第6話

 強い確信を持った口調で岩久間さんは言った。

「本?」

「そう、本」

 そう言って彼女は説明を始めた。

 語学棟には、女子トイレの個室はそれぞれの階に二つずつしかないらしい。

 そして問題の階のトイレの個室二つともめちゃくちゃに切り裂かれた雑誌が突っ込まれていたらしいのだ。しかもその順番が、下に雑誌、その上から複数のトイレット・ペーパーというものだったそうだ。

「何か違和感があったんだよねぇ」

 これでスッキリしたよ、と彼女は笑顔になった。

 実際のところ、犯人の意図は本人にしか分からない事なのだろうが、言われてみればついでの筈の雑誌が先に押し込まれているというのもおかしな話である。便器の中に捨てたのに流れなかったので、その事を隠す為に後から不自然なくらいトイレット・ペーパーを押し込んだ、と考える方が自然だろう。

「それにしてもあの根性はすごいよ。あれだけ細かく本を裂く労力って、ある意味感心するよ。あの雑誌結構分厚いし」

 そう言って岩久間さんが口にした雑誌名を聞いて、俺は愕然とした。

 それって、昨日、保が無くしたと騒いでいた雑誌と同じではないか!

「それって、確かなの?」

「当然。見れば分かるよ。だって私、毎月買っているんだもん」

 ファッションの流行を常にチェックするのは、乙女の嗜みじゃない、と彼女は笑った。

 そ、そういうものなのか?

「まあね、最新号じゃないからね、いらなくなった、って事だとしても趣味が悪いよねぇ」

「え!? 岩久間さん、何月号かまで分かるの?」

「うん。実は表紙のタイトルと何月号かって辺りの所は、ちゃんと破られずに残ってたから。あ! 種明かししちゃったよ」

 ちぇっ、とばかりに舌打ちすると、岩久間さんは笑った。

 何月号なのか尋ねると、確かに保が無くした雑誌の号数とも一致していた。例え保の無くした本で無かったとしても、昨日の今日で同じ雑誌がああいう事になるというのは、偶然にしては出来過ぎている気がする。ほぼ、保の持っていた本とみて間違いないだろう。

 しかし、誰がこの不幸な情報を保に伝えなければならないんだ? ……やっぱり俺か? 俺なのか?

