先輩は家では比較的穏やかだ。棘のある言葉が飛んでくることもあるけれど、それは怒るよ言うより呆れた様な雰囲気だった。だけど時々、こんな風に熱に浮かされたぐるぐるとした瞳で、縋るように、責めるように見つめられる。。

 その状況が、なんだか強烈に求められているように、有り体に言ってしまえば愛されてるように錯覚して、それが快なのか不快なのかもわからないまま、彼の雰囲気に当てられたようにくらくらする。その頻度は歳を重ねるごとに高くなっていた。ぱっ、と腕を話される。彼はまた溜め息を零した。

「それ、返せ」

「えっ」

 返すよりも先に、私の手にあったジャケットと鞄をするりと奪い取って先輩は階段を上っていた。きっと私は、ぽかんと惚けた顔をしてしまっただろう。先輩は振り返って、いつの間にか持っていた小さな箱をぽいっと、こちらに投げ渡す。宙に弧を描いたそれは、無理に取ろうとせずとも私の手元に落ちてくるから、いつも感心してしまう。

「こ、珈琲用意しておきますね!」

「そんなに大きい声出さなくても聞こえる」

 先輩が浴室に向かっているのを見て、急いで湯を沸かす。自分は飲めない珈琲だが、淹れるのだけはもうとっくに手慣れてしまった。机に置いた小さな箱をひっくり返して、ラベルを見た。やった、チョコレートだ。

 先輩がこうやって、週に何度か一人分のお菓子を買ってくるようになったのは、一緒に暮らすようになってから大体一年くらい経った頃だろうか。しかもその辺りで買えるようなものではなく、ちょっと良いやつだ。

 カラスの行水もかくやと思われるほどの速さで上がってきた先輩に、慌てて珈琲カップを出して、椅子に着く。

 箱を開けて、一つ一つ口に運ぶ。その間、先輩はじっと私の事を見つめてくるので、昔は菓子の味なんて分からなかったが、慣れとは恐ろしいもので、今ではしっかり味わって食べれるようになってしまった。だからといって彼の意図は、分からないままだが。

 やっぱり見つめられていることに慣れたとはいえ、気にならない訳では無い。ちらり、と先輩の方を見ると、当然だが目が合う。

 こうなると先輩から逸らすことは絶対に無い。そしてそうなると私も再び動き出すのに時間がかかる。だからできるだけ自然に、そして目なんて最初からあって無かったかのようにすぐに逸らす。

 このおかしな挙動を食べ終わるまでに三回ほどしたので、何も知らない人が見たらさぞ不審に思うだろう。外に食べに行かずに、家に持帰ってきてくれているのは、私にとってささやかな救いだ。

 とっくに空になっていたであろう珈琲カップは、私が全て食べ終わった後に渡される。相変わらずさっさと席を立って、自室に戻ってしまう彼に慌てて声をかける。

「お、おやすみなさい!」

 もうこの言葉は、彼の機嫌をとるためのものでは無かった。日常に変化したのは、いつからだろう。

「……おやすみ」

 先輩はなんだか少しだけ、珍しく微笑んでいるように見えた。あやふやなそれは、すぐに壊れてしまいそうな、あるかもわからない日常の象徴だった。それが、好きで不安だった。



 もだもだしている内に、期限は刻一刻と近づいて来ている。叔母さんとはあれ以来会っていない。というか見かけても声をかけなかったし、見つからないようにもした。その代わりにか、よくメールをくれるが、それすらなに一つとして返事は出来ていなかった。

 いっそ完全に情報を遮断してしまえば憂いも無くなるかと思ったが、会えない間に一度生まれた欲はどんどん膨れ上がっていった。普通の暮らしがしたい、愛してほしい、愛して、くれるかもしれない。

 捨てることもできないメモの住所を調べると、ここから決して近いとは言えないが、通勤できる手段がないわけではない。うんうんと唸っても答えは出ない。

 ……いっそのこと、家だけは叔母さんのところにお邪魔させてもらって、仕事はやめずに続けようか。私が家から出て行って、彼が多分気にするとしたら、私が居なくなったことで被る不利益、詰まる所私がやるべきだった仕事だ。それなら、何時までも囚われているのは、馬鹿らしいのかもしれない。

