希望が入っていない箱 後編
一瞬何が起きたかさっぱりわからなかった。急に背中を向けて駆けていく後輩の姿に思考回路と肉体がフリーズしてしまっていた。
「ちょっと⁉︎ 未央ちゃんどうしたのさ!」
邑兎の声で身体の硬直が解ける。何が起きたのかさっぱりわからないのは変わることはないが、藍原さんの頭の中に何か途轍もないことがあったのはわかった。
視界から消えてしまった彼女に向かって言葉を出す余裕はない。藍原さんを追って全力でコンクリート製の床を踏み抜き、廊下を駆け抜ける。廊下は走ってはいけないという小学校から続く古のルールなど分かっている。だが、今はそんなものを悠長に守る気など更々なかった。
邑兎も慌てて僕の後を追いかけているようだったが、如何せん男女の肉体面でのスペックの差だ。その差は歴然といったところで、僕が階段に着いた時はもう邑兎の姿は僕の視界に映ることはなかった。
階段を飛び降りるように駆け下りて、エントランスに向かって一気に走り抜ける。ここまでの道中に藍原さんの姿は見えなかった。隠れるようなスペースはこの学館には存在しないので、もうこの建物からは出ているのだろう。あまり運動が得意じゃないような雰囲気の藍原さんであるが、意外と足は早いことに驚いていた。
ゆっくりと開く自動ドアに煩わしさを感じながら、学館の外に出る。おおよそ走るのに適していない廊下から、凸凹がそれなりにある年季の入ったインターロッキングブロックで舗装された歩道に切り替わったことで先程までの走り方では盛大に転んでしまいそうになるので、足元に意識を若干向けて走っていく。
「畑中クーン! ちょっと待ってよー!」
更なる加速をしようと脚に力を入れようとしたところ、遥か後方から高い声が空気を伝わって僕の鼓膜を震わせる。足を止めて振り向くと、息を切らせながら邑兎がこちらに向かって走り続けていた。
「ぜは、ぜは、ぜは……あたしのこと、放っておくなんて、遊びだったっていうのね! この、薄情者ッ……!」
肩で息をしながらなんだか聞こえの悪い悪態をつく邑兎に短く謝りながら辺りを見渡す。今僕たちがいるところはメインストリートの真ん中にある広場の手前あたりにいる。広場に入って東に曲がって部室の方に戻ったか、それとも北に突き進んでキャンパスの外に出てしまったか。
部室の方に行ったのならばまだ追いかけようはあるけれど、問題は北側にある校門をくぐり抜けて外に出てしまった場合だ。大学という人が集まる性質上、この周辺は久我市の中では人通りが特に多いエリアだ。バスやタクシーなども数多く運行していて、それに乗ってしまったならば彼女を見つけ出すのは不可能だ。
さて、どうしたものかと考えていると、邑兎は何かに気づいたようだ。先程までの疲労などなかったかのように、猫のようにしなやかな足取りで足音を立てずに軽やかに歩いていく。
彼女の向かっている先を目で追っていると、僕たちが探しているものがすぐ近くにあったことがわかった。
灯台下暗しとはよく言ったもので、広場に設置してある人工木で造られた小さなベンチに藍原さんの姿があった。
項垂れている藍原さんの頭から長い髪の毛が重力に従い垂れていて、今の彼女の表情を窺い知ることは出来ない。それでも、小さく震える彼女の姿から察することは出来る。
「わかっちゃったんだ?」
隣に静かに座った邑兎が、藍原さんの小さな手を両手で握る。普段は喧しい邑兎の声は、今はとても静かで、姉というよりも母のような優しげで穏やかなものだった。
無言を貫く藍原さんであったが、その沈黙は肯定を示していた。
「何を見たのか、別に言わなくていいんだよ。言いたくない事なら、言わなくていいんだ。見たくなかったものだったなら、忘れちゃえばいいんだよ」
邑兎は泣く子供をあやすように藍原さんの両手を摩りながら、優しく語りかける。項垂れた藍原さんの長い髪の毛が風に揺れて、表情が一瞬だけ見える。
それは、なにかとてつもなく恐ろしいものを見てしまったかのような恐怖を貼り付けたようなものであった。見てはいけないものを見てしまった、知らなくていいことを知ってしまった。そのような後悔も入り混じったような表情に、僕の心臓が急速に縮んでいくのを感じる。