「あ! 新山君、ヤッホー!」

 一人、苦悩している俺の横で、岩久間さんは背後に声を掛けた。つられて俺も振り向くと、フリーズ状態の保の姿があった。

「ん? 新山君、どうかした? 何か元気が無いみたいだけど」

 気遣いをみせる岩久間さんに対して、保は引きつった笑みを浮かべただけだった。

「……たもっちゃん、もしかして今の話、聞いてたりする?」

 それに対し、保は力無く頷いただけだった。

「ど、どの辺から?」

「……必要やと思うトコは全部」

 ポツリと呟いた保の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。

 その時、俺は気付いていなかった。その様子を彼女がじっと見ていた事を……。



     *



 翌日。欠伸を噛み殺しながらの大教室での聴講中、後ろの方の席から女の子達のヒソヒソ声が聞こえて来た。

「ねえねえ、昨日の帰りに岩久間さんが駅のホームから落ちそうになったって本当?」

「らしいよ。膝を擦り剥いたくらいで済んで良かったって言ってたよ」

「あ、それ私も見た。隣にいた人が咄嗟に岩久間さんの腕を掴んでくれなかったら、ヤバかったと思うよ」

「ありゃあ、そりゃ岩久間ちゃんも災難だったねぇ」

 岩久間? 俺の知る限り、岩久間さんなる人物は一人しかいない。

「でも何で倒れたんだろ? 貧血?」

「みたい」

「岩久間さんにしちゃあ、珍しいね」

「だよね。……でもさ、ここだけの話、あれって、誰かに突き落とされたみたいにも見えたんだけどなぁ」

 そりゃ災難だったな、とその時の俺は、他人事のように思っただけだった。

 その日、別の講義で一緒になった岩久間さんに、話のついでにその話を振ってみると、ジーンズの裾を上げて痛々しい包帯を見せるというオプション付きで話された。

「擦り傷よりも、打ち身の方が酷くって」

 彼女はそう言って溜め息を吐いた。湿布って、意外と高いのよ、等と呑気なボヤキまで言ってみせた。

「で、結局のところ本当に貧血だったの?」

 放っておくと何時までも怪我自慢が終わりそうになかったので聞いてみた。すると彼女は一瞬、怯えたように目を見開き、声を潜めた。

「実はさ、ここだけの話、貧血じゃなかったんだ。誰かに押されたんだよ」

「え? マジで?」

「うん。まぁね、助けてくれた人にも『“貧血”大丈夫ですか?』って、聞かれたんだけどさ。でも、誓って言うけど、後ろから押された……気がする」

 何故か語尾が弱くなる。

 でもそれが本当だったとしたら、まずくないか?

「押した犯人は見たの?」

「背中だよ? 見れる訳無いって」

 ご尤も。

「でもね、変なんだよね」

 そう言って眉間に皺を寄せた。

「時間が遅かった事もあるんだけどね、私の並んでた場所にはさ、助けてくれた人しかいなかったんだよね」

 と、言った。

「じゃあ、やっぱり……」

 勘違い?、と俺が言おうとしたのだが、その前に彼女に睨まれた。

「でも絶対間違いなくいたんだって。……声がね、聞こえたの」

「声?」

「そう、声。……あー、今思い出してもムカツクーッ!」

 ムキーッ!、とばかりに岩久間さんが妙な唸り声をあげた。

「『ブス』って言われたんだよ。『ブス』ってさぁー!」

 いやそんなにブスブス連呼しなくてもいいから。

「耳元でさぁ、確かに言われたんだよーっ!」

「助けてくれた人に?」

「んな訳ないでしょう! あんな親切な人になんて失礼な事言うの!」

 ビシッと俺の顔に向かって指を差し、腰に手を当てて言った。

 はいはい、分かったから指を差すな。

「だいたい聞こえた声は女の人の声だったんだよ? 助けてくれたオジサンの訳ないじゃん」

 ……ないじゃんって、今初めて聞いた情報だってぇの。

「だったらその彼女は何処に行ったんだ?」

「それが不思議なんだよねぇ」

 そう言って彼女は再び溜め息を吐いたのだった。



     *



「うぇ!? けけけけけ……」

 それからまた何日かが過ぎたある日、やっと元気が出てきた保が、突然俺の横で奇声を発した。昼休み、昼食を保ととっている最中の事だった。

「何愉快な笑い方をしてやがるんだ? 飯ぐらい落ち着いて食えよ」

 ほら、と学食内をぐるりと見回してみせた。周囲にいる学生達が、男女問わずクスクスと笑っている。けれど保はそんな周りの状況等どうでもいいらしく、ケケケと妙な奇声を上げ続けている。

「おい、ちょっと」

「カタやん、どないしょー!!」

 意識を取り戻したらしい保がこう言って俺に抱き付いてきた時には、お馴染みになりつつある何時もの厄介事が持ち上がったのだろうと、小さく溜め息を吐いた俺がいたのだった。