 決して綺麗な仕事をしている訳では無いので、叔母さんにさえ危害が及ばない様に気をつければ、大丈夫なはずだ。そもそも、さほど大きな仕事を任されてもいないので、そこまで恨みを買うことも、きっとないだろう。

 それで、大丈夫。もう一つ、こちらは理由は分からないが彼が気にしている、先輩と初めて会った時に交わした、死ぬまで傍にいるという約束だって反故にするつもりはない。ただ傍にいつのに、心は必要ないはずだ。

 ただ、一年ほど経って引っ越した、あの大きな家に彼を置いて行く想像は、なんだか心臓が冷える思いだった。彼は出会う前から一人で過ごしてきたし、出会ってからだって私の出来たことなんて一つもないから、これからもきっと一人で生きていける。

 なのにどうして、ときどき彼は、壊れてしまうのではないかと思うほどに不安定に見えることがあって、すっぱり彼を置いて捨て去ってしまう事は、許されないことではと責められるような不安に襲われる。

 黙って頭を振る。もう決めたことだ、余計なことは忘れてしまおう。しかしそうと決まればさっさと行動に移すべきだろう。

 今日も先輩はいつもの仕事場にはいなかったので、家に帰っていつものように先輩をリビングで待つ。心臓が不自然に嫌な音を立てる。怒られることは覚悟するが、結局先輩と私は他人なのだ。引き留めることはしないだろう。玄関の方から音がして、駆け足で向かう。

「おかえりなさい!」

「……ただいま」

 先輩はこのやり取りとは関係なしに、機嫌が良いようで、少しほっとする。もしすごく機嫌が悪かったら、言い出せなかったかもしれない。

「先輩、すこしお話があるんですけど……」

「なに」

 いつもよりも優しい声だ、私も緊張で高まっていた心音が落ち着いて行く。反対に、優しくされればされるほど、理由のわからない罪悪感が募っていくのだけれど。

「あの、実は、前に会った叔母さんが、一緒に暮らさないかって言ってくれて」

「――は?」

 途端、今まで聞いたことないくらい不機嫌で威圧的な声を出されて、思考がフリーズする。怖いだけじゃなくて、安全な場所だと思っていた家の中で彼がそうなったことが信じられなかった。

「せ、先輩のいいつけを守らずに会ってたことはごめんなさい。でも一回だけなんです!連絡もとってません。家の場所も仕事のことも、先輩の事も伝えてないので、先輩に迷惑がかかることはないはずです」

 先輩はこの状況にそぐわない、作り物だと一目で分かる笑みを作る。あ、やばい、と今までの経験から本能的に理解して、思わず目を瞑る。

「へぇ。それはどうも、わざわざ教えてくれてありがとう。でもさぁ、――気にするのはそこじゃねえだろ!!」

 頬を殴られて尻餅をつく。衝撃は脳に遅れて伝達されて、だんだん頬が熱と痛みを持ち出す。私が目を開けて先輩を見上げるよりも先に、首をつかまれて、強制的に上を向かされる。その勢いで、脳がぐらぐらと揺れる。もう片方の手が喉元に触れられ、力を入れられてはいないはずなのに、何故か気道が閉まってうまく呼吸ができなくなる。

 涙で滲む視界の中でもありありと怒っているのが分かるくらい、先輩の目は吊り上がっていて、額には青筋を立てていた。

「なぁ、いくら馬鹿なお前でも、約束を忘れたわけじゃないよな?まさか、お綺麗な普通の人間に、今更戻れると思ってるわけじゃないよな?なぁ、なんとかいえよ、なぁ、なぁ……」

 声は徐々に小さくなり、先輩は顔を伏せてしまったので本格的に表情は分からない。まだどくどくと音を立ててる心臓のせいで、声が出ない。びっくりした。こんなに怒ったことも、怒っているのにこんな、こんな縋っているような態度を見せられたのは初めてだった。

