ゆびきった
位月 傘
上
「おまえは本当に、何もできないね」
不気味なほどに穏やかな声で囁かれた後は、嵐の様に怒鳴られる。いつものことのはずなのに、いつまでたっても慣れないのはどうしてだろう。大人になるにつれて、逃げ場なんて無いのだと理解するようになったからだろうか。
ただ嵐を過ぎ去るのを待つだけの頭の中は真っ白で、彼の言葉なんて一つもまともに入ってきてやしないのに、謝罪の言葉は無意識に零れるようになってまった。
今日も今日とて独りでは到底処理できない仕事を先輩に押し付けられ、友人のひとりだっていない私に縋ることの出来る相手は、その先輩しかいなかった。そうでなくとも先輩には頭が上がらないというのに、何年たっても私は役立たずのでくの坊だ。
先輩と会ったのは、突然消えてしまった父の手紙と私自身だけが残った家に、先輩が借金を取り立てに来たのが最初だ。このときだけは、先輩は優しい声を出しても、次の瞬間に手を出したり怒ったりすることはなかった。
「俺と死ぬまで一緒に居るのと、このあとすぐに死ぬの、どっちがいい?」
当時中学生だった子供に向ける話し方にしては幼くて、でもそれに対して馬鹿にしているのかと憤れるような話の内容ではなかった。既に親族と縁を切っていた両親の下で生まれたのだから、当然身寄りなどなかったし、親の後をすぐに追えるような孝行な娘ではなかったので、まだこの時は優しかった男について行くことにした。まぁそのあとすぐに仕事を手伝わされて、こんなに怒られたことはないってくらいに怒られたのだけれど。
こんなところ来なきゃ良かったと思わないことがない訳ではないけれど、世に絶望して自死できるような勇気を持ち合わせてはいない。なによりいくら恐ろしかったとしても借金の返済をしてくれて、身寄りのない私に仕事と家を与えてくれた先輩のことが嫌いになることは出来なかった。もちろん憎さはなくても、恐ろしさは今もなお募り続けているが。
なんでこんな面倒な境遇な子供を拾ったのか聞いたことは無い。もしかしたら、気弱さが姿に滲んでいるような子供だったから、絶対に自分には逆らわないと思われて、召使いか何かにでもしようと考えたのだろうか。それにしても、家の中で雑用なんかをさせられたことはないので、違うだろう。
しかしこちらがいくら憎からず思っていようとも、きっと彼は私の事が嫌いなのだと思う。もしくはここまで目をかけたのに、全然成長しないから呆れているのかもしれない。
もうとっくに同じ時期にこの職に就いた人は、新人を教育する立場でもある先輩のいるこの部署から離れて、別のところに引き抜かれている。というのに、私はいつまでたっても先輩の下で働き続けている。
同期の中でも私は一番幼くて、いっそ異質だったので先輩以外の人達と一緒に仕事をさせてもらったことはない。なので正確なことはわからないが、きっと私の仕事の出来は悪いのだろう。溜め息が漏れた。さっさと帰って、今日は何が悪かったのか反省して、寝てしまおう。そう考えながら重い脚を動かしていると、帰路の途中にある繁華街で声をかけられた。見覚えのない、丁度生きていたら母と同じくらいであろう年齢の女性だ。
「あなた、――っていう名前に聞き覚えはない?」
「え、と。母の名前ですけど、あなたは?」
女はパッと顔を綻ばせた。そしてすぐにこう言った。わたしあなたのお母さんの妹なのよ、って。女はストッパーが外れた機械の様に大量の問を投げかける。お母さんは元気?いま貴方はいくつなの?どこで暮らしているの?
