背後で嘲笑う声 中編

 夜が明けて朝が来る。これは世界の定義であって常識だ。


そして部屋に響き渡る無意識から現実に引っ張り出す現実と睡眠との境界を切り崩す音でもある目覚まし時計の電子音が煩いというのも、常識だ。その煩わしい電子音を止めてる為に身体を動かすという事は意識を睡眠から引きずり出さなければならない。 


 ひたすらに重い目蓋をなんとか上げてゆっくりと意識を現実に繋ぎ、目覚まし時計のスイッチを叩くように消すと電子音は沈黙した。 


 また久しぶりに夢を見た気がするが、やはりどうにも思い出せない。『夢を見た』という確信はあっても、どうやってもそれを思い出すことが出来ない。身体が痒いのだが、どこが痒いのかがわからないような、とにかく言いようのない違和感が僕の中で蠢いていた。


 頭を掻き毟っても、言葉にするのが難しいモヤモヤした複雑な感覚だけが眠りから醒めたばかりの僕の心に張り付けられている。その感覚と同時に、僕の胸の奥の奥に、先日と同じものがまだ残っていた。それは胸の筋肉と心臓、それと背筋すら一気に抉られているような鈍く激しい痛み。眉を顰めながら胸を押さえて記憶を辿るが、やはり思い出すことはできなかった。


 胸が鈍く痛むのは、きっと悲しい夢を見たからだ。ただ単にそれを僕が覚えていないだけなのだろう。夢を見ている時の脳は現実と区別がつかないと何処かの本に書いてあったと記憶している。その本が正しいならば、今こうやって胸が痛いのも僕の脳が勝手に悲しいと思い込んでるにしか過ぎないということだ。


 この痛みも、きっとニセモノ。作られたモノだ。あの時に比べれば、絶対にマシに決まっている。ニセモノの胸の痛みに顔をしかめながら、ゆっくりと深呼吸をする。


 吸って。


 吐く。


 吸って。


 吐く。


 何度も繰り返すうちに胸の痛みは微かにではあるが確実に少しずつ、ゆっくりと和らいでいく。それと同時に『夢を見ていた』という実感も深呼吸とともにゆっくりと消えて無くなっていく。


 痛みが消えた頃には悲しい夢を見ていたかもしれないという曖昧な実感はほとんど消えて無くなり、そもそも夢を見ていたかどうかも曖昧になっていた。


 やっぱり気のせいだな、と小さく頷きながら両の頬を手のひらで軽く叩く。皮膚と皮膚がぶつかり合う小気味良い音が耳孔のすぐ下で炸裂し、皮膚と筋肉の下にある頭蓋骨の振動も相まってそこそこの衝撃が音と同時に僕の鼓膜を震わせる。


 まだまだ微睡んでいた意識が、その衝撃で一気に覚醒すると同時に、自分自身の体内時計が示す時間は、こんなことを気にしている時間ではないことも思い出す。もう大学の講義は1日1限程度参加すれば卒業に十分取れるほどの単位はすでに所得している。残された大学生活のなかでの学業といえば卒論の作成をするぐらいであるが、これに関しては今は考えたくはない。


 それでも、もうすぐ終焉を迎える大学生という身分をもう少し楽しんでいたかった。自宅に篭る気もなかなかなく、アルバイトに明け暮れて旅行するというような学生によくあるプランも頭にはない。


 就職活動をそろそろしなければならないということも分かってはいるのだが、逃避とはわかっていても怠惰に塗れた今の大学生活から目を逸らすことなく、日々を謳歌していたいのだ。そのうちに留年の危機になった後輩の男が悲壮感に染まった表情で日々を過ごす時のように、危機感に追い詰められて現実を見る羽目になる時が近いうちにやってくるのだろう。それまでは、何も考えずに猶予期間とも呼ばれるぬるま湯に浸かっていたかった。


 一年後の自分が何処かの会社に勤めて、満員電車に揺られてドラマなどでよくあるデスクワークをしたり外回りでオフィス街を走り回ったりするような光景を想像することができない。こうやって、サークルの仲間たちとのんびりと過ごしていく日々が永遠に続いていくような気がしてならないのだ。嗚呼、日曜日の夕方にテレビをつけるとほぼ必ず目にしてしまう国民的アニメのように、日々が進むことがなく日常を過ごせればいいのに。


