第2章 動き出した日常
第5話
『最近、新山の周辺って、物騒じゃねぇか?』
俺の耳にそんな噂話が耳に入って来たのは、ゴールデンウィークが明けた頃だった。
それは保の持ち物が、ちょこちょこと無くなるというほんの些細な出来事から始まった。
「あれ? 俺、今日提出の民法のレポート、どこやったっけ?」
次の講義に備え、大教室に移動して講義の準備をしていた俺の耳に、同じ講義を履修している保の大きな独り言が耳に入ってきた。
「何? お前、昨日先に帰ってわざわざレポート仕上げる、って言ってたのに、もしかしてやってねぇのか?」
俺は呆れたように言った。
俺達が履修している民法――民法総則の講義は、かなり気難しい教授が担当している。ついでに言うと、やたらと課題を出したがる。しかも、その内容までをも丹念に見るという事でも有名で、今から俺のレポートを写したところで、下手をすれば二人とも単位が危ぶまれるという恐怖の講義だった。
事実、前年度に何人かの生徒による不正なレポートの写し合いが発覚した結果、必須課目の一つでもある民法総則を落とした学生が、就職の内定が取れていたにもかかわらず、卒業出来なかった、という話まであるのだ。
「カタやん、すまん! 代返頼むわ! 今からコンピュータ室に行って、もっかいプリントアウトして来るわ」
両手を合わせて拝む保に、呆れながらも鷹揚に頷く。
「早いとこ帰って来いよ」
俺はヒラヒラと掌を振り、足早に教室を出て行く保の後ろ姿を見送った。
講義が始まって半ばが過ぎた頃、遠慮がちに肩を叩かれた。振り返ると、満面の笑みを浮かべた保の姿があった。
「プリントアウト出来たのか?」
ヒソヒソ声で尋ねると、保は笑顔でレポートを掲げてみせた。
講義終了後、教壇にいる教授の元に俺達は荷物とレポートを持ち、提出者の列に並んだ。教授は、レポート提出者の名前と出席簿の名前とを一つ一つテキパキと照合しつつ受け取っている。
俺の前に並んでいた保の番になり、保が意気揚々と教授にレポートを提出すると、それを受け取った教授は眉を顰めた。
「新山君? 新山君のレポートは、確か昼休みに学生課の方に落とし物として届けられていた筈ですが」
驚いた保は、思わず俺を振り返った。
いや、俺じゃないから。
慌てて掌と首を左右に降って否定する。
「まぁ、いいでしょう。折角ですから、こちらも預かっておきましょう」
にこやかにそう言うと、教授は保のレポートを受け取ったのだった。
「にしても、不思議やなぁ」
帰り道、麒翔館大への何時もの道程を歩きながら、保が言った。未だ保の内場さん捜しは続いていた。
「あのレポート、朝一でコンピュータ室でプリントアウトしてから、一回も鞄から出してへん筈やねんけどなぁ」
「まぁ、あんまり気にしなくてもいいんじゃねぇの。実際、ちゃんと届けてくれてたんだし。結果オーライだろ?」
そう言って慰めていると、はたと保が立ち止まった。目的地である麒翔館大まで、後数百メートルという所にまで来ていた時だった。
「ん? どうしたんだ、いったい」
そんな俺の問い掛けにも答えず、保は肩から掛けていた鞄を地面に放り出すと、鞄の中をゴソゴソと探り始めた。
「おい、何してんだよ?」
いくら歩道の上とはいえ、往来で行き成り奇怪な行動に出た保に驚きつつも、それ以上に行き交う人々の視線が気になり、俺は慌てて聞いた。
「無い……無い無い無い無いっ!」
突然大声で叫んだかと思うと、鞄の中身を全て取り出し、鞄の中のみならず、本や辞書、ノートにいたるまでパラパラとめくっては逆さにして振るという動作までをも繰り返した。
「おい。ちょ、ちょっとまずいだろ。こんな所で荷物を広げちゃ」
俺は保が結果的に放り出した荷物を掻き集めると、呆然としたままの保を無理矢理立ち上がらせた。
