背後で嘲笑う声 前編

 黒い大理石で造られたような、鈍く光る大地。それを両脚で踏みしめていることを認識した瞬間、僕は全てを思い出す。


 あぁ。またか。いつか見た夢の続きか。 


「そうだよ、またなんだ。ごめんね賢治。こんな夜に呼び出して。……いや、違うな。これは君の脳で起きている現象なんだから。結局、―――を呼び出したのはキミなんだよ」 


 以前と変わらず、僕のすぐ後ろに張り付く声は悪戯っぽい笑みを浮かべたような喋り方をしている。前回と違って、今回は僕の身体は歩き続けていることはなく、身体の自由はそれなりに効くが後ろを振り向くことだけはできなかった。


「あぁ、―――はキミの脳の中にいるからさ。でもキミの脳にしかいないよ? そういう意味では―――は賢治、キミの中の特別な存在であるとも言えなくもない。だけど……さっき言ったとおりこの世界はキミの脳が創り上げたものだ。今、―――が発している言葉、声、息遣い、表情……これは見えていないだけど、まぁ……全てが君の脳に流れるPGO波とシナプスやニューロンネットワーク等による電気信号で作られた仮初めの存在。キミが望んだからこそ、―――はここに存在し、キミにこの夢の中で話しかけることが出来る。キミが望むのなら―――の姿を見ることも出来るだろうし、きっと触れる事も出来るだろうね」 


 夢と自覚しているのに。この世界は現実ではないのに。この黒く深い森の中は今の僕の脳は現実のように、存在しているように感じてしまう。


 その僕が織り成す世界。それでも僕の脳が創り出した世界のなかで、幾ら願っても背後で囁き続けるどこか懐かしい声の主を見ることが出来ない。 


「姿を見ることが出来ない? 君が望めば容易く見れるし触れることもできるのに? それはきっと、キミが―――が――――であることを理解したくない事を脳の奥の奥の奥の奥底で『願っている』からじゃないのかな?」 


 僕の中でそんな『願望』があるっていうのか? 声の言っている意味がわからずに首を傾げる。幾ら念じても、幾ら願っても、僕の頭の中を表しているらしいこの世界にはなにも変化が起きない。無意識に、その懐かしい声の主が誰なのか分かってしまうのに不安を感じてしまっているのだろうか。


 先日のことを思い出す。僕が近いうちに死ぬと言っていた女の子は、夢でその光景を見たと言っていた。彼女も、このような心情風景を通じて少し先の未来を見通しているのだろうかとふと思いながら、出鱈目とも言える彼女の言葉を心から信じてしまっていることに気づく。


「『予知』、か。キミの記憶につい最近記憶されたあの言葉の事を考えているのか。確かにそういう考えもなくも無いね。キミが―――を自分の深層意識内で『望んで』具現化しているように、脳の世界では出来ないことなんて無いよ。誰かが言ってただろう? 人間が考えうることは全て実現可能なことだって。肉体を持って実現が可能なら精神、思考……つまり脳での実現が不可能なわけが無いじゃないか」 


 つまり、僕のすぐ後ろで語り続ける声の主は、藍原さんが言ってた事はあながち間違いじゃないと言っているのだろう。しかし、未来を見通すことなんて、そんなに都合よく物が運べるだろうか。この夢だって、僕自身が望んで見ている訳ではないのに。 


「そもそも、現実世界なんてひどく曖昧なものだよ。脳が全ての感覚を司っている限り、脳が『出力』することによって肉体は行動し、精神は思考する。そしてそれらを知覚して、知覚した情報は脳に戻って『入力』される。出力→知覚→入力の間に小さなノイズが紛れ込んでしまえば、世界はたちまち色を変えてしまうんだよ。どんな綺麗な色をした絵の具でもほんの少しの黒を混ぜてしまえば漆黒に染まってしまうようにね」 


 現実世界と同じように認識している夢の世界で立ち尽くす僕のすぐ後ろで声はひたすらに講義を続けていく。現実では邑兎から、夢の中では姿の見えない誰かから延々と話を聞かされるというのは、いったい僕が何をしたのだろうか。前世は坊さんか牧師かなにかなのだろうかと間抜けな思考が僕の意識の中を通り過ぎる。


 この夢の中、何処か懐かしい声で繰り広げられる話は現実の世界で延々と訳のわからない話を繰り広げる邑兎の話と違って、意識を外に放り出して聞き流すことはできない。僕の脳で行われているらしい世界で行われる講義は、まるでダイヤモンドで作られた針でレコード盤に音楽を刻み込んでいくような工程を記憶領域である海馬に行うように頭の中でリフレインを繰り返す。


「まぁ、この世界は出力も入力も行っていない、知覚だけが存在する、ノイズの存在しない世界だよ。そしてこの知覚――夢の世界は、言ってしまえばキミの心情風景だよ。外部情報が無くなると脳は心情風景を外部情報に置き換えて映し出すんだ。つまり、今のキミの脳が描き出した世界が『ここ』なんだよ」 


 つまり、この黒い針葉樹も、大理石で造られたコンクリートのような大地も。みんな僕の心情風景だっていうのだろうか。改めて周りを見回すと、あまりの不自然さに恐怖に近い感情を覚える。


「怯えるようなことなのかい? ―――がこの事を理解しているということは、この―――を構成しているキミの脳が理解していなければならないということだよ? わからない振りをしているだけで精神、つまり脳ではわかっているんだ」