 何か言わなければ、と思うのに、何も言ってはいけない気もした。宙ぶらりんな私の腕だって、抵抗するためにあるのか、受け入れるためにあるのかも分からない。私はあなたのことを、何も知らないのだ。答えを出す前に、先輩は力が抜けたように首から手を放して、数秒俯いたままだったが、すぐに幽鬼のようにゆらり、とおぼつかない足取りで立ち上がった。

「明日は仕事に来なくて良い、どうせ明日で全部終わるんだ、お前が今何を考えていようが関係ない、俺がわかっていれば問題ない……」

 ぶつぶつと呟きながら、先輩は階段に足を向けて部屋に戻ろうとしている。すっかり抜けてしまった腰のせいで動けない私は、呆然とその背中を見つめることしか出来なかった。

 ふらふらとした先輩は、階段の上からちらり、とこちらをみて、微笑んだ。見たことのない笑みだった。

「おやすみ」

 気の抜けるような優しい声は、返事を必要としていなかった。ぱたり、と閉じた先輩の部屋のドアの音でばたん、と後ろに向かって倒れた。体が火照っているから、床が冷たくて心地よい。

 どうすればよかったんだろう、どこが悪かったんだろう。茹だった思考は廻る。

 そういえば、結局何も言えてなかったことを思い出して、あぁ、約束を破ろうとしたことに怒られたのかもしれない、と思い当たる。今まで先輩のいう事を破ったことなんてなかったから、破ったらどうなるかなんて知らなかったけど、あれがそうだったのだろう。

 だったらちゃんと説明をしなきゃ、でも面と向かって先輩は私の話を聞いてくれるのだろうか。しまった扉をノックする勇気は、数年前から存在しなかった。

 


 ついに期限がやってきた。先輩は仕事に来なくて良いと言ったが、結局いつもの時間に起きてしまった。もう直接言い訳をしている暇はない。鞄からメモと携帯を取り出した。

 叔母さんからもらったものはもう一度確認してから、ごみ箱に捨てた。捨て忘れた方のメモを見ながら、その連絡先に向かって先輩に伝えといてください、と文頭に置いて先輩への謝罪と、仕事はやめるつもりはないので約束は破らないです、と言い訳を並べ立てた。先輩の連絡先を知っていたら楽だったのに。そう思いながら、こちらのメモもごみ箱に捨てた。

 買い与えられたこれは一応持ってはいたが、特に使うことはなかった。持ち歩くように言われたから、そうしていただけ。メールを送信し終わって、携帯はリビングの机の上に置いた。貰ってはいたが使い道のなかったお金も、置いて行こう。きっとお父さんの借金額には到底及ばない。いつか全額返済できるだろうか。

 鍵だけを持って家を出た。本当は未練が残りそうで何も持っていきたくなかったけれど、開けっ放しで出ていくわけにもいかない。仕方なしにポケットに鍵を放り込んで、この町に住み始めて初めて、知らない道のりを歩いた。

 何度も帰ったほうが良いのでは、と頭によぎる。もし怒っている理由が、私の考えていたものでは無かったら?他の何かが逆鱗に触れていたのならば、今度こそ本当に、見切りをつけられるかもしれない。でもやっぱり、普通の暮らしがしたい。親に殴られることが無くて、勝手に家族がいなくなったりしない。そして家族にそんなことをするやつは、きっと地獄に堕ちるんだ。

 悶々としながらも、歩みを進める。そして忙しなく動かしていたをやっと足を止める。目的地に着いたのだ。引っ越すと聞いていたが、それがもったいないほど綺麗で大きな家だ。まるで、最近できたばかりにすら思える。

 扉の横のベルを鳴らす。待ち構えていたかのようにすぐに扉が開いて、目が合った。

「――お前ってほんとうに、馬鹿だよね」

 ぐるぐるとした熱の籠った瞳に捕らえられて、もう一歩も動けない。どうしての一言が喉に張り付いて、口から吐き出すことが出来ない。先輩は笑った、声には嘲りと怒りが滲んでいた。

