背後で囁く声 前編

 認識した視界はただ深く、ただひたすらに深く霧がかかっていた。 


 頭上で薄ぼんやりと光が差している気がするがその光は霧に吸い込まれてどこか薄暗いうえに、どこに光源があるのかさえもわからない。その深く薄暗いままに視界を陰り続ける霧の中を僕は何も考えることも出来ずに、ただひたすらに歩いていく。


 まるで聖地に赴くために果てしない道を歩き続ける巡礼者のように歩き続けていく。足を踏み下ろす度に層になった薄い黒雲母が砕けるような乾いた音が霧に吸い込まれて消えていくが、それでいて足の裏に伝わる感覚は何かが砕けるような感触などではなく、コンクリートで舗装されたような硬いものであった。この空間の中で音を発しているのは、この炸裂するような乾いた音だけで、僕自身の足音や衣擦れの音や呼吸の音さえも認識する事はできなかった。


 距離も空間の感覚もない。どれ程の距離を歩いても、どれだけの時間をかけて歩いても視界は全く変わることのなく、深い霧だけがこの空間を支配していた。真っ白な闇という例えが相応しい霧に包まれた、コンクリートのような硬さの大地は僅かな先すらも見ることは叶わない。


 1歩、また1歩と足を踏み下ろしていく度に、僕の意識は霧と同化していくようにゆっくりと沈んでいく。歩みを進めていくごとに次第に深い眠りへと誘っていく。徐々に襲いかかってくる途轍もない睡魔に、目蓋の先に鉛でもついているのではないかと錯覚する程に重さを感じた。


 そんな中、僕は沈んでいく意識を手放すことのないように必死で瞼を開け続けることだけを考えながらゆっくりと、ゆっくりと歩いていく。


 何故、どうして、僕は歩みを止めることをしないのだろうか?


 何を求めてこの身体は深い霧の中をひたすらに歩き続けているのだろうか?


 歩き続けた果てに、一体何が待ち受けているのだろうか?


 そんな疑問の数々が頭の中を一瞬だけ微かに過ぎっていくが、その思考は刹那に消え失せて、自分自身の意思とは関係なく僕の足はゆっくりと地面を踏みしめ、足を上げてまた踏みしめていく。 


 ただ、歩いていく。 


 ゆっくりと、歩いていく。 


 不思議と歩き続けることによる関節の痛みや肉体に積もっていく疲労などといった、歩き続けることにあたってマイナスとなり得る要素は歩みを続けていく今の僕に感じることはなかった。


 ならば『どうして歩くのか?』という野暮な思考など、どうでもいいことだ。この身体が言葉を発することがなくても肉体を構成する筋肉が、関節が、骨髄が、神経が『歩け』と言い続けているならば、その肉体を構成している要因の一つでしかない僕の意識はその言葉に従って歩くことに集中していこう。


 今の僕に出来ることといえば、沈んでいく意識をどうにかして保つことぐらいだけだが。 


 歩いていく。 


 真っ直ぐに歩いていく。 


 霧の中を歩いていく。 


 今にも消えそうな蝋燭の火のような意識を消してしまわないように、歩いていく。 


 ひたすらに歩みを続けてきたが、どのくらい歩いたかということなど今の僕には観測する事は出来なかった。そもそも時間という概念がこの空間には存在していないようである。歩き続けて実際にはほんの5分も経っていないのか、それとも逆に何時間も経過しているのか。ずっと同じような道を歩き続けているから感覚が麻痺しているかもしれない。 


 そんな事を考えながら進んでいく。那由他とも思える果てしない距離と時間を歩き続けていうちに、心なしか霧が薄くなった気がした。先程までは数歩程しか見えなかった視界が、いつしかある程度は見えるようになる。それでも僕の足は止まることなく、ペースは変わることなく歩みを続けていく。


 幾ばくか視界が良くなったので目を凝らしてみると、足元はひたすらに黒く舗装されていて艶かしく輝いていた。それを見て僕は黒い大理石で造られたコンクリートを想像する。踏み締めるたびに何かが砕ける音の正体は、真っ黒で薄い落ち葉が粉々に砕ける音であった。踏みしめた瞬間に粉々に砕け散る落ち葉を手に取りたい欲求が芽生えたが、僕の身体はその意思を反映することなく、ひたすらに歩き続けていく。


