背後で嘲笑う声 後編
見るもの全てを凍てつかせるような野々村さんの視線が僕に激しく突き刺さっている。普段はよく見る彼女の姿は、部室で目を閉じて眠っているものが圧倒的に多いわけではあるが、起きている時の野々村さんの姿は、眠りから覚めたばかりの大型の肉食獣のような迫力を感じていた。
やや釣り上がった大きな目とすらりとした鼻の下にある、艶やかな唇という整った顔立ちと簡潔に言ってはいけないほどのとんでもない美貌、ファッションモデルか漫画のキャラクターのように細く、それでいて長い手足。更にはそこらのグラビアアイドルが裸足で逃げ出すような抜群のプロモーションを誇る豊満で蠱惑的な身体つきをした、見る者全てを振り向かせるような、美という言葉を一纏めにしたような印象を受ける野々村さんが、こちらを見据えているという状況は彼女の本当の姿をよく知らない世の男達ならばだらしなく鼻の下を伸ばし、ねっとりとした下卑た視線を彼女の肉体にぶつけていくのだろう。
しかし、忘れてはいけないのだ。野々村可南子という女性は、どういうわけだか変人集団などという不名誉すぎるレッテルを貼られてしまっているオカルト研究部の一員ということを。
「で、今日は部活に出るんですか」
この目だ。この目が近づくもの全てを遠ざける。野々村さんがオカルト研究部に入部して早いもので2年が経過したのだが、まだまだ慣れることはないし、これからも慣れることなどないのだろう。
まるで見るもの全てが煩わしく面倒なものに見えているような彼女の目の形が変わるときは、甘美なる睡眠に身を任せている時か、読んだら知恵熱が出そうな小難しい学術書を読んでいる時ぐらいだ。先日に藍原さんに話をしていた時は数少ない例外で、あの時の表情はいつもに比べて柔らかさのあるものではあったが、今の彼女の顔つきといえばそのような柔らかさはまったくと言っていいほど感じない、打ちっ放しのコンクリートのような無機質なものであった。
なぜ他人と距離を取り、必要最低限以下に関わりを作ることはない孤高の存在である彼女がオカルト研究部に参加しているのかはそれなりの回数で顔を見合わせている僕ではあるが、彼女がそれを口にしたこともないしそれを察することも出来ない。それとなく邑兎に聞いてみたこともあるが、部長である邑兎ももわからないと首を横に振るだけであった。
そんな野々村さんの瞳に骨と筋肉の隙間に氷水を流し込まれていくような感覚を感じている。蛇に睨まれた蛙というのはまさしくこのような気持ちなのだろう。最近の学会の発表では蛙は身が竦んで動けないのではなく、相手の動きに対抗して逃げ切るために敢えて待っているという説もあるらしいのだが、今の僕は完全に前者だ。
彼女自身の美貌もあるのだろうが、その視線に射抜かれるとどうにも引き込まれるような、調子が出ないような。こちらを冷ややかな視線を向け続けている彼女の瞳から、よくわからない圧力のようなものを感じている。
気紛れにこちらに声をかけてきた彼女の声を無視し続けてしまったのは、完全にこちらの落ち度だ。これ以上彼女の視線が冷たくなってしまったならば、素で泣いてしまうかもしれない。少しでも温度を上げられるように謝りながらベストの返答を考える。先程まで胃袋と大脳辺縁系がタッグを組んで食欲を満たせと僕に騒ぎ続けていた声も、もう聞こえていなかった。
「ちょっと、今日は出るかどうかわかんないかな。講義が終わったら、調べたいこととかあって、ね」
「調べたいこと、ですか。それは卒論に関してですか? 畑中さん、先日に卒論が全く進んでないと言っていたので。そろそろ危機感持った方がいいですよ。もう一度大学四年生、やりたいんですか?」
生きている限り人間は蓄えられたエネルギーを使い続けていくという。その中で特に人間は脳が臓器の中でエネルギーを特に使うらしい。途方もないほどの空腹は脳に十分な活力を与えなかった為か思考は上手く纏まらず、結局はいつものように曖昧な返答をしてしまう。しまったと思う暇もなく、今の僕が一番聞かれたくなかったことを直球で返されてしまったので思わず頭を抱えながら嘆いてしまう。
「卒論の話はしないでくれ……どうしたらいいのかわからなくなってるんだ。留年なんかしたら末代までの恥だしオヤジに殺されてしまう……!」
聞こえるか聞こえないかというほどの微かな溜息の声が聞こえる。我ながら、非常に情けない話である。これ以上彼女の視線に耐え続けることができず、震える視界を微かに上に向けると、野々村さんの鮮やかな赤髪が太陽の光を浴びて炎のように揺らめいていた。少し短く切られたその髪の毛が5月の涼しげな風に動く姿が、まるで彼女が無意識に何かに怒りを感じ続けているようにも思える。
デニム生地のレギンスが強調する細く長い脚が踏み出していく一歩一歩の歩幅は体格が優れている僕が見ても唖然とするほどに広く、急ぎ足で歩いていた僕と歩くスピードと然程変わらない。食欲を満たすことなくひたすらに歩みを進めていった僕たちは、あっという間に陣内大学の校門のすぐ近くまで辿り着いていた。
「そうですか、ならば藍原さんの夢に関して、ですか?」
校門を潜り抜け、キャンパスの構内に入った瞬間に、強い風の音と共に彼女の言葉が通り過ぎていく。冷や汗でじっとりと濡れていた僕の背中が、風の通り道となった校門により強まった風で容赦なく冷やされる。まだ、彼女の見た夢の詳細は野々村さんは知らないはずだ。邑兎や藍原さんがあの後に相談した可能性も思ぶが、それは恐らくないような気がした。特に根拠など存在していないけれど。
「そんな感じかな。気になることがあって、ね」
よって、細かいことは暈して答える。流石にこの場で『僕が死ぬかもしれない』などといった事を言っては、それこそ奇異なものを見る目で見られてしまう。
「そうですか、深くは詮索しませんけどね。なんだか、後期末の樋野君とは別のものに追い詰められてるような表情が張り付いていたもので。なんとなく、気になったんですよ。まるでーー」
野々村さんの少し低い声が、右側の後ろから聞こえてくる。この聞こえてくる位置になにか記憶に引っかかっているが、それを思い出すことができない。
太陽の光が微かに雲に隠れて、勢いが弱まっていく。太陽が隠れてしまうと、5月の空気はまだまだ冷たい。今日はやけに風が強く吹くので、背中の汗も相まって僕の身体を更に冷やしていくが、やはり僕の身体を一番に冷やしていくのは、彼女の声であった。
「今にも本当に死にそうな顔、してますよ」
そう言いながら野々村さんは僕の横を通り抜き、学内の告知などを一斉に張り出してある掲示板の方向に向かって歩いていく。彼女の言葉の真意がわからずにわずかに反応が遅れてしまい、慌てて彼女の方に振り返ったが、もう野々村さんの姿は何処かに消えてしまっていた。
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