夢を泳ぐ鯱 前編
学生の本分というものは、勤学である。
そうは言っても一流大学に通う真面目な学生でもない限り、ほとんどの大学生は日々を惰性のままにのんびりと楽しんで過ごしていく。社会に出るまでのモラトリアムとはよく言ったものだ。
それでも高い入学金を支払い、人によっては親に資金の援助をしてもらったり奨学金で20年近いローンを組み、とにかく学生には多過ぎるほどの金を積んで大学に通う。
幾らモラトリアム、猶予期間といっても怠惰にまみれているとはいえ、留年や大学などで時間を無駄にすることはそれだけ大金をドブに放り投げているということだ。
殆どの四年制大学ではこのようなシステムを採用していると思われるが、決まった時間割というものが存在しないこの陣内大学において自主的な行動ができなかったり、そもそも授業に参加するという意思がないものには単位が出ることなどあり得ないし、単位が出ないということは進級や卒業などの資格を得ることなどないのだ。
つまりは、自身が自主的に選んだカリキュラムを自身の意思を持って参加し通さないと、歳に不相応な借金はどんどん嵩んでいくことを知らない人があまりにも多過ぎる。
決して、学生の本分である勉学を蔑ろにしてゲームや麻雀などに夢中になってはならないのだ。
新入生である藍原さんが時間割をつくるオリエンテーションを受けているときに、そのような話を担当の教授から聞いているだろう。僕も丁度3年前に一九分けの髪型をした社会学の教授からそのようなことを聞いた。
僕自身はもう、卒業に必要な単位はほぼ全て得ているのであとは就職活動と卒業論文を残すのみとなっていた。就職活動はともかく、まずは卒業するために必要な条件である卒業論文だ。あと一年で書き切らなければならず、そもそもなにかテーマを指定してくれれば有り難いのだが『自由』と言われてしまったのでまだ何を書くかすら決まっていないのではあるが。
卒業論文のことはとりあえず後に回しておいて、先日に藍原さんに見ている夢に関して自分自身が調べてみたらどうか、と邑兎が言い、更にはそのサポートを僕がすることになった。
今、僕だけしかいないこの部室の中には沢山の本が本棚に収納されているが、殆どの蔵書が邑兎が個人的に持ってきたオカルト関係のものか、先代以前の部員達が置いていったであろう雑多なものが並んでいる。
正直なところ偏りが物凄いことになっているので、探し物には向かないというのが現状だ。更に皆が乱雑に本や資料を詰め込んでいく為に、ごちゃごちゃになった本棚から本を全て出して確認して、となると流石に骨が折れる。
折角なので整頓をするついでに本棚を物色する。床が抜けるのではないだろうかという量の蔵書を全て開く気は無いので大雑把に背表紙しか見ていなかったが、実際に夢に関する内容と思われる本などやはり一冊も無かった。
環境が変わったばかりでまだまだ余裕がないであろう藍原さんは余裕があったら顔を出せばいいと思いながら、暇を持て余している僕ができることといえば資料を揃えることぐらいだ。どうせ部室にはそのような本がないことが分かっていたので、部室に寄る前に図書室から夢に関連した本を何冊か適当に見繕って借りてきた。
椅子に座り、大雑把に目を通してみたのだが当然と言えばそうなのであるが彼女の見たという予知夢に近いものに関した記述というものはなかなか載っていなかった。
頭の中で微かに邑兎が言っていた『お告げ事件』という言葉が過ぎる。確かあれは夢で見た内容に従って誰かに何らかの危害を加えてしまうような話であったはずだ。
まるで夢の内容に従って動いてしまう、催眠術か高度な心理操作。
催眠術や心理操作に関する資料なら確かこの部室の何処かに置いてあったはずだともう一度本棚を見てみようと椅子から立ち上がろうとした瞬間に、部室の中で唯一外を見渡せる窓の一番近くの椅子、邑兎の指定席の上に数多くの印刷された資料が詰め込まれたクリアファイルが置いてあった。
まさかと思いながらそのクリアファイルに入っている資料に目を通してみると、その中にまさに今僕が求めていたものの一つである心理操作に関する資料を見つけ出す。