 首を後ろに回せない僕の後ろにぴったりと張り付いて語り続ける声は、嘲笑うかのように僕の右後ろと左後ろを行ったり来たりする。時折僕の神経を逆撫でする言葉を吐く声の主に対して、裏拳でもぶちかましてやりたい欲求が出てくるが、動きが制限されているこの状況では、それは叶わない。


 苛つき始めた僕のことなどお構い無しというように、背後の声は独りよがりの話を続けていく。僕が聞き流すことができないということをあちらは理解しているようだ。意識の中で反響を続ける声に、大声を上げて逃避したい欲求が高速で膨れ上がってきた。


「逃げようたって、そうはいくものか。ここでも逃げの手を考えるようなキミは、やっぱり、何もかも間に合わず、何も守れずにただただ堕ちていくだけの存在なんだよ。でも……逃げた先があるのなら、それはそれで悪くないんじゃないかな? この世界には―――がいる。いつでも。どんなときでも。キミが何処にいようとも、―――はキミと一緒だ。キミの脳が存在する限り、キミと―――は一時も離れることはないんだよ」 


 つまりは僕の背後で聞こえる声は、切り離すことができないということか。ふと沸いた僕の疑問を認識しているのか、答えはすぐに聞こえてくる。


「あぁ、消せるか否かと問われれば……消せると思うよ。まぁキミが望むならば、ね。 だけどどうなっても分からないよ? この世界はキミの心情風景で、―――はその世界の住人というよりパーツの一部だ。それを消すという事はキミの精神を破壊するのと同義ということに気付けば、そんな事をしようとなんて思わないだろうけど、ね」 


 自嘲するような声が、僕の耳孔を通り抜けずに直接頭の中に響き渡っていく。脳を直接揺らすような声は、微かに小さくなったような気がした。


「流石に―――はまだ消えたくないしね。……ん、これじゃあまるでキミに恋焦がれているみたいじゃないか」 


 そう言って小さく笑う声が聞こえる。どこか悲しむようなその笑い声はすぐにラジオのスイッチを切ったかのように、ぴったりと止まる。


「まぁ、恋焦がれていたとしても―――その感情すらキミが創り出したものなんだから、それすら虚像のものだ。そう考えると何か複雑なものがあるんだね」 


 一瞬の静寂のあと、声はまた僕のすぐ後ろで笑う。先ほどと違って少しだけ悲しそうな、そんな雰囲気を思わせる笑い声だった。 


 それでも、違和感だけがやっぱり残っている。思い出せないにしろ、声の主は確かに僕の知っている存在だ。そのことなど、今はどうだっていい。


 記憶にあるその声の主は、そんな泣いているような笑い声を出しただろうか。

 

根拠は全くない。何故なら僕はこの声の主を誰だか認識していない―――『声』がいうには僕が認めていないということだから。


 しかし、声の主の姿を何度も確認しようとしても、どんなに首を動かそうとしても僕の首は正面から少しも動かない。正面だけをただただ凝視し続けている。

眼球すら動かせない。瞼も動かない。瞳が乾くという感覚すら感じない。


「現実はあまりにも醜く爛れている。ゴミ溜めの中の掃き溜めの吹き溜まりと言っていい。いや、あらゆる負の感情や行動、思考、思想が凝縮された、希望が入っていないパンドラの箱のようなもの。それから脱却された、幾らでも自分の思い通りになる世界。そんなのがあれば人は堕落し、失墜し、現実というドス黒いものが更に黒さを増していく。その黒さに、夢見るもの達は耐えることが出来ずに夢に『溺れる』のさ」


 ゆらりと声が左右に揺れていく。右耳に聞こえたと思えば、すぐに左耳に聞こえる。揺れ動く声は感情豊かなようで、やはり何か希薄なものを感じている。


「夢に溺れる。つまり……あの時の―――のようになる。キミはそれを見て、理解してどう思ったんだい? 感じただろう。夢の前には現実なんて無力でしかないことを。脳は夢と現実を区別しない。この世界と、夢から覚めた後の現実は、君の脳にとっては何も変わりはしない」


 耳の後ろで囁き続ける声は、再びひっそりと笑う。その笑みは悲しみの中に、どこか一種の諦めのような感情が広がっていた。


 でも、やっぱり。いつものように。


 会話の終わりは唐突にやってくる。


「ん、もうこんな時間か。夜が来るという事は朝も来るという事だ。そろそろ目覚めの時間だよ?」 


 そう言って、声はゆっくりと僕の後ろから遠ざかっていく。やはりその声はどこか悲しげだったけれど、よく聞くと下手な嘘を隠し通しているような無機質さを隠しきれてはいなかった。その悲しささえも、フェイクと思えるような、薄っぺらさ。


「そろそろ今日の夢の時間はおしまいだ。何度も言うけどここはキミが作り出した世界だ。キミさえ望めば―――はいつでも君の前に現れるよ……それじゃあね、賢治。良い朝を。良い日常を」 


 どんどんフェードアウトしていく声と同時に、僕の身体が徐々に感覚を取り戻していく。辛うじて動くようになった身体を必死で動かし、神経を総動員して振り向こうとする。


 一瞬だけ影に消えていく姿が見えた。その後ろ姿が見えたと思った瞬間、夢は突如終焉を迎えた。 

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