一方で私は目を回しながらも、ひとつひとつ答えを返していった。ただ自分が真っ当ではない会社に勤めていることと、その会社の人に引き取られたという事はぼかした。
いくら知り合ったばかりの人とは言えど、家族に繋がるものを私は放したくなかった。もしそんな仕事ををしていると知ったら、きっと離れて行ってしまう。それだけは避けたかった。もしかしたら、私にも家族が、気の置ける人ができるかもしれない。その可能性を潰したくなかった。
母と仲の良い姉妹だったらしい彼女は、ひどくこちらを気にかけてくれたらしい。また明日会う約束を取り付けて、連絡先も交換することができた。少し話し込んでしまって家に帰るのが遅くなってしまうことだけが気がかりだが、それ以上に足取りは軽かった。
ドアノブを回して引く、が、鍵が開いていることに気づいて、手に汗をかく。いつもより帰るのが遅かったからと言っても、普段だったら先輩はまだ帰ってきていない時間だ。壁にもたれかかるように立っている先輩が視界に入って、声は不自然に裏返る。
「せっ……んぱい、今日は、お早いですね?」
「は?なに?早く帰ってきちゃいけないとでも?そんなことよりお前は仕事のひとつもまともにできないのに、何処ほっつき歩いてたわけ?」
相変わらず口は悪いし、苛々もしてるけれど、すっごく怒ってるわけではないようだ。言葉を選びながら、慎重に口を開く。
「帰りが遅くなったのも、いつも迷惑かけてるのもごめんなさい。帰り道で、母の妹だっていう人と会って、それでお話したんです」
「まさか、また会おうとしてるんじゃないよね?」
「えっ、だめですか?」
「……はぁ。もしかしてと思って聞いたけど、お前って本当に危機管理能力がないよね。こんな仕事について、いくらでも恨みを買っているっていうのに、一般人と関わるつもり?それにそもそも、お前を捨てて死んだ奴の家族なんて、どうせろくな奴じゃない」
「で、でも……。あぁ、いや、そう、ですよね、ごめんなさい」
「わかったならもう寝ろ。明日もまた同じような失敗したら、今度こそぶっ殺すぞ」
わかりました、とだけ告げて足早に部屋に戻る。どうにか怒られずに、というか逆鱗に触れることなく会話を終わらせられた。いくら家の中だと仕事場でよりも怒らないからと言っても、絶対に怒鳴ってくることがないというわけではない。嫌な汗をかいてしまったので、さっさと風呂に入って寝てしまおう。
少し深呼吸をして、心を落ち着かせる。大丈夫、だって怒鳴られたりしたわけじゃない。自室のドアを開けて廊下を向いて、どうしてかまだ廊下にいた先輩と目が合って、硬直する。
先輩も何も言わずにただこちらをじっと見つめているので、慌てて言葉を探す。しかし特に最適解は見つかることなく、沈黙に耐え切れなかった私は喉は無意識に手を出した。
「お。おやすみなさい……?」
「……おやすみ」
絶対溜め息の一つは零されると思ったのに、それだけ言うと先ほどまであれほど放さなかった視線をふっとそらして、先輩は自室に戻ってしまった。なんだったのだろう。とりあえず、怒られなくて、よかったぁ。
「てめぇは何時になったらまともに仕事の一つもこなせる様になんだ!! 」
また仕事のことで怒鳴られた。でも今日は不自然に優しい声を出してからではなくて、突然怒られたから昨日よりもましな失敗だったのだろう。
そのことも相まってか、少し、いやかなり迷ったが、待ち合わせ場所に向かうことにした。たとえ一言でも良いから話したかった。いや、できることなら家族としての情を向けて欲しかった。
待ち合わせ場所に着くと、すぐに彼女はやってきて、少しだけお互いの今までの話をした。あまり遅くなると、同居人に怒られてしまうので、とあらかじめ告げていたからか、彼女は早々に会話を切り上げ真剣な表情を作る。
「ねぇ、もしよかったら、うちで一緒に暮らさない?もうすぐこの町からは引っ越してしまうんだけどそこで。私も一人暮らしだし、あなたさえよければ」
「それは――。少しだけ、考えさせてもらっても良いですか?」
はい、と言ってしまいたかった気持ちが無かったわけではない。それでも昨日の言葉と、ずっとお世話になっていた彼を、あの大きな家に一人で置いて行くのは、少し薄情なのではないかと頭によぎった。どちらにせよ、今すぐに決められることではない。
期待感と不安感に支配された胸は、ふわふわとして足取りがおぼつかない。もし、あの人の家に行ったら、普通の家族みたいに愛してもらえるだろうか。仕事をやめることは難しいだろうが、少しだけでも、普通の人みたいに暮らせるだろうか。もう先輩に迷惑をかけて、怒られることは無くなるだろうか。