「で、お前の携帯に俺が電話を掛ければいいんだな?」

 結局、午後一の講義を半ば強制的にサボらせられた俺は、溜め息を吐きつつ自分の携帯を開いた。

 半泣きの保は、うんうんと何度も頷き、期待の眼差しを俺に向けている。今度は携帯電話が無くなったらしい。

 五回目の呼び出し音の後に出た声は、男の、しかも野太い声だった。

『はい?』

「あ、すみません。あなた一体誰ですか?」

 男の第一声の妙な威圧感に、俺の方こそ行き成り妙な質問をしてしまった。

『そう言う君こそ誰?』

「あ、いや、その携帯の持ち主……の友人?」

 テンパっていたらしい。ついつい妙な会話を繰り返してしまう俺。自分で言うのもなんだが、全くもって根性無し。

 そして目の前にいる保が、俺の台詞に笑えばいいのか、文句を言えばいいのか分からないといった表情をみせている。

『で、君の名前は?』

「片瀬ですけど……」

 しまった、と思った時には、もう既に自分の名前を名乗った後だった。

『では、携帯の持ち主のご本人の住所と氏名を教えて貰えますか?』

 丁重な口調だけれど、威圧感的なトーンが無くなった訳じゃない。

 何だ? 何だかヤバいんでないの? 新手の詐欺に引っ掛かりそうになっているんじゃないのか、俺達。

 黙り込む俺に相手は淡々とした口調で続けた。

『警察の者ですが、この携帯電話、落とし物として届けられていますよ』



     *



 次の日、大学に到着した俺の目に飛び込んで来たのは、保が携帯電話片手に男女問わずナンパしている姿だった。

 そんな保を遠巻きに見ていると、背後から軽くタックルをかけられた。思わず、無意識に背後の人間に肘鉄を食らわせ、そのまま身体をずらして背負い投げた……つもりだったが、余りの重さにこちらが潰れただけだった。思いっ切りな無駄骨。

「キンちゃん、重いから」

 アメフト部の巨漢である近藤が、俺の身体の上に載っていた。

「ってー……。カタやん、痛いって」

 近藤は近藤で、俺が鳩尾に入れた肘鉄が痛かったらしく、手で押さえながら立ち上がった。

「俺にタックルをかけようとするからだろうがよ」

「ちょっとした冗談じゃないかぁ」

 等と、ポリポリと頬を掻いて近藤が答えた。

「ったく、キンちゃんのは冗談にならないってぇの! だいたい、いったい何がしたかったんだよ」

 俺が近藤に引っ張り起こされながらぼやくと、奴は保の方を顎でしゃくってみせた。

「新山の奴、災難だったみたいだなぁ」

 俺の質問を軽く聞き流すと、質問が元々そうであったかのように答えた。

「携帯のデータが全部消されてたんだと」

 昨日、一人で警察に行った保が受け取った携帯電話からは、データが全て消されていたのだそうだ。届けられた時には既にその状態だったと警察に言われたらしい。

 そのせいで今日は朝から学内で片っ端から携帯片手に携帯番号やメールアドレスを聞き回っているというのだ。

「なぁ、カタやんよ、お前、携帯のアドレスって、どれくらい入ってるよ?」

 二人して保のナンパぶりを眺めながら、近藤が言った。

「んー? どうだろ? バイト先とか含めても二十あるかなぁ……」

「だよな。……って言うか、女の子のアドレスなんて、おりゃ皆無だぜぇ」

「右に同じく」

「へぇ。新山さんがアド交換してくれてるんだ」

 何だか虚しい空気が俺達二人に漂っていたところへ、そんな声が聞こえて来た。

 振り向くと、二人組の女の子が、華やかなトーンで話しながら歩いて来るところだった。

「あ! 新山さんがいるよ! ミサ、新山さんとお近付きになるチャンスだよ!」

「ええ!? や、わ、私はいいよぉ」

 ミサと呼ばれた彼女は、もじもじしつつも、連れの女の子に押されるようにして保の方へと歩いて行く。

 その様子を見送っていた俺達は、互いに顔を見合わせニヤリと笑うと、彼女等について行ったのだった。

「ちょっと待て。おし、良いぞ」

 近くまで来て聞こえてきた話の内容は、保達が赤外線通信でアドレスの交換をしているらしいって事。

「おっ。来た来た。んじゃ今度は俺な」

「え? 新山、メアド前と同じじゃねぇの?」

「うーん、あんな事があったからな、何や気持ち悪いやん? せやから変えたんやわ。ほんまは電話番号の方も変えたいんやけどなぁ。……と、届いた?」

「おう、ばっちり」

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