「……どないしよう」
保は俺の声が聞こえているのかいないのか、微かに聞き取れる音量でポツリと呟いた。
「どうしたんだ?」
保の代わりにしゃがんで鞄に荷物を詰め直しながら、俺は保の顔を見上げた。
「カタやん、どないしょ!」
元通りに詰め直した鞄を保の肩に掛けてやろうとしていると、唐突にガシッと両肩を保に掴まれた。その反動で、掛けようとしていた鞄が、再び地面に投げ出され、中身も少々飛び出した。
……嗚呼。
「俺の……俺の内場さんがぁーっ!!」
半分壊れた保の話を要約するとこうだ。
毎日のように、後生大事に持ち歩いていた内場さんが載っている、例の女性誌が無くなった――というのだ。
「部屋に忘れて来ただけじゃねぇのか?」
ぐずる保を麒翔館大の食堂まで連れて行き、事の次第を聞き出した俺は、そう結論付けた。
「いや、それはないって! だって俺、今朝、電車の中でちゃんと雑誌の中の内場さん見てきたもん」
「“もん”ってなぁ。寝惚けてたんじゃねぇのか? それに昨晩はどうせレポートの仕上げで、寝るのが遅くなったんだろ?」
「そうやけど……」
「それに、だいたい何でんなかさばるモン、毎日持ち歩いてたりするんだよ」
呆れ顔で言う俺に、保はうなだれた。
「だって、内場さんと何時も一緒にいたかったんやもん」
「いたかった、ってお前ねぇ……」
続けて嫌味の一つでも言ってやろうとしていた俺は、感じた事の無い妙な気配を感じた。そっと視線を巡らすと、大学生らしき数人の女の子が、保を気の毒そうに遠巻きに見ている。
そして、その内の一人と目が合った。すると彼女の視線は一転して非難するそれに変わった。
何だよ、感じわりぃなぁ。
そう思いつつ、視線を移すと、また別の一人と目が合った。と同時にやはり先程の女の子と同じく、気の毒そうな視線から、軽く敵意を含んだ非難をするそれに変化したのだった。
そして目の前には、うなだれ半べそをかいている保の姿が。
……成る程、そういう事かよ。
彼女等の目には、俺が保を苛めているようにしか映っていないらしい。冗談じゃない。寧ろ俺の方が保の我が儘に日々付き合わさせられて、迷惑してるってぇの!
ふて腐れて意味無く保の頭を撫でてやっていて、ふと気付いた。
と言う事はあれか? 保はここでも密かなファンを獲得していたという事なのか? チクショウ! 世の中はなんて不公平なんだ!
*
「ったく、面倒臭いなー!」
講義棟の廊下を歩いていると、そんな声が聞こえてきた。
保の――正しくは元カノが忘れていった雑誌が行方不明になった翌日の事だった。
声のする方を見ると、一人の女子学生がトイレの入り口にある貼紙を睨んで悪態を吐いていた。彼女は一頻り悪態を吐くと、すぐ脇にある階段を足早に掛け上がって行った。見ると使用禁止の貼紙が貼られていた。
気の毒にな、等と他人事のように思いながら次の講義が行われる語学教室に入って行くと、何やら女の子達が騒がしい。
「ったく、誰がしたのか知らないけど、他人(ひと)の迷惑、考えてからして欲しいよねぇ」
「いや、それが分かっていたら、始めからしないって」
怒り狂っている女の子の言葉に、岩久間さんは何時ものマイペースな態度を崩さなかった。
「でもいったい何がしたかったんだろうねぇ」
別の女の子が、独り言のように呟く。
「嫌がらせだよ! 嫌がらせ! 決まってるじゃん! ったく、いちいちトイレに行く為だけに上の階に行かなきゃならないんだよ。冗談じゃないってぇの!」
話の内容を纏めると、どうやらただでさえ混雑しがちな語学棟の女子トイレに於いて、この階の女子トイレが故障したのだという。その為、上の階にまで彼女は行かなくてはならなかったらしい。
「でも変だよね。トイレット・ペーパーの予備って、普段あんなにトイレに置いてなくない?」
