飛翔する鉄塊 前編

 人間の記憶というものはなかなかに面白いもので、時間の経過と同時に少しずつ劣化していく。走り続けるクルマのタイヤの溝のように擦り切れていく記憶と認識は、後輩が見たという未来の夢のことなど記憶の片隅程度に追いやられていく。


 どんな事があろうとも時間の針は進んでいくもので、大学生活の猶予期間というものはあっという間に過ぎていく。真面目に勉学に取り組んでいた頃は1日はどうして24時間もあるのかと嘆き苦しんでいたけれど、今になっては1日はどうして24時間しかないのかと頭を抱える日々である。


 そんなこんなで初夏の爽やかな天気はもう何処かへ行ってしまっていて、オカルト研究部の部室の小さな窓から見える久我市は、重力に従って降り注ぐ雨粒によって濡れている。


 春夏秋冬の四季が彩るこの国において、春と夏の間に存在する雨季……つまりは梅雨になったことを気象庁が発表してから今日で一週間。気象予報士というものはきちんとした仕事をするのだろう。梅雨入りしてからほぼ毎日雨が降り続けていた。


「昨日も一昨日も雨、今日も雨。明日も明後日もきっと雨だ。このままだと身体にカビが生えちまいそうだ」


 窓の外を眺め、げんなりとしながら呟く。あっという間に過ぎ去った5月の連休や、殆ど講義のない日々によって身も心もすっかりだらけている。当然、卒論は全く手がついていない。そもそもテーマすら決まっていない。今年中に提出という時間制限はついているのだが、頭の何処かで『まだ半年はある』と高を括っている節があるのかもしれない。


「身体どころか脳までカビ生えてるんじゃないの? まったく、少しは年長者らしくしようよ。せっかくみんな集まったんだから、さ」


 椅子の背もたれにふんぞり返りながら座る邑兎は口を尖らせながら僕に向かって声をかける。ようやく部員たちが集まって、ようやく口を開いたらこれか。微かに苛立つが、その感情を遮るように真嗣が声を出す。


「あの、そろそろええですかね?」


 この梅雨空にはまだまだ寒いだろう、薄手のビビッドカラーのアロハシャツを浅黒い素肌の上に羽織った樋野真嗣が寒さに震えながら小さく手をあげる。昼間に見たならば目が痛くなりそうな派手派手しい色遣いのアロハは、雨に濡れて鈍い色に変わっていた。


「なんで俺たち呼んだんですか? 急に来いってメッセきたから慌てて飛んできたんですけど……」


 水滴のついたサングラスといい、短パンにサンダルという完全に季節感を間違えている真嗣の格好はともかく、彼の言うことを尤もだ。僕も先程スマートフォンに邑兎から届いた『緊急事態発生!!!!!! 講義中の人を除き、全員今すぐ部室に来るようにに!!!!』という同じ文体をした十数通のメッセージに気づき、何かとんでもないことが起きたのではないかと慌てて食堂から部室に向かったわけだが、一番に部室に到着した僕に邑兎は――


「みんな揃ったら話すから」


 とだけ小さく呟き、神妙な顔をしながら手元の本に視線を移していたのだ。


「……だ、大丈夫ですか?」


「放っとけばいいのよ、馬鹿は風邪ひかないっていうじゃない」


 そんなことなどいざ知らず、ずぶ濡れの真嗣に心配そうな顔をする藍原さんと、彼女とは対照的に冷ややかな視線を突き刺している野々村さん。彼女たちがやって来たのは僕が来た少し後であり、寒さに震える真嗣がやってくる少し前だ。入部の日に話をしていた間柄か、どちらかというと静かな二人はどこか波長が合うようで、特にここ最近は二人が一緒にいることが多いような気がしている。


「大丈夫大丈夫、藍原ちゃん、相変わらず優しいねぇ……! んでもって野々村ちゃん、なんでそういうこと言うの! マジでそろそろ熱が出てきそうなんだけど⁉︎」


 歯の根が合わずにガチガチと歯を鳴らし、ずぶ濡れになりながらも喜んだり嘆いたりとコミカルに表情をころころと変えながら真嗣が叫ぶ。このような光景も、この部活でよく見る光景であり日常風景の一つである。


 藍原さんが入学する前から見ていた夢。それは未来を予知するようなものではあったが、いざ日数が経ってしまえば実感のない事象などすぐに風化して消えていく。いつしか『お告げ事件』のことも調べることを辞め、のんびりとした日常を過ごすようになっていた。当初は自身の夢を調べるためにこのオカルト研究部に参加した藍原さんも、今ではその話題に自分から触れるようなことをせずに、何もなかったかのように大学生活を謳歌しているようであった。


「で、みんな揃ったワケだけどさ」


 それはさておき、そろそろ話を進めないと埒が明かなそうだ。後頭部を軽く掻きながら僕達を呼び出した邑兎に視線を向ける。僕に続いて真嗣と藍原さんも控えめな視線を邑兎に向けていくが、視界の隅では野々村さんだけは興味がなさそうに椅子に背もたれて瞳を閉じていた。


 相変わらずマイペースな野々村さんは置いておいて、視界の焦点に存在している邑兎はよし、と小さく呟いた後に椅子から飛び跳ねるような勢いで立ち上がり、僕たちを見まわしながら叫ぶ。


「合宿、やるよ!!」


 僕と同い年とは思えないほどに小さなお腹の底から出たとは思えない衝撃的な声量は、本棚に乱雑に積まれた大量の本を細かく振るわせる。耳を塞ぎたくなるような大音量に、野々村さんの閉ざされた目蓋の上にある整えられた眉毛がハの字に下がるのが見えた。