 壁を見ると、3本の針が動き続けることによって無情にも時間が進み続ける壁掛け時計が示している時間は、朝と呼べる時間をとうに過ぎていて時計の短い針と長い針がが一番上で重なったところだった。


 見間違いかと思って何度も見直すが現実というのは残酷なもので、どうやら珍しくとてつもなく寝坊をしてしまったことを認識する。13時から始まる3限目の講義に出るにはもう家を出なければならない時間である。


 昨日の晩から何も胃袋に入れていない。中身がほとんどなくなった胃袋が空腹を訴えているが、準備をして食べるような時間の余裕はあまりない。三大欲求の一つの食欲を意識的に押さえつけて、手短に身支度をした後にハンガーにかけていたジャケットを適当に羽織って玄関のドアを開けて外に出た。


 自主休講も選択肢の一つにあったが、今日の講義はゼミの教授である金子教授の授業なのだ。出なかったら出なかったで小さく毒を吐かれるのは溜まったものではない。そういったことは、オカルト研究部の面々だけで十分だ。


 少し曇りがちな空の下を急ぎ足で歩く。このペースであれば余裕で間に合うし、大学のすぐ近くにあるコンビニでパンでも買って食べるほどの時間の余裕もありそうだった。


 歩きながら今日の講義を行う金子教授と世間話をしているときに言っていた言葉をふと思い出す。人間の三大欲求というものは『食欲』『睡眠欲』『性欲』だと言われていて、人間という種族が存続させていくために必要なものだと言われているが、一つの生命が生きていく上で『性欲』は唯一押さえつけられるものではないか、それは生命の欲求といっていいのか。『食欲』と『睡眠欲』は従わなければ生命を保つことができないものであるが、その二つに合わせるのであれば三大欲求の最後の一つは『性欲』ではなく『排泄欲』なのではないか。


 そう淡々と語る教授の話ももっともだと思いながら、その一つである食欲を満たせと頭の中で大声で騒ぐ僕の脳の奥、本能を司る大脳辺縁系と呼ばれる小さな部位の叫びを宥めながら歩いていく。


 少しでも気を紛らわせようと別の思考に切り替えるが、やはり本能に対抗するには別の本能のことなのか、頭の中に真っ先に浮かんだのは先日に後輩の女の子が話していた夢の内容だった。夢を思い出せない僕とは違い、朧げなビジョンではあるが見ている夢を語れるほどに覚えていられる後輩が語った夢の内容というのは、僕が大学の構内で血を流して倒れているというものだ。


 冷静に考えると一笑に付してしまうような馬鹿馬鹿しい、荒唐無稽で出鱈目な話だ。まだまだ多感な時期が残る女の子の脳が幾億の記憶のピースが創り出した、偶然と偶然が積み重なって作られた妄想が織りなすビジョンとして片付けてしまえばそれでいいのだ。


 しかし、自分の頭の中でなにか見落としがあるような気がしてならないのだ。大学までの道のりを急ぎ足で進みながらも、頭の中はひたすらに回転を続けていく。お告げの言葉に従って世間を騒がす事件の数々や、銀城で流行った脱法ドラッグ。そして数多の思考誘導と、未来を示した夢。それらが頭の中でぐるぐると回り続けて脳が物理的にパンクしそうになっていく。


 自分で自分を悪く表すのも何だが、ハッキリ言って僕は器用な方ではない。こうやって頭を使って考え事をしている時は別の感覚が曖昧になっている。集中しているといえば聞こえがいいのだが、他のことが等閑になっていくのは考えものだ。例えば聴覚などはとうに意識的にほぼカットしている。


「久しぶりに私から、それも何度も声をかけたのに無視するとは……まったく、いい度胸してますね、畑中さん」

 

 そのお陰で僕のすぐ隣で歩いていた野々村可南子が発していた声に気付くことはなく、溜息ともに少し大きく吐き出された言葉にようやく気づくと同時に、心臓が大きく縮んだ一瞬後に爆発するのではないかという勢いで膨らんだ。


「うぉわぁぁ!!!」


 全く予想していなかったところからやってきた、これまた予想もしない声に思わず両手を上げて思いっきり飛び跳ねながら叫んでしまう。


「相変わらず元気ですね。でも往来のど真ん中で大声を出すのは、どうかと思いますよ」


 射殺すような半眼でこちらを見る野々村さんの視線に、僕の背中がじっとりと汗をかく。まだ5月半ばの少し冷たい空気が、僕の身体を容赦なく冷やしていった。

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