第6話 宙

「―――大変なの!おばあちゃんが、家にいないの!」

荒い息が受話器越しに伝わる。風のノイズが入り込んでいる。

「おばあちゃん、おばあちゃんが…」電話越しに伝播する不安。

「落ち着け。まず、いつからいない?」

「わからない。買い物行って、帰ってきたらもういなくて。それで、それで…」

「交番には?」

「近くは全部行った!でも、おばあちゃんどころか、見た人もいなかった!」

「他の人には?」

「こんな時間、誰にも連絡できない。もう先輩しかいないの、お願い…」

細る声。その声からは、後悔、葛藤がにじみ出ていた。

「…わかった、電話を切らずにそのままに。今どこだ?」

「えっと、ここ」

現在地がメッセージアプリで送られてくる。そこは久乃の家からかなり離れた路傍だった。

「わかった」

最低限だけ手に持ち、階段を駆け下りる。

「あれぇ…お兄ちゃん…どうしたの…?」茅が寝ぼけて尋ねる。

「ごめん、ちょっと外出てくる」

「はぁい…いってらっしゃぁい…」

鍵を締め、自転車に飛び乗る。地球に関して太陽と対極にある月が明るい夜。坂道を立ち漕ぎで登り切る。間髪入れず、転げ落ちるように坂道を下る。脚が限界を訴えようが、今だけは知らないふり。後の筋肉痛を躊躇ちゅうちょすることなく、ペダルを回し続ける。

瞬間、視界が一転する。カーブに差し掛かった刹那、身体が宙に飛んだのだ。慌てて受け身を取ろうとするも、文化部が方法を知る由もない。頭をかばうようにしながら、アスファルトへ一直線。右半身が完全に擦りむけて、血がそこからボタボタと流れ出す。痛い、痛い、痛い。冷えた風が傷にしみる。鈍痛が体全身を駆け巡りながら、それでも自転車を立て直す。

「ちょっと、大丈夫ですか先輩!」つないだままにしてた電話から、久乃の心配が聞こえる。

「万事OK。それよりも、右向いてみな」

「ほぇ、右…?って、えぇ!?」

久乃がまたとなく大きな声で驚く。それはそうだ。ベンチに座っていただけなのに、視線をやった先には、半身が血まみれで、服もボロボロ、頭には砂がついた知人が屹立しているのだから。

「本当に大丈夫ですか!?」

「もちろん」

横にある自販機で水を2本買いながら答える。それから、水を血まみれの部分にかけて、治療する。

「それで、本題に入ろうか」

「ちょっと、先輩、そんな状態で人の心配を!?」

「用件には関係ないだろ」

「それはそうですけど…あははっ、やっぱ先輩って、変ですね!」

屈託ない笑顔で俺を指差す。

「あははっ、あはっ、あは、はぁっ…」

「…」

「…ごめんなさい、先輩。こんなことに巻き込んでしまって」

「いや、全然気にしないよ」

「でも、申し訳ないです。本当に、本当に」

うつむいて、顔を隠す。冷たい夜風が吹く。近くの時計は11:57を示していた。

「…これは、私が望んだことなんです」

重苦しい雰囲気の中で、口を開き、語り始める。

「おじいちゃんの葬式で、おばあちゃんの介護は誰がするかの押し付け合いになって…。親戚の誰もが、介護をしたがらなかったんです。それはそうですよね。どう考えても、負担ですし」

次第に鼻声になりながら、絶え間なく言葉を続ける。

「誰かが責任を担わないと、終わらなかったんです。私はおばあちゃん子だったことをみんな知っていました。だから、その役割を担うのは、私だと。その場にいた全員が考えていました」

―――私は手を上げました。『私が、やります』

「正しいことを選んだんです。…どうですか。先輩。笑える話でしょ?」

顔を上げ、涙声で問う。そこにはいつもの"明るい"久乃はいなかった。ただ一人の、か弱い女子がそこにいるだけだった。

きっと彼女は大人よりも大人だったのだろう。思い返せばそうだ。部活や遊び、果ては何気ない日常会話でさえ、彼女はいつだって「悩みのない快活な少女:久乃」であり続けた。その場で求められる役割を演じ、誰よりも空気を読んで、誰よりも周りに従ってきた。いわゆる、アダルトチルドレン。

それ故、気づいてしまったのだろう。本当に暗い部分の濁った感情に。

だからこそ、俺は言わなければならないのだ。息を深く吸って、反駁する。


「それは詭弁だ」

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