やはり、箱の鍵は開けられてしまったのか。あの場で藍原さんがなにを感じたのかはわからない。それでも彼女にとってはあの時、僕が窓を覗き込んだときに何かを感じたのだろう。
「夢に出てきてた人って、畑中さんだったんです」
縮んでいた心臓が反動をもって大きく飛び跳ねて、思わず胸を押さえてしまう。彼女の見つけた答えは意外にも簡単なものだった訳ではあるが、夢に出てきたという人物がわかった段階で、藍原さんの探しているものが判明したというのは大きな進展だ。ほぼゴールと言ってもいい。
なのに、どうして。
「ごめんなさい、でも、これは、これだけは、言わなきゃいけないんです」
顔を上げた藍原さんの両の瞳は、今にも涙がこぼれ落ちそうだ。唇は薄紫色になり、顔は青ざめていた。探し続けていたものをようやく見つけたというのに、その相貌は喜びでなく、耐えきれない程の恐怖に直面しているような表情をした彼女は、取り乱し囁くような声で絶叫する。
「もしこれが本当のことになるんだったら、私はーー!」
「落ち着いて、落ち着いて」
邑兎の声も、今の藍原さんには届かないようだ。錯乱しているような感じではないが、余裕がないというか、切羽詰まっているというような藍原さんが放った言葉が空気を震わせて僕の耳孔に滑り込む。
「畑中さんが、あそこで、死んじゃうかもしれないんです…!」
5月独特の爽やかな風が、一瞬だけ止まった気がした。側頭部をハンマーで思いきり殴られたような衝撃を受ける。
僕があの場所で死ぬ? どう見ても嘘や冗談の類を話しているような表情ではない。もし僕たちを騙そうとしてやっているならば、アカデミー賞どころか世界中の映画の賞を総ナメするような名演で怪演だ。演技だとはとても思えない。
先程まで邑兎と話していた内容が高速でフラッシュバックする。仮に未来を見据える力が本当にあって、藍原さんが見た夢がそれを現しているとしたら。あんなところで、人気の少ない学館の隅で特に理由もなく死んでしまうのか。
疑問符が頭の中を埋め尽くしていき、呼吸が出来なくなる。身体に酸素が回らなくなり、酸欠で視界がぐるぐる回る。足腰に力が入らない。膝が震えて今にも崩れ落ちそうだ。
たまらずに地面に膝をつく。未来を予知しているということは、その未来がすでに確定してしまうのではないだろうか。そう近くないうちに、その未来がやってくるのか。そしてそれは、抗うことができるのか。
「畑中クンが? どうして、どうやってなのさ?」
邑兎の言葉も尤もだ。理由も原因も今の彼女の言葉だけではわからない。今は少しでも、情報が欲しい。
「……ごめんなさい、私が見たのは、あの場所で、たくさんの血を流して畑中さんが倒れてるところだけ、です。暗くはなかったので、昼間か夕方だと思うんんですけど、それ以上は」
絞り出すように呟かれた藍原さんの言葉に息を呑む。それなりにわかるのならば、防ぎようもあるのだ。
日付は難しいとして、昼間に起きるならばその時間帯にあの場所に近づかなければいい。更に言ってしまえば、学館に入らなければいいのだ。学業には支障が出るが、今の世の中はインターネットで溢れている。適当な理由をつけてオンラインで教授とやりとりをすれば、最悪はどうにかなる。
落ち着いて思考することで、足の震えも治まっていく。そもそも藍原さんの見た夢など、科学的な確証など何もないものなのだ。そこまで悲観的になることもないと足に力を入れて立ち上がる。
しかし、僕の頭の中の深いところではまだまだ受け入れられていないようで僕の身体は僅かにぐらつく。夢の予知など、信じたくもないし信じる気もない。
それでも、藍原さんの恐怖と後悔に染まった顔を見てしまうと、それが本当のことなのではないかと思ってしまう自分も確かに僕の頭の中に存在するのだ。
僕たちが開いた箱の中身は、どうしようもないほどの畏怖の念を抱く、おぞましい何かであった。縮こまった心臓が早鐘を打つリズムが、肋骨から背骨を伝わって僕の鼓膜を震わせていた。
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