飛翔する鉄塊 後編

 先日までの梅雨空は北の空に吹き飛んでいき、思わず叫びたくなるような青空が広がっていた。そんな早朝の陣内大学、久我キャンパス。その隅にある教務員専用の駐車場に僕たちは立っていた。


 今日は唐突に決まったオカルト研究部員での一泊二日の合宿だ。邑兎が脈絡もなく突然に、そしてほぼ強制的に行くことにした為に困惑の感情もなくも無かったが、いざ当日になるとなんだかんだでワクワクするものだ。


 昨日一昨日など行先である凱場の情報を大学の購買に置いてあった旅行雑誌やインターネットの記事などをひたすらに読んで頭に詰め込んでいた。どうやら泊まる予定の別荘地のすぐ近くに美味しい蕎麦屋と温泉があるらしい。そういえばなかなかここ最近は温泉に浸かっていなかったを思い出し、ますます逸っていく心を押さえていた。


 平然とした表情でみんなが集まるのを待つ。僕の背後には既に一番乗りしていた邑兎が手持ち無沙汰らしくスマートフォンを弄くり回していた。どうやら凱場までの経路を確認しているようだ。


 そうは言ってもここから高速道路のインターチェンジに乗り込んだ後はひたすら西に走っていけば凱場方面には行けるはずだ。あとはそれなりに道は入り組んでいるようだったが、真嗣が持つという軽自動車であるならば特に問題なく目的地に辿り着けるだろう。


 早朝の周囲に気遣うような小さなクラクションの音が聞こえる。視線を横に向けると控えめなエンジン音をした薄いブルーの軽自動車が駐車場に入り込んでいるところだった。運転席にはサングラスを付けた真嗣の姿と、後部座席には藍原さんの姿も見える。真嗣は運転席のウィンドウを開け放ち、爽やかな笑みを浮かべながらエンジン音に負けないように声を張り上げる。


「お待たせしました! 道の途中で藍原ちゃんが歩いてたんで、ついでに拾っときましたよ!」


 相変わらず気の利く男だと感心する。とにかく、これで4人揃った。あとは野々村さんを待つだけだ。よく眠りこけているし起きたら起きたで途轍もない視線を人に向ける彼女ではあるが、なんだかんだで律儀な性格をしていることを僕たちは知っている。先日に僕たちのスマートフォンに届いた邑兎からの意味の読み取ることのできないメッセージを読んで実際に部室にやってきたのがいい証拠だ。彼女は何かの約束事に遅れてやってきた事はないし、やると言った事は必ずやる女性だ。もうそろそろ集合時間の午前7時になるところではあるが、きっとすぐにやってくる事だろう。


 近くの自動販売機でコーヒーでも買おうかなと意識を外側に向けた瞬間、どこか遠くから何かが高速で破裂し続けるような猛烈で甲高い爆音が聞こえる。まるで小さな飛行機が大学の近くを超低空で飛んでいるような猛烈な音の暴力だ。車に乗る真嗣が慌てて車のウインドウを閉めてこれ以上の騒音が耳に届かないようにシャットアウトするが、外に立つ僕と邑兎はその鼓膜を震わせる破滅的な音に晒されていく。


 どんどんその音の爆心地は僕たちに向かって近づいてくる。まさかこんな土曜日の清々しい朝にに暴走族でも群れをなして走り回っているのではないかと慌てて大学の敷地を飛び出して周りを見回しても、それらしい群衆は確認する事はできなかった。


 暴走族ではないが、道の向こうから一台の赤い車がこちらに向かってやってくる。まだ車の形すら確認できないその姿を確認した瞬間に、僕は全てを理解した。


 なんてこった。


 音の発生源は、このクルマ一台だ!


 徐々に近づいてくる内臓を震わせるような音の暴力に丹田に力を入れて耐えながら、清々しい朝になんて音を聴かせるんだとそのクルマを睨み付けると、とんでもないことに気がつく。


 車のフロントガラスを通して見える、ハンドルを握った人物は野々村可南子だった。


 マジかよと驚く暇もなく、爆音を轟かせる真紅の流線型ボディのスポーツカーは駐車場に向かって入っていくが、そこではっきりとした違和感というか、この手の車を運転する上で絶対に感じてはいけない印象を受け取ってしまったのだ。


 なんというか、全体的に、辿々しい。


 完全にペーパードライバーの動きだ。フロントガラスの向こうでハンドルを動かしている野々村さんの表情は見るもの総てを凍てつかせるような普段の印象とはまるで異なり、その表情は強張り引き攣っていて、いつもの余裕を全く感じさせないものであった。


 よたよたと徐行しながら駐車場の白線へと向かって行き、何度も何度も切り返しをしてようやく駐車を終えた紅いスポーツカーのエンジンは少しの間を置いて完全に停止する。


 音もなくドアが開き、すらりと足を伸ばして車から降りる野々村さんは、先程までの余裕がない表情などなかったかのような無表情で僕たちを見据えていた。


「おはようございます。みなさんお早いですね。皆さん、どうしました?」


 澄ました顔でこちらを見ている野々村さんは僕たちに有無を言わせないと無言で告げているようであったので、何も言わないことにする。きっと何か言ったところでロクな目にならないことなどはとうに理解しているからだ。数秒間の静寂がこの場を支配する。


