだけ汚れないように気を付けながらゆっくりと入る。相変わらず運転席にはただでさえ鋭い視線を更に砥がせた眼をした野々村さんが運転席のフロントガラスから外を睨み付けていた。


 何も言わずに小さく一礼をして、シートベルトを締める。覚悟は既に決まっている。あとは先程まで同じ時間を耐えぬくだけだ。再び僕たちの内臓を震わせる振動がこのサービスエリアまでの道程の記憶を呼び起こしてしまうが、急いで栓をした。


 そして、同じテープをもう一度再生するように走り出した車は凱場に向かってよたよたと走っていく。何度心臓が止まりそうになったか、数えるのはとうにやめている。最上の圧力を感じながら、測ったように1時間半。やっとのことで目的地の別荘の近くに到着し、クルマを駐車したときにはもう肉体的にも精神的にも疲労困憊であった。


 零れ落ちるようにドアから這い出し、込み上げる胃の中身を押し込むように飲めなかった水を流し込みながら、空を見上げる。この時期に空を占拠しているのは梅雨空ではなく、久我の町と同じような青空であった。少し汗ばむような太陽の光が、僕たちを照りつけていく。


「やっと、やっと着いたのか……!」


 数々の苦難の末に黄金郷に辿り着いた冒険者というのは、きっとこういう気持ちなのだろう。前途があまりにも険しすぎた為か、ただ目的地に到着しただけだというのに胸の高鳴りを抑えることはできない。これで美味いものを食べて温泉なんて入ったら、きっと幸せすぎて自分自身の身体が霧散してしまうのではないだろうか。


 一人で感激している僕をよそに、僕以外のメンバーは足取りも軽くカバンを背負って歩いていく。その中には当然、紅いスポーツカーを駆り僕をこんな目に合わせた野々村さんも含まれている。


 運転している時は顔は引き攣り顔を青く染め、全方位に殺気のようなものを撒き散らしていたというのに、車から降りてしまえば何事もなかったかのような澄ました顔をした彼女は、更に言ってしまえばどこか優雅に歩いている。車に乗っている時は余裕が全く無くて彼女の姿を見ることが無かったが、黒いスキニーパンツとワインレッドのシャツという軽装はいつもより身体のラインが強調されているが扇情的という感じではなく健康的な印象を受ける。なんだかんだで彼女も今回の旅行が楽しみだったのだろう。丸太で土留めされた階段を上る足取りはいつもより軽やかな気がした


「……なにか?」


 僕の視線に気づいた野々村さんが怪訝そうな表情でこちらを見るが、なんでもないと答えながら鞄を背負い、彼女らの後ろを歩いていく。


 駐車場から目的地まではそう遠くはないとは聞いてはいたが、まさか目と鼻の先とは思ってもいなかった。別荘というとなんとなくペンションのようなものを想像してはいたが、これは完全に民家だ。それも、二階建ての純和風のもの。老舗の民宿と言えば聞こえはいいかもしれないが、いかんせん人の手があまり入っていない為か朽ち果てる一歩手前のような印象だ。


「いやー、写真で見るよりずっとボロいねぇ」


 僕の気持ちを代弁するように、いつの間にか僕の隣にいた邑兎が肩に下げた小さなポーチから鍵を取り出し指に掛け、くるくると回しながら笑い飛ばす。


「換気して空気を入れ替えるだけでいいってさ。水道は通ってるけど、ガスは通ってないからご飯とお風呂は近くで済ませるって感じで。歩いていける距離に温泉とかあるっぽいけど、そこらへんでいいよね?」


 意義はない。全員が首を縦に振る。現在の時刻は午前10時を過ぎたところだ。緊張感に晒され続けた胃袋がやっと活動を再開し、若干の空腹感を僕の脳に送り付ける。僕の頭の中は昼食を早く食べるために、やる事を手早く済ませてしまおうという逸る気持ちが膨れ上がっていく。


「あ、忘れないようにとりあえずこれから何度も言っとくけど、夜は男子は1階で寝てね。生きてこの凱場から帰りたければ、上がってこないことをお勧めするよ」


 邑兎の目が妖しく光る。流石に先程まで野々村さんの射殺すような圧を感じ続けていた僕にとってはそよ風のようなものではあるが、真嗣は反射的に身構えるほどのものだったようだ。

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