ぐるぐるとまわり続ける思考は止まらなくて、多分機械だったら触れる事すら難しいくらい熱くなっていただろう。けれどいつまでも考えていることは出来ない。彼女と共に暮らすにしても、暮らさないにしても、期限はあまり長くはない。彼女の今の家の住所と日時、その下にもし一緒に来てくれるなら、この日にここに来てください、と書いてあるメモをポケットの中で握り締める。
今日は昨日とは違って、普段と変わらない時間に帰宅できた。先輩はまだ帰ってきていない。
すぐに部屋に戻って荷物を置く。くしゃくしゃになったメモを取り出して、手で伸ばしてなんとなく眺める。しかし玄関の扉が開く音がして、鞄の中に慌てて仕舞った。私はこれが、やましいことだと思っているのだろうか。
いや、本当はわかっている。これは悪い事だ。だって先輩の言う事は絶対だ。先輩のいいつけを守らないのは初めてだから、もしこれがバレてしまったらどうなるのだろうと身を震わせる。
悪い事だと分かっている。でも、どうしてもこのメモを捨てられない。だってもしごみ箱からこのメモが先輩に見つかったら、怒られるかもしれないし、と誰にでもなく言い訳をする。
だってだってと、まだ大人になり切れていない私は言い訳を続ける。何時まで経ってもお世話になっているのは迷惑だし、こんな子供拾わなければよかったと思ってるに違いないし、私だって、普通に暮らして、愛されてみたい、し。
こんなことを考える時点で、心がどちらに傾いているかなんて分かり切っているけれど、それでも、やっぱり先輩のことを嫌いになりきれていない心が邪魔をする。恩人に対する感謝と、次第に大きくなって、やり過ごし方を覚えた恐怖心によって生まれた、諦めと防衛本能からだろうか。
好きだというにはこの感情は曖昧だ。もしかしたら心の奥底では憎んでいるのかもしれない。それでも無関心にはなれないし、どうしても先輩の事を気にかけてしまう。だがその感情だけで留まる決意を固めるには、私たちの間には何もなさ過ぎた。
相手から向けられるものが、何もないのは恐ろしい。でもだからって、怒られる方がマシという被虐趣味は持ち合わせていない。中途半端に育った常識のせいで、どうにも感情はままならない。
リビングに降りて、先輩の帰りを待つ。前に、帰ってきた所にたまたま出くわして、おかえりなさい、と言ってみたら、なんだかその日と次の日はいつもよりちょっとだけ機嫌が良かったから、少しだけ待ってみるようにしている。
とはいえ彼は忙しいのか帰宅しないことが多い。いつも目の下に大きな隈を作っているせいで、一般的に整っている部類に入るであろうその顔は、元来存在する美しさよりも、不気味さの方が先に来てしまう。
確かに膨大な仕事量をこなしているのを知っているので、ただでさえ人手の少ない仕事で、満足に仕事をこなさない私にイライラするのも仕方がない、と分かっているのも彼の事を嫌いになれない要因の一つだ。
いつか私が一人前になったら、よくやったなんて笑ってくれるんじゃないかと夢を見る。彼が、多分ほんとうの意味で楽しそうに笑っていた事なんて、片手で足りるほどしか見たことがない。その一つが先ほど述べた、初めて出迎えをした時だった。それと、本当に初めて会った時に、彼についていくと言った時。
ごく小さなものだからもしかしたら見間違えだったのかもしれない。それども思い返してみれば、やっぱりその時後少しだけ機嫌が良くて優しかったから、淡い期待はそのままにしている。
がた、と玄関の扉が開く音がする。いつのまにか脱線していた思考の海から急速に打ち上げられたと同時に、思い切り椅子をひいて立ち上がり早歩きで音のした方へ向かった。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
そういって鞄と上着を押し付けられる。でも先輩の部屋に入ることは許されていないので、ジャケットをハンガーにかけて部屋の前で先輩が戻ってくるのを待つ。私も鍛えているし、そもそも子供から大人へほどではないが成長したのに、渡される鞄の重さが昔から変わらないのは、彼が忙しくなったからだろうか。
彼は意外と、かなり意外と、家族みたいなことを好むのかもしれない。だからもしかしたらという希望を持ってしまう。家族に、なれるのかもしれない。
それが来る日が分からないのに待ち続けることが嫌な訳では無い。ただ突然目の前に甘い餌が置かれて、どうすればいいか迷っている。
