4. 贖罪
「え、瑞希ちゃん落としたの?」
事態を理解したりっこが弾かれたように立ち上がる。
「ごめん、お花落としちゃった」
私は慌てて翔太を見る。彼の表情はあまりにも複雑だった。私にさえ読み切れないほどに。怒っても驚いてもいなかった。私を見る視線は心臓を一突きにしそうなほど鋭利なのに、それは私を責めてはいなかった。悲しいとも違う、私の知っている言葉で一番近いとしたら、それは「諦め」の表情だった。
「大丈夫茅原さん?もしかしてアルコールで悪酔いしたかな」
東堂君が心配してくれる。
「ううん、そういうわけじゃないの。ただちょっと手が滑っちゃって。ほんとごめんね、せっかく飾ってくれたのに」
「いや、花はどうでもいいんだ」
りっこが私に駆け寄る。その音にかき消されそうなほどぼそりと、でも翔太ははっきりとそう呟いた。私は聞こえないふりをした。
「やっぱり窓、閉めておこうか」
翔太は私の横をすり抜けながら、さっき全開にした窓をまたゆっくりと閉めた。
「えっと新曲だったね。ちょっと待ってね、今かけるから」
そう言って席に戻る彼の横顔を、私はもう見なかった。
それから一時間ほど喋っていただろうか。そろそろお開きに、というっ時間だった。きちんと片づけをしていくと言った三人の申し出を翔太は固辞し、結局そのままでお暇することになった。ポストの角で東堂君と別れ、私とりっこは同じ方へ歩いた。
「大丈夫?」
川を渡りきったところでりっこが聞いた。
「うん。大丈夫」
「瑞希ちゃん、ずっと居心地悪そうだったもんね。上の空だったというか」
「やっぱりバレてたか。ごめん、気を遣わせちゃったね」
「ううん、そういうことじゃないの。ごめん、やっぱり四人で集まろうとか、余計なお世話だったかな。お花落としたのを見て、よっぽどあそこにいるのきつかったのかなって思って」
「まさか!そんなことないよ。……でも、もう少し上手く振舞えるかなって思ってたから、ちょっとね」
嘘じゃなかった。
「でももうこれで最後だから」
私がそう言うとりっこは悲しそうな顔をした。最後だから。それはつまりもう二度と会わないということ。私が言わずに済ませた部分を、りっこはちゃんと汲んでくれたのだろう。それ以上もう何も言わなかった。
来た時のバス停の前に来る。
「りっこはバスで帰るの?」
「うん。瑞希ちゃんもだよね?」
「ごめん、私やっぱり歩いて帰るよ」
数秒の間が空いてから、りっこは黙ってうなずいた。
「じゃあまたねりっこ。こっちに帰った時にはまたお茶しよ」
「うん、いいお店探しとくね」
努めて明るく手を振って見せる。折角のりっこの好意を台無しにした私はどうしようもない人間だと思う。でもそれは言わない。本当はそのままバス停を通り過ぎて歩き続けるべきなのだけど、そうすると後からバスに乗ったりっこに再度追い抜かされることになる。それが嫌だというそれだけの理由で、私は来た道を引き返した。そんな矛盾だらけの嘘を、りっこは追及しないでくれた。宵闇に身を消しながら、私はあの小さな橋のたもとにたどり着いた。
欄干にもたれながら川面を覗くと、流れの途中の小岩の陰に白い花が引っ掛かっていた。多分さっき私が落とした花の一つだ。
「これで良かったんだ」
そう呟いた瞬間、初めて涙がこぼれた。
翔太が大学を辞めるまで付き合っていた、とりっこは言った。正確に言うとそれは間違いだ。翔太が大学を辞める、その二週間前まで、だ。たった二週間だけど、その差は私たちにとって決定的だった。ただでさえ人に頼ろうとしない翔太が、自分の父の病のせいで大学を続けられなくなり、弟の将来のためにも自分が働かなければならない状況に陥ったとしたら、それを絶対に打ち明けるはずはなかった。すべてを自分一人で背負ったまま、自分だけが悪者になって去るに決まっている。そんな彼のことも分かっていたはずなのに、それも含めて全部を好きになると決めたはずだったのに。
