進化する哲学的ゾンビ 後編
ドアを控えめにノックする音が、救世主の来訪を告げる。
部室のドアをノックする人間など本当に数が少ない。周り迷惑など気にすることなく喧しく喋り続ける邑兎と、それを放牧してしまっている僕たちに文句を言いに来る他の部……例えば隣の部屋で活動しているボードゲーム同好会か写真部のどちらかの部員である場合が殆どではあるが、彼らがドアを叩く時は感情に任せた乱暴なノックだ。
それとは違う、こちらの様子を伺うように叩かれるドアは隣室の人々ではないことを示している。そして、その音を奏でるのは一人だけだった。
「し、失礼します」
辿々しくドアを開き、小動物的な雰囲気を出しながらおずおずと部屋に入るのは新入生の藍原未央だ。新生活が忙しいようで入部したばかりの頃はなかなか参加できなかったが、ここ最近は少しずつ慣れてきたのか顔を出す日が多くなってきた。
「あ、未央ちゃん! おいすー!」
「お疲れ様ー」
邑兎と僕の姿を確認すると安心したような表情で柔らかく微笑む藍原さんを見て、胸の奥がぐずりと痛む。この胸の痛みを随分前に感じた気がするがどうにも思い出すことができなかった。
思い出せない記憶など、どうでもいいことだ。胸の痛みも、きっと気のせいだ。残っていた缶コーヒーの中身を一気に飲み干しているうちに、胸の痛みは何処かに消え失せていった。
あれから自分の夢に関して調べ続けている藍原さんであったが、『お告げ事件』にも行き着いたようだ。何件も刑事事件になっている事案もあって、自分自身の夢も同じようなものなのではないかと複雑な想いを抱いているようであったが、彼女なりに割り切っているようだった。
『畑中さんが調べているようでしたら、ついでになっちゃいますけど、私もお手伝いしたい、です。畑中さんも私の夢のことを調べてくれてますし、一緒ですよ』
そのように言われてしまえば、そこまで調べるつもりもなかった『お告げ事件』に関して本腰を入れて調べなければな、と思った次第である。しかし現実というものはそこまで甘くはない。その後に何度か二人で図書館などに行ってみたのだが、結果は芳しくなかったというのが現状だった。
長机の下に置いてある椅子に座り、鞄からいそいそとソフトカバーの本を取り出す藍原さんを見て邑兎も先ほどまで行っていた講義を続けるタイミングを逃したようだ。小さく咳払いをしながら席に座り直す彼女の姿を見て、邑兎に見えないようにガッツポーズを取る。
ちょこんと椅子に座りながら本を読む藍原さんの姿は、目に掛けられた赤い眼鏡も相まってなんというか、非常に絵になる。
視線を落としている小さな本は何を読んでいるかはわからないが、サイズからして恐らく専門書の類だろう。彼女が見ているという『この大学で誰かを見つける夢』のヒントになるようなものだろうか。
「未央ちゃんは何読んでるの? 面白かったら読み終わったら貸してーね」
邑兎が興味を示したのは彼女が何を読んでいるのか、という言葉以上の意味はなかったと思う。しかし藍原さんにはその言葉にプレッシャーのようなものを感じてしまったのだろう。躊躇いながら邑兎に向けた表紙には黒地に銀色の文字で『音と無音部の隙間に』と書かれていた。専門書かと思っていたが、ハードカバーの大衆小説のようだ。確かつい最近に文学賞を取った、本屋に行けば必ず平積みされている話題の一冊だ。
「これは、すいません。ずっと調べてたんですけど、ちょっとこんがらがっちゃって。別の本を読んで気晴らし出来るかと……」
藍原さんの下がった眉を見た邑兎はしまったという表情をする。大きく両手を振り回しながら後輩に弁解する部長の姿はどこか愛嬌がある。
「いいのいいの全然。強制するようなもんじゃないし。詰まったら別のものを見てみる。こんがらがってる時ってのは視野が狭くなっていくものだしね」
それは本当にそうだ。思考の迷路というものは非情なものであり、進めば進むほどに道は入り組み複雑化して挑む者を惑わせ続けていく。時には分かれ道があったと思えばすぐに合流して元の道に戻ってしまったり、真っ直ぐ歩いているつもりが同じところをぐるぐると回っていたりする。