愛か憎、どちらかを100パーセントの感情でぶつけられていれば、もう少し迷いなく決められたのだが。如何せん私たちの、主に私の周りには人が少なすぎて、どうでもいい相手に、気のある相手に、先輩はどう関わるのか知らないのだ。
階段を上ってきた先輩を眺めながら、あ、今日は特に疲れてるなーとか、どうでも良いようでわりと大事なことを考える。うっかり無神経に逆鱗にでも触れてしまったら、それこそ殺されかねない。無言でジャケットのかかったハンガーと鞄を手渡して頭を下げる。
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
さっさと挨拶をしてしまえば、彼は家ではあんまりひどいことを言わない。だから先手を打って声をかければ、いつも顔に似合わない優しい返事がされる。そそくさと自分の部屋に戻って、鞄の中に入れたメモを取り出して、また眺めた。意図せず、ため息が零れた。
今日もいつも通りの時間に一人で仕事場に向かう。先輩は夜中の仕事もしているが、私はもっぱら朝から夕方にかけてしか働かない。というか、先輩にずっと居られると邪魔だ、と言われる。だから、いつも仕事に出る時も、それから帰る時も、家は同じだが道中は一人だ。
仕事についてもいつも通り、と言いたかったが、珍しく先輩がいつもの部屋にはいなかった。不思議に思いながらも、先輩自身が不在の時は、いつもよりも与えられる仕事の量が少ないので少しほっとした。先輩いわく、自分のいないところで取り返しのつかない失敗をされても困る、とのことだ。理由に納得したし、何よりとんでもないポカでもやらかさない限り、怒られることのないだろう仕事量はありがたい。
こつこつと薄い壁の向こう側から音がする。先輩が戻ってきたのだろうか、と思って扉の方へ顔を向ける。無遠慮に開かれた扉から出てきたのは、私とは違い、見ためからして堅気の人間ではないと分かる男だ。
彼はきょろきょろと部屋を見渡して、目が合った。慌ててそちらに向かう。男は見た目に反して人好きのする笑みを見せた。
「すみません、先輩は今いらっしゃらなくて」
「あー、そうか。それにしても、そうか、あんたがあいつのお気に入りか」
「……?あの、それはどういう……?」
「こんなとこに閉じ込められて働くのしんどいだろう?どうだ?もしあいつにもううんざりしてるってんなら、俺のとこに――」
「邪魔、相変わらずでかいだけで脳がないの?入口で立ち止まるな。お前も、こんなやつと暢気にお喋りしてる余裕があるなら、とっくに仕事は終わったんだよなぁ?」
前半は彼に、後半は私に向けて不機嫌さを隠さずに告げたのは、もちろん先輩だった。ごめんなさい、というよりも先に、目の前の男がひるむ様子も無く、自身の背後にいる先輩の方を向いて、世間話のような気やすさで話しかける。
「おいおい、男の嫉妬は見苦しいぞ」
「は?その無駄にでかい頭は空っぽか?用がないならさっさと失せろ」
「客人に茶くらい出す余裕は持てよ。そんなんじゃいよいよ愛想つかされちまうぞ」
「わ、私、お茶淹れてきますか?」
いよいよいたたまれなくなってつい声をかける。とにかくこの場を離れたくて、もっと言えば先輩に、そんなことより仕事に戻れ、と言ってほしかった。しかしこの見知らぬ男性は、後ずさろうとした腕を掴んで引き寄せる。びっくりして思わずよろけてしまったので、されるがままにそちらに体が傾く。
「茶はいいからよ、ちょっとここにいてくれや」
「えっ、はいっ!」
今まで見たことないような鬼の形相で、先輩は唸るように言葉を発する。いつも怒られているときは、ただじっと待っているだけなのでどうすれば良いか分からないし。そもそも腕をがっしりと掴まれているので何もできない。今回の事で私が得たものと言えば、先輩は優しい声を出してからじゃなくても、同じくらいの怒り方が出来るということが分かったくらいだ。なにも嬉しくない。
何とはなしに掴まれた腕をたどって男の顔を見る。呆れた様な、でもちょっと楽しそうな顔は先輩を見つめている。
「――お前、その腕使い物にならないようにされたいの?」
「なんだ、やっぱりこの子が噂のお気に入りなんじゃねえか」
「お前らみたいな下劣な奴らが、二度と俺のことなんて口にするな」
「なに言ってんだあんた、こんなところで働いてるやつは皆クズだろうに。あぁ、ははぁ、だからここに閉じ込めてたわけか」
