第一話 アリアドネ(16)
エレベーターのドアが閉まると同時に、和弘が拳銃を下ろす。
ストッパー替わりにしていたカーキ色のモッズコートを引っ張ったまま、それを抱きしめるようにして、春花は奥の角に背中を押しつけるようにしていた。
「ふぅ」
和弘が安堵するかのように息を漏らす。
だけど、その表情は一切の変化を見せない。
「怪我はないか?」
おどおどしていた春花に、和弘が視線だけをこっちに向けてきた。
「は……はい」
何が起きているのか理解することができずにいた春花は、ただ聞かれたことに答えることしかできず、色々と聞きたいことがあるはずなのに、それを口に出すことができないでいた。
信じられないことが目の前で起きて、耳を劈くほどの発砲音に心臓の動悸がおさまらず、エレベーターのドアが閉まって初めて、春花は体じゅうの力を弛緩させることができた。
腰が抜けて、座ったまま立つこともできない。
そうしているうちに、思い出すのは美鶴のことだった。
「う……ぅ……」
最後まで春花のことを心配してくれていた。
だけど、そのせいで……死んだ。
あまりに非現実的な殺され方に、美鶴が死んだという実感がない。
だけど、現に美鶴はここにはいない。
代わりにいるのは、知らない青年。
美鶴に感じていた信頼感や安心感がない。
それが、春花の心を凍えさせた。
「ぅ……うぅ……美鶴……さん……」
涙が零れる。
声を抑えようとするも、何度もしゃくり上げ、そんな姿を見られたくなくて、自分自身を抱きしめるように体を丸くした。
「美鶴……」
その声に、春花は顔を上げた。
美鶴の名前を呟いたのは、和弘だった。
「彼女はもう……死んでいる」
「――ッ!」
その言葉に、春花は頭に血が昇ったのを感じた。
まるで美鶴のことを侮辱しているように聞こえて、春花はなんでもいいから言ってやろうと思った。
「……」
だけど、それを言った張本人が、まるで美鶴の死を悼むように視線を伏せているのを見てしまった春花は、昂った感情が急激に冷めていくのを感じ、浮かしかけていた尻をぺたんと床におろした。
エレベーターが一階で止まり、ドアが開かれる。
立ち上がって横壁に体を寄せた和弘が、フロアへ銃口を向ける。
「
その言葉に従うように、春花は緩慢な動きながらもなんとか立ち上がった。
その際、膝にかかっていたカーキ色のモッズコートが床に落ちる。
「あっ……」
拾おうとした春花が身をかがめようとすると、先に手が伸ばされた。
和弘がモッズコートを拾い、それを春花へと差し出してきた。
「外は冷える」
モッズコートを受け取った春花は、さっきの戦闘で汚れた白いTシャツにジーンズという極めてシンプルな恰好をする和弘を見やった。
和弘の方が寒そうに見えるが、春花はその言葉に甘え、モッズコートを羽織った。
大きめのモッズコートは、袖を通すと手が隠れてしまうくらいで、裾も膝上まできていた。
そんな大きなコートに、まるで目の前の和弘に包まれているような感覚がして、春花は妙にくすぐったい気持ちになった。
「行くぞ」
「はい」
彼が誰で、どうして自分を助けてくれるのかは分からない。
だけど、今はただ、従うしかない。
それしかないから。
(でも……)
少しだけ、この人のことを信じてもいいのではないかと春花は思うようになっていた。
どうしてかは分からない。
だけど、初めて会った気がしないのだ。
拳銃を構えてエレベーターから出る和弘の背中についていく春花は、その背中に頼もしさを感じていた。
※
エレベーターのドアが閉まると、亮介はオートマチックを構える腕を下ろした。
スマホを取り出し、耳に当てる。
「奴が一階におりた。土屋、秋月、それに日野もやられた。油断はするな。残るは、お前と雨宮だけだからな」
スマホの通話を切る。
「呼んだ?」
女の声が背後からした。
「雨宮……ようやく戻ってきたか」
「ごめんごめん」
謝っているが、陽気にも取れる声音は相変わらずだった。
「それにしても、あんたが標的を逃すなんてね……」
その物言いに、亮介は振り返った。
「それとも、見逃した?」
アステリオスでも紅一点となった雨宮が、かすかな月明かりを背に、黒塗りの表情でも分かるほどに、口角を釣り上げて見せた。
嘲るのとも違う、妖艶な笑み。
「アリアドネ作戦はまだ終わっていない」
その言葉に、どこか余裕ぶって見せていた雨宮の表情が消えた。
「相馬をおびき出すことが目的だったはずじゃ?」
「それは作戦のフェーズ1だ。和弘が
「そんな話、聞いてないけど?」
ほんのわずかな、怒気。
「どうした? 作戦の内容など、
「……」
そう言われては、雨宮も何も言えなくなるだろう。
「アリアドネ作戦の目的は?」
それでも訊いてくる雨宮に、亮介は内心でほくそ笑んだ。
「アリアドネ作戦の
それは――と亮介は口角を釣り上げ、
「
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