第7話 ANS

「―――えっ…?どういう、こと?」

意表を突かれた、そんな目を久乃はする。その顔には、涙の引きずった跡。それを視認した俺は、また舌を噛むようにした後、息を吸った。

「言葉の通りだ。お前の論理は詭弁でしかない」

肺の中の冷えた夜を、かき消すように。自らの心臓を鼓舞する。

「まず、『皆が求めていたから、これは正しいことである』。これは『皆』が論理的に同値もしくは包含関係にあるという根拠がないため、演繹となりえない。すなわち、多数論証である。ゆえに、正当性を吟味しなおす必要がある」

滔々と、とめどなく反論する。

「そうなると、面倒事を引き受ける理由となった論理、『祖母のことが好きだったから、祖母の介護をすべきである』に注目すべきだ。しかし、これも理解に苦しむ。瑕疵がざっと見ただけで2つある。1つ目は、これが伝統に訴える論証である点だ。今回の論証にこの観点から、『人の感情は恒久的に不変というわけではなく、常に変わるものである。今日、祖母は好きだからと言って、明日も明後日も好きであるとは必ずしも言えはしない』という反論ができる。2つ目は、ヒュームの法則に反している点だ。~であるという命題から~すべきという命題は導き出せない。故に、この論理は立派な詭弁と言えよう」

人通りもほとんどない時間だ。街灯にはハエが数匹たかっている。

「しかし、論理が詭弁であると証明されたからとはいえ、この結論が誤りであるということが証明されたわけではない。重要なのは―――」


刹那、息が詰まるような感じがする。気管に鋭い風が入り込む。喉に刃物を突き立てられたような感覚。

俺は、考えてしまったのだ。今から言おうとしていることは、久乃のあり方、生き方、さらには人生さえも否定してしまうのではないか。反駁を止めてしまったが最後、その疑念が胸の根にしがみついて離さない。完全に自分の思考が塞がれてしまった。


その時、目が合ったんだ。

二つ一組の目。その目にはあまりにも年齢に不相応なほど、不安定で、未成熟で。


背を押された、そんな気がした。義務感とでも、責任感とでも、どうとでも形容できよう。もう声はとうに枯れている。もはや自分を動かすものは意地だけであった。

弁駁を締めくくる最後の言葉は―――

「―――重要なのは、久乃がどうしたいか、だ」


――――――


私、末石 久乃は、どんな時でも「末石 久乃」だった。皆が見ている、明るく、運動が好きで、社交的で、友好的で、陽キャな久乃を演じ続けていた。

それは無意識に染み付いた癖のようなもの。身の丈以上のハリボテを作って、私はその陰に入って、はい、それで満点。

ずっとそうやってきた、はずだったのに。

ある時、自分の人生が惰性になっていたことに気づいた。いつそうなったのかはわからない。強いて言うならば、きっと初めからだったのだろう。

「久乃」を演じるのに必死で、そこに自由なんて無くて。

ずっと誰か、誰かって叫んでた。


――――――


「っ…ぅっ、うわあぁぁぁん!!」

目の前で泣き出す久乃。それを見て狼狽する俺。

口から白い息が浮かぶ。静寂があたりを包み、風の音さえ聞こえない。

世間から隔絶された少女の葛藤が、夜に反響した。

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