「ああ、私もそれは思った」
一人ヒートアップしている彼女を除き、数人の女の子達で冷静な推理が繰り広げられる。
「でもさ、気にならない? あの雑誌」
そこへ岩久間さんが口を挟んだ。
「便器にトイレット・ペーパーを突っ込んで詰まらせるのが目的なら、何で雑誌をめちゃくちゃに切って流そうとする必要があるのかなあ」
そう続けた。彼女の話によると、トイレット・ペーパーだけでも、一つの便器に複数押し込まれていたのだという。その上、ある雑誌がビリビリに裂かれてトイレット・ペーパーと一緒に突っ込まれていたとも。その周りには、中に入りきらなかったのか無数の雑誌の紙片が散らばっていたらしい。
「ついでなんじゃない?」
しかし、岩久間さんの疑問は、あっさり流された。
「でもいったい誰の仕業なんだ? 二つあるのに二つとも詰まらせる必要性が分からないよね。犯人を見付けたらタダじゃおかないってぇの!」
未だ怒り冷めやらぬ様子の彼女が唸った。
「ほら、先月もあったじゃない、ゼミ棟の男子トイレの便器が詰まったっていうの。あれと同じ犯人だよ、きっと」
そう言えばそんな事もあったっけな。でもあれとこれとは全く次元の違う話だろう、と俺は思った。
実はそのトイレ事件の際、トイレが現状回復する前にその現場を俺も目撃していたのだ。現場といっても大した事の無い話なんだけれども。
ゼミ棟の中にある男子トイレには、各階に個室が和式と洋式の一つずつしかない。その和式トイレの一つが詰まった。その程度の話。詰まった原因も、トイレット・ペーパーが一つという、何とも可愛らしいものだった。
おそらく悪意など無く、単なるうっかりミスで和式便器の中に落としてしまったそれを、犯人……と言うよりうっかり者は慌てて証拠湮滅を計ろうとしたのだろう。つまりは無理矢理流そうとして、便器を詰まらせたものと思われる。
……まぁ、残念ながら失敗したようだがな。
「話が盛り上がっているところ大変恐縮なんですが、そろそろ講義を始めさせて貰ってもかまいませんか?」
語学の担当講師が何時ものおっとりした口調で話しながら講義室に入って来た所で、この話は自然と打ち切りになった。
しかし、俺にはこの些細な事件がどうにも気になって仕方が無かった。
「あ、岩久間さん。聞きたい事があるんだけど。今、ちょっといいかな?」
昼休み、昼食を済ませた岩久間さん達を喫茶店前で見付けた俺は声を掛けた。
「何? 何か奢ってくれるの?」
「いや、奢らない」
俺の返事に、はっきり声に出して舌打ちするも、彼女は連れだっていた友人達に断りを入れ、素直に俺について来た。
「で、聞きたい事って?」
昼休み明けの講義が同じ者同士、足は自然と次の講義が行われる教室に向かいながら岩久間さんが口を開いた。
「ああ、大した事じゃないんだけどさ……」
俺は今朝の語学棟で聞いたトイレの件について、詳しく聞きたいと言った。
「ああ、うん。いいよ」
気楽な調子で返事をすると彼女は話し出した。内容的には、今朝聞いた話と殆ど変わらないものだった。
「実際にはさ、昨日からあのトイレ、故障中になってたんだよね。知ってた?」
「いや」
早く直して貰わないと困るんだよねぇ、と彼女は溜め息を吐いた。
「でもさ、何か嫌な感じがするんだよね」
漠然となんだけど、と彼女は付け加えた。
「あれってさぁ、単なる悪戯や嫌がらせに思えないんだよね」
「と言うと?」
「うーん、目的は別にあったっていうかさぁ」
言って彼女は考え込んだ。
「あ! 分かった! そうだよ! きっと!」
唐突に、何の脈絡も無く彼女は言った。
「目的は、本にあったんだよ、きっと」
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