「変だと思わなかったの?この町で数年暮らして、毎日同じ時間に同じ道を通ってたのに、今になって初めて声をかけられたのも、血がつながっているとはいえ、初対面の人間を同居に誘うのも、親族と縁を切ったはずのお前の親が、それほど親しい身内がいたのに、今まで一度も会ったことがなかったことも」

「な、んで、知ってるんですか」

「――家族なんだから、全部知ってるに決まってるだろ」

 家族?誰と誰が?さも当然のように、男はまた一等優しい顔をしてそんなことを言う。さぁっと、血の気が引く。いつも怒られると頭が熱くなって何も考えられなくなるのに、今日は指の先まで冷え切って、疑問だけが思い浮かんで解決策は何一つ生まれない。

「やっぱり、恐怖だけで閉じ込めるのは、駄目か。他の、俺が拾った奴らは全員、俺がやられたように仕事教えてたら、いつの間にか死んじまったんだよ。みんな、約束してたのに、だから、お前だけだよ、約束を忘れなかったのは、お前だけが、俺を置いて行かなかったんだ」

 骨が軋むほどの力で腕を掴まれる。疑問と痛みで頭がいっぱいになって、ただその眼を見つめる事しかできない。

「今回は許してやるから、もう一度ちゃんと約束しよう。俺を平然と捨てて行ったお前が、殺してやりたいくらい憎いけど、ちゃんとこれからは言う事を聞くっていうなら、もう怒鳴ったりなんてしないから。だから諦めろ」

「い、いたいです、先輩、わたし、逃げたりなんてしませんから」

 やっと出てきた言葉は、もうとっくに彼に聞こえてなんていない。むしろ一層強まった力に、涙が出てくる。独り言のようにぶつぶつと、しかしその眼はずっと私を捉えていた。

「はは、は、俺と同じ、ろくでなしの親に中途半端に育てられたお前が、普通の暮らしなんて出来るわけないだろ。そんな俺たちが、真っ当な愛なんて、生温い暮らしをしてきたやつから、貰えるわけ、ないだろ」

 私の声に反応しなかった先輩が、手の力を緩めて、だらんとたれた。状況に頭が追い付いていなくて唖然としている私とは対照的に、先輩の顔は今にも泣き出しそうに歪んでいたから、これじゃあどっちが怒られているのか分からなかった。

 被害者のような顔をしないでほしかった。いつも縋るような顔をする度に、それに応えたいと思っていたのに、明確な要求をしてこなかったのは、貴方のほうじゃないか。

 そこまで考えてふと、私もそれを言葉にしていなかったことに思い当たる。なるほどたしかに、私たちは似た者同士なのかもしれない。でもそれにもっと早く気づけていたら、きっとこんなことにはなっていなかっただろう。悔やんでいるのか、諦めているのか、それとも先に気づいていた先輩に感心しているのか、どんな感情なのか自分でもよくわからない。

 でもなんだか、すとんと腑に落ちてしまった。多分、このひとは私と一緒でずっと寂しかったのに、その埋め方なんて知らなかったし、今後も理解できることはないのかもしれない。

「なぁ、良いだろ、なぁ。お前の代わりに他人に恨まれるような仕事は全部俺がやってきたし、死んだあとだってお前の分まで地獄で罰を受けたって構わないから、だから、なぁ、生きてる時くらい、俺の傍にいてくれよ、なぁ……」

 歪んでいるのだろうなぁ、と思う。そして先輩も分かってる。でも、しょうがないのだ。だって知らないなら、見様見真似で作るしかない。レシピだって無いし、そもそも材料が足りなかったら失敗することなんて、分かってる。だから私は、私たちの間で生まれたものが愛じゃなかったとしても、受け入れることにした。

 力の抜けた先輩の手をとって、きっと生まれて初めて、笑って見せた。きっとこれも、歪んでいるのだろう。先輩の瞳は相変わらず熱に浮かされていたけど、ようやく本当に目が合った。

「先輩、約束、しましょう?地獄にだって、一緒に堕ちてくれるって」

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