「で、誰が野々村ちゃんのクルマに乗る? 多分二人乗りだよ、このクルマ」


 静寂を破って小声で僕に向かって話す邑兎はもう真嗣の車の助手席のドアノブに手をかけている。彼女は行動をもってその後の言葉を僕に伝えていた。困ったような藍原さんは後部座席のウィンドウを開き、何か言おうとするがそれを遮って口を開く。後輩を死地に送るような真似だけは出来ない。多分僕はとんでもない目に合うだろうが、男なら耐えられる。強いから。


「僕が乗るよ。生きて帰れることを祈っていてくれ」


「骨は拾ってあげるよ、菜箸で」


 洒落にならないことを言いながら邑兎はドアを開け、真嗣の軽自動車に乗り込む。閉められたドアが奏でる気の抜けた音は、これから死地に向かう僕への鎮魂歌のように聞こえた。


「さて」


 一つ呟き、野々村さんが持ってきた紅いスポーツカーに目をやる。僕はクルマにはてんで詳しくないが、よく両の眼に例えられるフロントライト間にあるエンブレムのメーカーぐらいは流石にわかる。よく漫画などに出てくるヨーロッパの高級クルマメーカーのそれは、紅く艶のあるボディと相まって高貴な雰囲気を纏っている。


「とりあえず、うん。よろしくお願いします」


 無言で運転席に向かう野々村さんがドアを開けるのを確認したら、僕の助手席のドアを開き、できるだけ内装を汚さないように中に入る。大方想像していた通り、内装も煌びやかだ。陳腐な表現ではあるが、まさに高級車なイメージの内装に、思わず様々なところを見回してしまう。今のこういうクルマというのは何もかもゴージャスなんだな、と感心していると視界に入るのは野々村さんの横顔。


 シートベルトを付けてハンドルに手を置く彼女の顔はやはり強張り、血色が悪くなっている。顔は先程と比べて僅かにではあるが確実に青ざめ、いつもは艶やかな唇も今はなんだか紫がかっているような気すらしてきた。


 隣のクルマから聞こえてきた軽快なエンジンの起動音につられて、野々村さんは目に見えて慌てながらエンジンを起動する。ウィンドウが閉められているとはいえ、隣のクルマと同じカテゴリの乗り物とは思えないほどの爆音と振動が僕の鼓膜をダイレクトに振るわせていく。


「あの、ちょっといいかな……?」


 先導する予定の真嗣のクルマはまだ出ていない。一言二言は会話をするぐらいの時間的・精神的余裕はあるはずだ。まるで恐らくとんでもない程のパワーを誇るエンジンが奏でる航空機のような爆音に自身の声が負けてしまったのではないこと思ったが、野々村さんの眼球がこちらに向かって動いたあたり、なんとか聞こえているのだろう。先ほどより少し声を張りながら、改めて声を放つ。


「このクルマ、乗るの何回目?」


「何回目も何も、今日が、免許を取って、初めての、運転、ですよ」


 額に冷たいものが落ちていく。ペーパードライバーな気がしていたが、まさか今日が初めての運転だとは。とんでもないことになったと嘆くと同時に、初めての運転にこんな高級そうなクルマを引っ張ってくるとはどういう実家なんだと心の中で盛大にツッコミを入れながら、クルマのボディに付いていなかった若葉のマークを思い出す。


「しょ、初心者マークは?」


「免許取ってから、1年したら付けちゃいけないんですよね? 免許とって、1年、経ったんですよ」


「自信ない人は1年経ってても付けてても―――」


「黙って!!!!」


 僕の言葉を遮るのは、突如唸りを上げるエンジン音と同時に発せられた、初めて聞く野々村さんの大声。心臓が口から出そうになるのを必死で押さえつけながら前を向くと、真嗣の軽自動車がゆっくりと発進するところだった。


 内装と同じく高級感が溢れる本革でカバーされたハンドルを握り潰しそうなほどに力を入れて握りしめた野々村さんは大きく深呼吸をした後に右足に力を入れていく。運転経験が殆どない人が乱雑にアクセルを踏むことによって産まれるデュアルクラッチトランスミッション独特の不思議な加速・変速感と、時折強めに踏まれるブレーキによって発生する慣性に僕の身体はシートベルトをしているというのに前後左右に揺られ続け、胃袋の中身がゆっくりと押し出されていく。


 普通の道路をただ走るには余りにも過剰なパワーとトルクによって道を飛ぶように駆ける真紅の鉄塊は、きちんとしたドライバーが運転するならば快適でエキサイティングな時間を乗っている者に提供するのだろう。


 この暴れ馬を、ズブの素人が乗りこなせる筈もない。そして、如何なる時も気丈に振る舞い、余裕がないながらも今もそのスタンスを貫こうとしている彼女が運転を諦めることはそれこそ有り得ないことだ。つまり、この挙動があと2時間は続くということだ。高速道路に入ってしまえば、多少はマシになるだろう。そう思わないと、この瞬間に心が折れてしまいそうだ。


 爆音をBGMに、紅いスポーツカーは時々左右に揺れたり急加速急停止を繰り返しながら、片側二車線の道路を危なげに走っていく。いろんな意味で、とんでもない旅行になりそうだ。

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