希望が入っていない箱 前編

 先導する藍原さんに続いて僕たちは構内を歩いていた。5月の爽やかな風が僕の背中を通り過ぎていく。自然と調和する都市である久我を意識してか、ところどころに植えられた木々が楽しげに揺れていた。


 部室棟を出て、このキャンパスの象徴でもある一番大きな10階建ての学習棟と、大きな体育館の間を通り過ぎていく。そのまま歩みを続けて構内のメインストリートに向かって藍原さんは無言で歩みを続ける。それを追っていく僕と邑兎は、彼女のゆっくりとした足取りにつられてか、お互いに言葉を発することはなかった。


「こっち、です」


 ちょうどメインストリートの真ん中あたりにある小さな広場に辿り着く。藍原さんは、風に負けそうなほどな小さい声で呟いた後に、身体の向きを南側に向けて歩みを続けていく。南側には図書館や、教授や彼等の教えを受ける多数のゼミ生が専門的な学習を用いる学館が存在しているが、学館は一年生のうちは立ち入ることはほぼあり得ないところである為、途中で曲がって購買部や別の学習棟のあたりへと向かうのだろうか。


 隣で歩く邑兎は何を考えているのかわからないが、僕はそんな予想を兼ねた事を考えながら藍原さんの後ろを歩いていた。そして、その予想は覆されることになる。


 藍原さんはストリートを曲がることなく、学館に向かって歩いていく。そのまま学館の自動ドアをくぐり抜けて中へと入っていったのだ。


「おいおいおいおい、マジかよ」


 ゼミナールに参加して、そのなかで卒業論文を作成するというこの大学のカリキュラムを行うにあたり、僕自身と邑兎は何度もこの建物に入っている。しかしまだ新入生の藍原さんは、この建物の外側はオープンキャンパスなどで見たことはあっても、中に入ったことなど殆どないだろう。


 強いていうならばオリエンテーションで一階の内装を軽く見る程度だったのではないかと記憶しているが、ほぼ中身を知らない建物の中が夢の中に出てくることなどあり得るのだろうか。


「うーむむむ、なかなか不思議なことになってきてるじゃないの」


 邑兎も腕を組み、なかなか楽しそうな顔をしている。先程自身が言っていた『外宇宙からのメッセージを受け取ったことにより脳の未使用領域が進化する』というトンデモ仮説に厚みが増してきたことに期待を浮かべているのだろうか。


 彼女のどこか楽しげな表情とは裏腹に、僕は藍原さんが夢に見た光景が、なんだか、とても恐ろしいものなのではないかというような気がしてきている。


 ここ最近また発生した『お告げ事件』、それと先月に邑兎が置いていった資料に書いてあった夢の世界へと堕ちていく若者たちと、人の心理を容易く操作する馬鹿げたゲーム。そして真嗣が噂で聞いた、新しい世界を開くという合法ドラッグ。


 幾多のあり得るはずのない不確定要素が混ざり合い、まるで希望が抜け落ちたパンドラの箱の鍵が足元に落ちているような気さえ覚えている。ほんの僅かな興味でそれを開いたら最後、とんでもない災いが僕に、僕たちに降り注ぐのではないだろうか。


 軽やかな足取りで邑兎は藍原さんの後を追いかけていく。そこはかと無く訪れる不安が心臓が大きく鳴動し、口の中を瞬く間に乾かしていく。


 虎穴に入らずんば虎子を得ず、とはよく言ったものである。それなりのリスクを冒さなければリターンを得られない時もある。ただ安全に、ノーリスクに行動していては何もできない、変わらない時も数多くある。


 人生はありとあらゆる選択肢に溢れていて、捨拾選択や二者択一の連続だ。その決定に従って人は生きていく。その選択をすることによって選ばれなかったものは確かに存在するが、それを選んだらどうなったかど誰にも分からないし観測することはできないのだ。


 形容し難い不安を抱きながら、今ここで足を踏み出して藍原さんの夢の中身を僅かにでも共有するということが僕たちがどういった心理的、肉体的な影響を受けるのか、今はわからない。観測できなければただの机上の空論であることなど百も承知だ。