「……は?」


 唐突に放たれた大声に対する僕たちの思考を代弁するかのように小さく呟かれるのは真嗣の気の抜けた声だった。


「だから、合宿やるよ」


 間抜けにも聞こえる声が不服なのか、再び口を尖らせながらもう一度繰り返して言葉を放つ。合宿か。このオカルト研究部に入部してから3年間、そういったイベントをやるのは初めてだ。


 敢えてこの場では口にすることはないが、個人的には嬉しい話だ。このオカルト研究部の活動といえばこうやって部室で本を読んだり他愛のない話をしたり、年に一・二回ほどレポートのようなものを発表する程度の非常に薄いものだ。確かに暫く前は個人的にいろいろと調べごとをしていたのは事実ではあるが、そのような事をしたのは言ってしまえばこの部活に参加してから実質初めてのようなものであったし、その活動が実になったかといえば否定せざるを得ない。


 なので華のキャンパスライフとは程遠い三年間と少々を過ごしてきた身にとっては、合宿といった『大学生らしいこと』に憧れが無いわけではないのだ。むしろようやく訪れたチャンスに一人で小さくテンションが上がっていく。


「あの、それっていつやるんですか?」


「今週の土曜の朝に出発! 一泊二日!」


「場所は!?」


「凱場!」


 藍原さんと真嗣が当然発生した疑問をぶつけるが、邑兎は鼻息荒く簡潔に答えるだけであった。どうするというのだ、今日はもう水曜日であり、三日後に出発など流石に無理があるような気がしてならない。そもそも全員の予定とか資金面の問題とかあるだろうに。みんながみんな余裕がある学生生活出来ているわけではないのだから。


「いろいろ疑問に思っているようだね、畑中クン」


 僕の心の中でも読めるのか、邑兎は不敵な笑みを浮かべながら右の握り拳を僕たちのいる方向に向かって突き出した。


「まずひと〜つ」


 握られた拳から人差し指が伸ばされる。


「今週の土曜日から二日間、みんなバイトとかの予定が入ってなくってみんなが暇を持て余すってことは確認済み。あたしの情報網を甘く見ない方がいい、よ」


 確かに次の土日は完全にフリーであった。まさかと思いながら周りを見渡すと、藍原さんと真嗣の二人は同時に首を縦に振る。視界の隅で寝息を立てている野々村さんのことはわからないが、二人がそうということは、恐らく彼女もそういうことなのだろう。


「次にふた〜つ」


 中指も伸ばされ、二本の指がこちらに突き出された。


「泊まる場所は凱場って言っても外れにある小さな別荘だよ。ウチの管理する物件で、手入れをするついでだから実質タダみたいなもんよ。食べ物のお金ぐらい? まぁそれぐらいなら部費と畑中クンのポケットマネーでなんとかなるなる」


 邑兎の実家が管理している物件の手入れという名目で遊びにいく。そういうのもあるのかと驚く。そして何かとんでもないことを言っている気がするが、敢えて無視をした。


「……最後にみ〜っつ」


 指の数が三つに増えるが、先程までの自信たっぷりといった表情は陰りを見せている。微かに申し訳なさそうに、いつもより高く甘い声をしながら真嗣に視線を向ける。


「今思い出したんだけど、その別荘って電車じゃ無理なぐらいに辺鄙なところにあるんだ。クルマじゃないと行けないところにあるんだけど、誰かクルマ持ってる? 樋野クン確か持ってたよね?」


 急に爆弾発言をぶち込んできた。急に猫撫で声で振られた真嗣も若干慌てながら答える。


「え。あるにはありますけど、俺のクルマ軽で4人乗りっスよ」


「かーっ! チャラ男なんだからもっとおっきなクルマ乗ろうよ!」


 邑兎は先程までの甘ったるい声から急に平常運転な口調に切り替わりながら叫ぶ。幾ら何でも言いがかりもいいところである。予想だにしない方面からの反論を受けた真嗣は少しだけ悲しい目をしながら黙りこくってしまった。


「どうするんだ、僕たち5人だぞ? トランクに誰か一人を突っ込むわけにはいかんだろう」


 真嗣が運転する以上、残りの女性陣をトランクにこの場合、順当に行くと僕がトランク行きだ。ここから凱場までクルマで片道2時間はかかる。例え楽しみだといっても、軽自動車の狭いトランクルームに、つい多くなりがちだと思われる女性陣の荷物と一緒に押し込まれて長い時間揺られるのは御免だ。


「……私が車を出しますよ。実家から借りてきます。多分5人も乗れないんで、二台で行く方が賢明だと思いますけど」


 野々村さんからの思わぬ助け舟に少しだけ驚いた顔をした邑兎であったが、すぐに表情を元に戻し、口角を大きく上げてにんまりと笑う。野々村さんが運転免許を持っていたことに驚くより先に、これで過積載の軽自動車の狭く居心地の悪いトランクルームに詰め込まれて警察の取り締まりに怯えながら地獄のドライブをしなくて済むと胸を撫で下ろす。


「じゃあそれでいこうか! いやー、一瞬どうなることかと思ったけど、結果オーライだね、うん!」


 からからと笑う邑兎を除いた全員が脱力しながら肩を落とす。もう彼女の中では行くことは決定事項のようだ。一通り笑った後に満足そうに頷き、


「土曜の7時にここの職員駐車場に集合ね! あ、もう教務課に話は通してあるから安心してね」


 楽しそうに笑いながら「解散!」と叫ぶ邑兎の大声に反応して、隣の写真部から抗議に対する抗議を意味する壁を叩く音が聞こえた。

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