あんまりにも突然の事だから、やっぱり何を言っているのかよくわからない。先輩の苛ついた声で、頭が回らなくなってしまうのもあった。先輩の顔を窺うと、何故か思い切り目が合う。観察するような双眸に、目をそらすこともできずに硬直する。きっと蛇に睨まれた蛙はこんな気分だ。そのあとすぐに腕をぱっと放されて、金縛りが解ける。
「いやぁ、面白いもん見れたよ。ありがとな、嬢ちゃん。こいつから離れたくなったら連絡しな」
「え、あ、はぁ、どうも……?」
男は部屋に入ろうとしてきた時と変わらない笑みで、それだけ言うとさっさと出て行ってしまった。最悪な空気だけが残された空間でやっぱり先輩の顔色を覗う。しかし先輩は溜め息を一つ吐くと、何事も無かったかのような顔で早く仕事に戻れ、とだけ言ってまた出て行ってしまった。
いったい何だったのだろう。深い思考に陥りそうになって頭をぶんぶんと左右に振る。いくら気になることがあると言ったって仕事中だ。注意力散漫で取り組めばどうなるかなんて分かり切っている。そしてもし失敗したら、どうなるかも。
ひとまず今の事は頭の隅に追いやって、その日の分の仕事を終わらせることが出来た。
結局先輩は戻ってくることがなかったので、仕事が終わったらそのまま帰路についた。やっぱり家に帰っても先輩はいない。もしかしたら今日一日、もしかしたら日付が変わることまで忙しいのかもしれない。
自分のジャケットを脱いごうとしたところで、ジャケットのポケットにメモが入っていることに気づく。なんだろうと開くと、書きなぐられたような連絡先がひとつ。もしかしなくても、先輩の神経を逆なでしまくっていたあの人だろう。
なんとなく捨てるのも気が引けて、叔母さんからもらったメモと同じ場所にしまう。もし先輩にこんなものを隠し持っているのがバレたら、怒られるだろうか。だがやはり、もしごみ箱に入れてるのを見つかったら、貰ったこと自体を怒られる可能性があるので、先輩に見つからない様に持っておく以外に選択肢はない。明日の仕事の帰り道ででも、ごみ箱を見つけたら破いて捨ててしまおう。
玄関からまた音が聞こえて駆け足で向かう。顔を見ると、いつもより機嫌が悪いことが分かって、もしかしてメモのこととか、それから叔母さんと会ったこととかがバレたのかと、ドキリと心臓が嫌な音を立てる。
「お、おかえりなさい」
「……はぁ。ただいま」
いつもと変わらずに鞄と上着を渡されるので、その場から逃げるように階段を上ろうとするが、私の身体は意志と反して後ろに傾く。デジャブだ。腕を掴まれて、乱暴に引っ張られる。特に抱きとめられる、とかそういうことは無いのでなんとか踏ん張って転ばずに済んだ。多分転んでも腕を話されることは無いので頭を打つことは無いと思うが、まぁ、無様を晒さずに済んだのでよかった。
「あ、あの、どうしました?まさか今日の仕事で、何か間違いでもありましたでしょうか…?」
「違う、あの馬鹿と話してただろ。なんか余計なこと聞いたりしてないよな」
「いえ、すぐに先輩が来たので特には」
そこまで言ったところで、ふとあのメモが頭によぎる。でもあれは聞かれたことじゃないし、わざわざ言わなくても嘘にはならないだろう。不自然に視線が揺れたことに気づいたのか、先輩は訝し気な、探るような目をする。こういう顔をされると、全て見透かされているみたいで、心臓がすっと冷えていくような気持になって、呼吸がしづらくなる。
「そうか」
瞳と同じくらい怪訝な声だったけれど、取り敢えずは納得してくれたようだ。ほっと安心したが表情に出さないように口元を引き締める。それでも依然として腕は掴まれたままなので、まだ何かあるのかと掴まれた腕と先輩の顔を交互に見ながら、声には出さずに問いかける。
「なぁ、初めて会った時のこと、ちゃんと覚えてるよな」
言葉だけなら問いかけるようなものだったが、実際には確認と、それ以上に憶えていないことは許されないという恐喝の響きがあった。一瞬気圧されたのと、掴まれた腕の骨がギリギリと悲鳴を上げだしたことに呆気に取られて言葉に詰まってしまったが、すぐに、いっそ反射の様に返事をした。
「もちろん、覚えてます」
何がもちろんなのかは自分でもよく分からなかった。彼が珍しくあのときだけは優しかったからなのか、それともあの日がいわゆる人生のターニングポイントというものだったのか、はたまた彼の何かに惹かれるところがあったのか。いくら考えたってわからない。でもきっとあの日の、あの瞬間を、私は一生、大事にして生きるのだろうと思う。
「俺はずっと、覚えてるよ」
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