思わず周りを見回してしまう。僕の行動を読んでいるとしか思えない。彼女が部室に高精度のカメラでも仕込まれていて、部員の行動を逐一確認しているのではないかと邪推してしまうほどだ。
資料の中には『蒼の鯱』というSNSを通じて造られたコミュニティに関して書かれているものがあった。それは数年前に海外で実際に起こった騒ぎであり、起自己肯定感の少ない少年少女に対して言葉巧みに、この世界に居場所がない事を信じ込ませ追い込んでいく。
その後少なかった自己肯定感を喪失してしまった子供達に『特別な手段で自殺をすれば、異世界で救われる」という絵空事であったり死後の世界の美しさや同じ方法で死んでいった少女への称賛を行うことによりで死の美化を行っていく。
追い詰められた少年少女達はそれらを信じてゲームマスターから伝えられる過激なミッションに参加していくことにより、数十日後には壮絶な死を選択してしまう。最終的には多数の自殺者を出したという馬鹿げたゲームだ。
この国では特別な方法で死んでしまったら異世界に行くような話が矢鱈に長いタイトルのコミックや深夜アニメに乱立していたような気がする。正直なところ、アニメもコミックもまるで強くないのであまり深くは言えないが、このような状況が一部の創作の土壌にしている島国から遠く海を隔てた外国ではこのような社会問題が発生していた過去に、不思議な感情を覚えた。
このような洗脳のような心理操作が睡眠中の脳が作り出したノイズのようなものの中で形作られることなどあり得るのだろうか。
洗脳してまるで誰か会うということが『お告げ』だとでもいうのだろうか。それにしても曖昧すぎる。
クリアファイルの中身は『蒼の鯱』だけではなく僕が産まれる少し前に、地下鉄の中で劇薬を散布したり弁護士の家を襲いかかり幼い子供まで全員惨殺するなどしたカルト教団が行っていた心理操作の方法などが簡潔にまとめられていたが、夢の中での暗示を出し方やその意味というところまでは流石に載っていなかった。
夢の中で誰かに導かれるようなことは、あり得るのだろうか。自分でない意思のようなものが頭の中にあって、それが囁いてくるのだろうか。
頭の中で何か多数の軽いものを踏み潰すような連続した音が微かに聞こえてくる。何処かを歩き回るようなイメージをするが、それ以上は思い出せない。
首を傾げながら机に広げた資料をクリアファイルに戻そうとすると、20センチメートル四方程度の小さな紙切れが資料と資料の間からひらりと落ちる。
椅子を降りて手を伸ばし、空調から流れる風に乗り机の下に舞い降りた紙を拾う。手触りからしてどうやら週刊誌をカットしたもののようだ。紙の質感からして、そこまで古いものではなさそうだ。
手に取ったその週刊誌の切れ端を見てみると、おそらくスポーツ記事の一部。メジャーリーグに挑戦している野球選手が肘の手術に挑戦するというニュースは確か1年ぐらい前の話だった気がする。野球に全く興味がない邑兎はこんな記事を取っておくことないだろう。
当然この裏側に何かがあるのだろう。小さな紙を裏返してみると、更に小さい見出しの記事が書かれていた。どうやら小さなコラムのようなものらしい。
『眠る若者、夢の世界へ』
そう記されたタイトルの文は、投書か記者の書いた記事か。それを窺い知ることはできないが、その記事の一行目には夢と現実の境が曖昧になってきている人が増えてきている、と書いてあった。夢とは拡張現実や仮想現実のこと、つまりネットゲームに対する警鐘か何かかと一瞬考えたが、言葉の通り睡眠時に見る夢のことらしい。今の自分が最も求めているものを見せてくれる夢の世界に入り込む為の方法が存在するとのことであった。
肝心の方法が書いていなかったことに関して小さく歯軋りをしながら、邑兎の行っていたことを認めたくはないが、その記事とお告げ事件、それと藍原さんの見ている夢に何らかの関連性があるのではないかと思い始めていた。それを藍原さんに伝えるべきなのかどうかは、わからない。
思考に耽る僕を撹乱するように、正午を告げる鐘が鳴る。
ほぼ毎日聞いている耳慣れたその音が、なんだかとても不穏な音色に聴こえた。
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