その迷路から抜け出すために人はありとあらゆる手段を取る。迷路の真ん中に胡座をかき、抜け出したように振る舞うのも一つの手だ。ただそれを良しとせずに自分の納得する答えが出るまで根気の続くまま、がむしゃらに迷路内を歩き回るか、知識という大きなハンマーを持って迷路の壁を打ち破って出口に向かっていくのが大多数だろう。
それでも先が見えなくなったときは、一度立ち止まって休んでもいいのだ。そして補充された根気や新たな知識を武器にして、もう一度その迷路に立ち向かうと、意外にもすんなり通り抜けられたりするものだ。
「息抜きは大事だよ、あまり詰めるなよ、藍原さん」
邑兎をフォローする意味で話題を少しだけずらす。視界の隅で邑兎が小さくウインクをしていたが、気にせずに話を続けていく。
「月並みだけど、この大学には慣れたかい?」
「はい、なんとか慣れてきました。忙しくって五月病になんかなってる場合じゃないですけど」
「なんていうか、最初が肝心だよ。最初に手を抜いちゃうと、留年ギリギリの線で綱渡りを続けて毎年三月に死にそうな顔をしながら学校に通う真嗣みたいな生活を送る羽目になっちまうから」
死相と例えるのがまさしく正しい程の物凄い顔をしながら部室に入ってくる真嗣を見た時は、本当に驚いたものだ。まるで屍体が歩きまわっているようであったし、「あー」とか「うー」とかふらつきながら呻いている様は、さながらB級のホラー映画を見ているようでもあった。
「毎年恒例とはいえ、悲壮感丸出しを通り越して悲壮感そのものって顔をしながら部室で頭を抱えてるのを見ると、こっちが辛くなるくらいだもんねぇ」
「あはは……そんな凄いんですか」
僕と邑兎の述懐に、藍原さんは引きつった笑みを浮かべている。まぁ、いきなり部員のとんでもないエピソードを聞いたら誰だってこんな表情をするだろう。
「もうあれは悲壮感ってもんじゃあないな。拳銃でもあったら迷わずに自分の頭をぶち抜きそうな感じだった」
「もし樋野クンが留年したら、見守ってやってネ、未央ちゃん」
遠い目をする僕たちに、苦笑いをする藍原さんという構図に和やかな雰囲気が部室内を包んでいく。5月とは思えないほどに温かな空気に、眠気が僅かに上回りそうになる。
「そういえば」
思い出したかのように藍原さんが言い出す。僕と邑兎を1秒ほど見たあと、大きく息を吸い込みながら、吐き出すように言葉を続けていく。
「夢に見た場所を先週あたりに見つけたんです。教室の移動の隙間時間に近くを歩き回ってたんですけど、ようやくここだろうっていうのがあったんです…!」
嬉しそうではあったが、どこか影のある表情をしながら藍原さんは微笑む。夢について考えているときの彼女は、いつもこのような顔をする。僕の気のせいかもしれないが、その笑みにぎこちなさのようなものを感じていた。
「じゃあ、ちょっとみんなで見てみようよ! 室内でずっと本読んでるだけだったら、のーみそにカビが生えちゃうしね!」
藍原さんの表情は気になるが、邑兎の言葉は名案だと思い賛同する意味で大きく頷く。僕は元来インドア派ではない。この部に入ってから読書をするようになったぐらいで、その辺を意味なく散歩する方が性に合っている。たまには、何人かいないけれど部員の皆で何処かに行く、というのがあってもいい。
「いいのかい?」
「はい。狭いところですけど、三倉さんや畑中さんにも、見てもらおうと思ってたんです」
一応、藍原さんの夢の中の事情だ。念のため行った僕の確認に彼女は先ほどまでとは違い、力強く頷いた。
ならば、善は急げだ。椅子から立ち上がり、手に握りしめていたスマートフォンをポケットに突っ込む。スリープ状態の画面は何も映すこともなく、周りの景色を反射していた。
彼女の見た夢と、先日に起きた事件。外宇宙からのお告げか、未来を見通す千里眼かわからないが、二つの事象は同じものか。その場所に何があるのかわからないが、少しでもヒントになれば幸いだ。
ドアを開けて部室の外に出る。白く長い床をした廊下が、照明を反射して鈍く輝いている。腕時計が示している時間は丁度15時になるところだった。日が沈むにはまだまだかかる。女性陣が部室から出てきたのを確認し、一階に続く階段をゆっくりと降りていった。
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