 先程よりマシになった視界のなか、唯一自由になる眼球を動かすと、周りは闇ではなくひたすら黒い針葉樹がそのコンクリートを突き破って何本も生い茂っているた。幹も、枝も、根も葉も黒い。その針葉樹が大量に生い茂り、自然のトンネルのようなものを作っていた。地面に敷き詰められた落ち葉は、この木々から落ちてきたものだと察する事はあまりにも容易なことであった。


 僕は針葉樹の事などまるで知らないが、これだけは知っている。 


 何もかも黒い針葉樹なんて存在しない。勝手に動き続ける身体に、時間の認識がちぐはぐな一本道、これはやっぱり―― 


「そうだよ。これは夢。君の脳で行われているただの処理活動に過ぎない。PGO波が作り出すただの幻だ」 


 唐突にすぐ後ろから声がする。どこかで聴いた声。懐かしい声。それでも、思い出すことが出来ない声。


 声に後ろを振り向こうとするが、首が動かない。僕の身体は首を動かそうとする意思を反映させることをせずにゆっくりと前に歩き続けていく。 


「夢の存在意義の一つは必要な情報を忘れないようにする為だという話があったね。つまり君は忘れたくないんだよ。■■■の存在を。忘れまいと思いながらゆっくりと忘却への道を辿る君の記憶。それを君自身が許してないのかなぁ。だからこんな夢を見る」 


 僕の身体は前に歩き続けているのに、僕の歩くスピードに合わせているかのように、声は僕の後ろをぴったりと付いてくる。不吉なことを言っている割には、その声は僕に話しかけるという行為を心の底から楽しんでいるような、どこか扇情的な雰囲気を持ちながら声は僕の耳の後ろを離れることなくゆっくりと囁いていく。 


「この夢の世界は出力も入力も行っていない。つまりは知覚だけのノイズの存在しない世界さ。そしてこの知覚、夢の世界は言ってしまえばキミの心情風景だよ。外部情報が無くなると脳は心情風景を外部情報に置き換えて映し出すんだ。つまり、今のキミの脳が描き出した世界が『ここ』なんだよ」 


 耳孔のすぐ近くで囁かれる思い出すことが出来ないけれど、愛おしくもある声を聞く僕の身体は意思に反してただ前へ前へと歩き続けていく。肺も動かず、呼吸もできていないのに、僕の身体は息苦しさすら感じない。 


心臓も動いていないのに―――生きている。 


「脳が創り出すこの世界の中では、そんな些細な現象なんて関係ないさ。筋肉も、肺も、心臓もこの世界では意味を為さない。そう、ここには脳だけに意味/Posibilidades/意義/定義/Definition/定理/法則/möglichkeit/原則/真理/significanceがあるんだよ」 


 脳、か。脳死は肉体が生きているが脳が死ぬ状態だとしたら、今のこの感覚は脳死の逆……のような感じなのか。じゃあどうしてこの声は脳に語りかけることができるのだ。疑問は尽きることはない。


 僕の考えを他所に、その声は話の終わりを唐突に告げる。 


「あぁ、もうこんな時間だ。それじゃあね、賢治。良い朝を。なに、また逢えるさ。君の夢の中でね。あぁ、それと安心していいよ。きっと君は朝になればこんな夢の事なんて覚えていないと思うから。人はどんな夜でも眠れば夢を見る。その過ごした夜の中で覚えている夢の数、時間、感情なんてほんの僅かだ。それすらも起きて暫くすれば忘れてしまうのにね。人間の記憶っていうものはそういう儚いものなのさ」 


 言い残し、声はゆっくりと僕の後ろから遠ざかっていく。その声はどこか悲しげだったけれど、その悲しささえもフェイクと思えるような薄っぺらさというか、無機質さを隠しきれてはいなかった。


 唐突に僕の体の拘束が解ける。慌てて僕は後ろを向いて声の主を見ようと思った瞬間―― 


 耳元の目覚まし時計が電子音を奏で、僕の意識は現実へと引きずり戻された。 

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