 調べはじめた『お告げ事件』や藍原さんの見た夢に関して、手がかりがない現状。こうなったらやぶれかぶれだと意を決して僕も邑兎に続いて足を踏み入れる。


「遅ーい! 入り口でなにボサっとしてるのさ!」


 逡巡していたのは僅かな時間だと思っていたのは僕だけのようだ。エントランスで背中に手を当てながら大きな声で叫ぶ邑兎に片手を上げながら詫びる。


「あの、大丈夫ですか?」


 自覚していなかったのだが、数分間は立ち止まっていたようだ。エントランスから若干離れた廊下から藍原さんがこちらを心配するような表情を浮かべながらこちらに向かって歩いてくる。


「いやごめん、気にしないでくれ。行こう」


 太腿を平手で叩き気を取り直す。まるで自分自身を鼓舞するかのように再び力強く歩き出した藍原さんの後ろを僕は歩いていく。


「ホントにどうしたのさ、畑中クンらしくもない」


 隣を歩く邑兎が僕にしか聞こえないほどの声量で囁く。基本的に人のことなど顧みない邑兎がそんなことを言うなんて、今の僕は余程変な顔色でもしているのだろうか。


「柄にもなく少しビビってただけだよ」


 怪訝そうに口を尖らせる邑兎の顔を見ない振りをして、自身の顔を両手で揉みほぐしながら歩いていく。


 藍原さんは廊下の端にある階段に足をかけて、ゆっくりと登っていく。全部で6階建ての学館のなかで、二階以降に行くことなど新入生には更にあり得ないだろう。


「未央ちゃん、ホントにここで合ってるの?」


 やはり邑兎も疑問に思えてきたようだ。先程まで浮かべていた楽しそうな笑みも僅かに陰りが見える。六階建ての鉄筋コンクリート造の建造物である学館の床は、この大学が出来てから最初期に造られたものだ。老朽化も進み、僕が卒業した後に建て直すというが、逆にいうならば今が一番ガタが来ているこの学館の階段を登りながら、藍原さんは答える。


「はい、ここの3階の窓から見えた風景が、私の夢で見たものと一致している、と思うんです」


 階段を上り、三階に到着する。そこから廊下を歩き、突き当たり……端にある階段からの対になる場所に辿り着いた。突き当たり、つまり行き止まりであるこの場所には、彼女の夢のヒントになりそうなものなど何も無く、小さな窓が一つあるだけの非常にシンプルな光景である。太陽の光が強く差し込んでいる窓からは久我の周りに広がる山の木々が見えていた。


「ここです。ここが夢に出てきた場所、でした」


 よくこんなスポットを見つけたものだと思いながら、顎に手を当てて考える。確かにこの窓から見える風景というものはこの大学ではなかなか見ることのできないものではあると思う。実際に僕もここから見るアングルはこれまで見ることがなかった。


 この風景をこの1ヶ月でひたすらに探し続けた藍原さんは、この場所を見つけた時はジグゾーパズルの最後のピースをはめ込んだ時のような気持ちだっただろう。


「まぁ当然というか、誰もいないよネ」


 壁に手を置いて手触りを確かめるように撫でている邑兎の言う通り、この場所には僕たち以外の誰もいない。念のために一番近くの研究室のドアをノックしてみたが、不在のようだった。これで調査に時間がかかったとしても、迷惑をかけるようなことは無いだろう。許可を得ていない以上、学生として気にしなければならないものは確かに存在するのだ。


「そう言うなよ。何か手がかりみたいなものがあるかもしれない、見てみよう」


 とは言ったものの、窓に顔を近づけて外を覗いても窓の向こうには特に変わったものなど何もない。幾ら目を凝らしても、見えるのはこの陣内大学のキャンパスと、山々に囲まれて天然林がひたすらに繁っている久我の街外れだけが広がっていた。


 空振りか、窓の外じゃなくて周りに何かあるかもしれないと小さく息を吐きながら、眼を凝らしていると、射抜くような視線を感じる。


「え」


 それと同時に、吐き出したような小さな声が聞こえた。そしてその声は、僕のすぐ後ろから。


「うそ…こん、なのって……!」


 振り向くと藍原さんが胸に手を当てたまま、両眼を見開いて硬直していた。彼女は信じられないものを見たような顔をした一瞬後に急に両眼に涙を浮かべ、何も言わずに背を向けて今来た道を走って戻っていく。


「ちょっと⁉︎ 未央ちゃんどうしたのさ!」


 邑兎の声も藍原さんの背中に届かない。声は虚しく廊下に響き渡り消えていった。

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