大学を辞める二週間前、翔太は私に別れを切り出した。君のことは好きだけどこれ以上一緒にいたらお互いにとって良くない。翔太の言葉に納得なんか出来なかった私は理由を聞きたがった。そんな私に、翔太は他に好きな人が出来たと言った。瑞希よりも好きな人だ、と。
私は未練がましい女だったと思う。その数日後に、最後にもう一度だけ会いたいと言って翔太を呼び出した。そして最後のプレゼントを渡した。精一杯の強がりと嫌がらせと復讐を込めて。
そしてそれから一週間ほどして、彼はいなくなった。言わなかった本当のことは全部東堂君に後から聞いたことだった。そして東堂君は、これは言うべきじゃないのかもしれないけれど、と逡巡しつつ教えてくれた。「一番大切な人を傷つけた」と言っていたことを。ようやく私は、あれが翔太の優しくて残酷な嘘だったのだと気づいた。それ以来今日まで、私は翔太と連絡すらしていなかった。
そんなに追い詰められていた彼に、私が渡したのは花束だった。そしてこう伝えたのだ。「この花が枯れるまでは、私のことを忘れないで」と。それがあのプリザーブドフラワーだった。枯れない花を贈ったのだ。でも私は、あれがプリザーブドフラワーだと知らなかった。ただの造花だと思っていた。りっこに言われて、あれが丁寧に保存しなければ一年足らずしか持たないことを初めて知った。そしてあの花束は、五年以上たった今日でも本物と思えるほど綺麗に保存されていた。それがどういう意味かは痛いほどわかった。
あのとき、私はもうこれで十分だと思ったのだ。あんなに未練がましい仕返しをしたのに、本当に支えてあげなきゃいけない時に何一つ出来ない彼女だったのに、そんな私からの花を何年も大事にしてくれたこと。それだけでもう十分だと。だからもう呪縛から解放されて、新しい人生を歩んでねと。下手な芝居で花を捨ててしまうぐらいしか思いつかなかった私は、本当に不器用でどうしようもない。
水音だけが響くばかりで本当に静かだった。あまりに静かだったから、私が泣く声さえ許されないような気持ちになる。歪む視界の中で、小岩に留まっていた白い花が水の中に沈んで流れていくのが見えた。私は「さよなら」と小さく呟いていた。
* * *
突然、ポケットの中でスマホが震えた。次々零れてくる涙を拭いながら、スマホの画面を確認する。翔太からの着信だった。心臓が止まる。恐る恐る震える指で応答ボタンを押した。
「……もしもし」
沈黙にこらえきれず、ぐずぐずになった声で私は聞いた。
「……ごめん」
翔太の声だった。大好きだった声が、何度だって耳元で囁いてくれた声が、別れてからもずっと聞きたかった声が、何よりも特別に響く。
「俺、瑞希のこと傷つけた。何にも見えてなくて、自分のことしか考えられなくて。ずっと謝りたかったんだ」
ぽつりぽつりと噛み締めるようにそう言う翔太に、私は泣くばかりで何も答えられない。
「なあ瑞希」
「うん」
やっとの思いでそれだけ答える。翔太は少し言い淀んでから
「もう少し話さないか。謝りたいことも伝えたいことも、たくさんあるんだ」
「うん」
私こそ伝えたいことがあった。何年分もの言えなかったことを翔太に話したかった。翔太から聞きたい話がたくさんあった。
「迎えに行くよ」
「待ってる」
橋のところにいると伝えて電話を切る。こんな顔で会ったら翔太が困ってしまうだろう。慌てて涙を拭うけれどちっとも止まってくれない。
美しい瞬間のまま花の時を止めるプリザーブドフラワー。あの日楔のように打ち込まれ、止まったままだった二人の時間がゆっくりと動き始める。
【終】
プリザーブドフラワーは枯れない シャルロット @charlotte5338
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